第37話
尻をつく俺の前で、フィオスが剣についた血糊を鬱陶しそうに払う。空中で弧を描いた剣先が妖しく光り、俺の胸の中心へと向けられる。
「交渉が決裂したのであれば、あなたを生かす理由はもうありません」
フィオスの温和な表情が南極の氷みたいに凍りつく。アビーさんにしたように、その剣で俺も刺し殺すつもりなのか。
この冷徹な男から早くはなれないと、まずい。だが金縛りに遭ってしまったのか、身体が全然動かない。
フィオスが冷然と一歩を踏み出す。その表情に人間的な温かみは感じられない。
くっ、動け、俺の身体! この緊急時にどうして動いてくれないんだっ。ふるえる手で床を押し出してみるけど、腕にも力が入らない。
「さらばです」
フィオスがさらに一歩を踏み出して剣を持ち直す。腕の振動に柄から嫌な金属音が発せられる。
――殺される。
「アンドゥ下がって!」
セラフィの声が突然聞こえて、その直後に高速な何かが俺の頭の上を過ぎった。
それはフィオスを目掛けて、まっすぐに突撃する。フィオスは、「くっ」と顔を歪ませて、その生物の攻撃をかろうじてかわした。
緑色の翼をもつ、化生のラウルだった。セラフィが化生術で具現化したんだ。
ラウルが白い空を旋回してセラフィの元へと戻る。ラウルの頭を優しく撫でると、セラフィはフィオスをびしっと指さした。
「フィオ! よくわからないけど、なんでこんな酷いことするの!? 悪い子にはお尻叩きの刑なんだからねっ」
お尻叩きはないだろ、と欠かさず突っ込みを入れている場合じゃない。セラフィが俺の窮地を救ってくれたんだ。
俺は力の入らない腕で床を押し出して、なんとか端へと避ける。セラフィが「行って!」とラウルの首のあたりをさすると、ラウルがジェットコースターのような速さでフィオスに突撃した。
これにはフィオスも舌を巻いているようだ。
なにせ小型のジェット機に突撃されているんだからな。一撃もらっただけで致命傷だ。
「やれやれ。セラフィーナ王女のお戯れには困ったものですね」
フィオスはわざとらしく肩をすくめているが、全然困っている感じじゃなかった。言うなれば、聞き分けの悪い妹に呆れている兄みたいな態度だ。
そして何かを閃いたのか、ぽんと手をあてて言った。
「そういえば、エレオノーラの後継者はセラフィーナ王女お一人だけでしたね」
セラフィの顔色がぞっと青くなった。フィオスはあくどい表情で口もとをゆがめて、
「わざわざ天穹印なんて破壊しなくても、最初から王女を弑逆していればよかったんじゃないですか。私としたことが、ふふ。こんな簡単なことを見落としてしまうなんて、策士として失格です」
そう言って、漆黒の剣をセラフィに向けた。や、やめろ!
フィオスは俺とセラフィを交互に見て口を開いた。
「唯一の後継者であるお方が、ある日突然暗殺されてしまいました。さて、その国の未来はどうなってしまうのでしょうか」
まるで快楽殺人犯のように言い放つフィオスを前に、セラフィが身体を固まらせている。顔は真っ青で、唇まで青くなっている。
このままだと、セラフィが殺される!
「というわけで、お命頂戴いたします!」
フィオスが漆黒の凶刃を引っ下げてセラフィに襲いかかる。セラフィは、だめだ! 全然反応してねえ。
俺はちょうど二人の間にいるが、さっきから足がしびれて動かねえ!
フィオスがあざ笑いながら空高く跳躍する。剣を両手で掲げて、セラフィを頭から真っ二つに両断する気だっ。
くっ、動け。動いてくれ俺の身体! ……ああ! このままだと、セラフィが、セラフィがあ!
俺は怖くなって、目を閉じてしまった。
だが、しばらくして聞こえてきたのは、セラフィの悲鳴じゃなかった。がきんと堅い金属音がドームに甲高く鳴り響く。
「貴様、何をしている。貴様はセラフィーナ様のボディガードなのではなかったのか」
次に聞こえたのは、いつもの口うるさい小言だった。この存外かつ倣岸な態度をとる女は、俺が知るかぎりひとりしかいない。
「シャロ!」
セラフィに斬りかかるフィオスの剣を、シャロが鞘で受け止めていた。剣の柄と鞘の端を持って、片膝を立てた状態で身体を緊張させている。
まさに間一髪だったのだ。
想定外の援軍の出現に、フィオスが反射的に後退する。その隙を突いてシャロが瞬時に抜刀――エクレシアの銀色の剣閃が真横に伸びて、フィオスの胸部を斬りつけた。
「セラフィーナ様を安全なところへ!」
シャロが大喝すると、近くのおっさんたちがはっと我に返って、セラフィの元へと駆け寄っていく。
シャロはエクレシアを収めると、俺の方へと駆け寄ってきた。腰を抜かしている俺の脇に腕を通すと、その細腕からは想像できない膂力で俺を抱き起こした。
「アビーを治療室にあずけたぞ」
シャロが透き通るような碧眼で俺をまっすぐに見やる。高価なシャツは真っ赤な血で汚れている。
「事情は途切れ途切れだが、アビーから聞いた。そして先ほどの行為ですべて納得した」
そしてフィオスをにらみつけて、抜刀術の構えをとった。
「官吏の分際でセラフィーナ様に剣を向けるとは、言語道断。貴様の反意は、もはや火を見るよりも明らかだ。よってわたしが、陛下に替わって貴様を成敗する!」
その精悍な声は、この場にいる男どもを圧倒する力があった。
シャロは、巨大な幻妖をひとりでまとめてたおしてしまうほどの実力者だ。こんなに心強い援軍は他にはいねえ!
フィオスはわずかに消沈したのか、だいぶはなれた場所で肩ですくめた。
「できれば、あなたとは相対したくなかったんですがね。ですが、こうなることは想定の範囲内です」
そして静かに息を吐いて、剣を持ちなおした。
「返し言葉になるが、わたしもいずれ、こうなるのではないかと思っていた」
「なんですと?」
「貴様が、ベネット殿に憑依したプレヴラを刺したとき、えも言われぬ悍ましさを感じた。プレヴラを体外へと出すためとはいえ、同胞をあのように刺せるものかと、ずっと疑問に思っていたのだ」
シャロが擦り足で一歩近づく。
「貴様は一体何者だ。だれに言われてセラフィーナ様のお命を狙ったのだ。……言え。すべてを白日のもとへと晒せ」
「ふふ。さすがはシャーロット殿。先のことまで見すえておられるとは、大した炬眼です。そんなあなたに敬意を表して、私を捕まえることができたら、すべて教えて差し上げましょう」
フィオスは悪辣な笑みを浮かべて、禍々しい剣先を光らせた。