第34話
地下へとつづく階段を一段飛ばしで駆け下りる。地下二階から地下牢のフロアになるけど、そんなものは全無視だ。
天穹印の間は、前に一度セラフィと行っているので道はわかっている。地下七階に非常扉のようなものがあって、そこからさらに階段を下った先にあるのだ。
最下層まで降りると、ゆるやかにカーブしている廊下にさしかかる。ここを道なりに進んで、途中の左側のわかれ道に入れば天穹印の間だ。
地下の廊下を走りながら、確信めいたものを感じていた。フィオスの推測が正しければ、そしてイリスの術法が万能なものなのであれば、アビーさんはきっと天穹印の間にいる。
アビーさんはあのとき、隠れてなんかいなかったんだ。俺たちの目の前で堂々と姿を変えて、正面からペンダントを盗んでいったんだ。
長い廊下を息が切れるくらいまで走ると、T字路にさしかかった。迷わず左折すると、すぐに突き当たりの扉にたどり着いた。
扉――正式名称は天穹印の扉だ。この扉は、前に来たときには閉まっていた。だが、
「扉が開いている。やはり、私の思った通りのようですね」
後ろにいるフィオスが、嘲るようにつぶやく。
扉を抜けて天穹印の間に入る。
入るとすぐにスマートフォンのような形をしたスレートがあって、それに刻印を描くとリフトを操作することができる。
その刻印は王家の人間しか知らない。だから、きっとそこに――。
「アンドゥ、さま」
いた。宙に浮くスレートの前に、アビーさんはいた。
「やっぱり、そうだったのか」
アビーさんを見た瞬間、急にめまいがしてたおれそうになる。けど、足に力を込めて俺は堪えた。
どんな方法でやったのかわからないが、アビーさんは変化の術みたいなものをつかって犬に変化したのだ。後宮で発生した煙は、きっと術をつかうときに発生するものなのだろう。
犬に変化してセラフィからペンダントを奪い、そしてまっすぐにここに来た。ただ、それだけのことだったんだ。
そうすれば、前に王宮の外でアビーさんを追ったときの状況も説明できる。
俺は脱力する身体を起こしてアビーさんを見た。アビーさんは、すごく悲しそうな顔をしていた。
「どうしてだ。……どうして、こんなことをしたんだよ」
問いかけてもアビーさんは答えてくれない。つぶらな瞳には、たくさんの涙が溜まっている。
なあ、どうしてそんな悲しそうな顔をするんだ。
「上では官吏たちが死に物狂いでアビーさんを探してる。あいつらに捕まったら、きっと牢屋に入れられて、きつい尋問まで受けさせられちまうんだ。……セラフィが大事にしてるペンダントなんて盗んじまったら、こうなることくらいわかるじゃんかよ」
胸の真ん中が痛みでずきずきする。
俺が一歩を踏み出すと、アビーさんは反射的に後ろに下がる。警察に追い込まれた犯人みたいに。
ああ、つれえよもう。
「なあ、たのむ。セラフィのペンダントを俺に返してくれ。今だったら、まだ土下座すれば間に合うって。……アビーさんだって、きつい拷問なんて受けたくないだろ? なんなら、俺もいっしょに土下座するから、だから――」
「ごご、ごめんなさいっ!」
アビーさんが溜まりかねて声を張り上げた。大きな目に溜まった涙は……ああ。流れちまった。
俺はまたアビーさんを泣かせてしまった。
「わたしには、わたしには……こうするしか、なかったんです! だから、だから……その……」
アビーさんは必死に言葉をつなげようとしているけど、涙声のせいでうまくつながらない。
だめだ。こんなのもう直視できねえよ。目頭のあたりが、だんだんと熱くなってきて、息をするのがつらくなってくる。
両手で顔を覆ってアビーさんは泣きじゃくっている。その様子を茫然と眺めて、なんて説得すればいいのかわからなくなってくる。
女の子の泣いている姿なんて見たくないけど、仕方がない。彼女が泣き止むまで、ここで待っていよう。
そう思っていたのだが、
「ひっ……!」
アビーさんの悲痛な表情が、一変した。
涙で頬を濡らしているのに、俺の顔を見て顔を引きつらせたのだ。
言うなれば、殺人犯に包丁を突きつけられているような、絶体絶命のときの表情だった。肩までがたがたとふるえ出してるし、どうしたんだよっ。
「ご、ごめんなさい!」
アビーさんが逃げるように後ろのリフトに飛び乗る。どうやって操作したのかわからないけど、リフトは準備していたように後ろで制止していた。
そしてゆっくりと下降をはじめて、リフトは天穹印の部屋へと降りていってしまった。
俺もわれに返って、床の端から下を見下ろす。別のリフトは近くにないので、アビーさんを追うことはできない。
ああくそっ、リフトだ。リフトを操作しないと、アビーさんを止められないじゃないか!
「ユウマ殿、そんなところにいたら、誤って転落してしまいますぞ」
そこでフィオスが声をかけてきた。そういえば、お前もいたんだったな。
「待ってください。リフトを操作しますので」
フィオスは自信なさげにスレートの画面をタッチする。白い指を動かして、刻印を描きはじめた。
フィオスの慣れない手つきを、俺はただ茫然とながめていた。けれど、とんでもない違和感が足もとから急にあがってきて、背中におぞましいものを感じた。
「なんで、天穹印の部屋の刻印を知ってるんだ? それはセラフィと陛下しか知らないはずだぞ」
アビーさんもリフトを操作していた。なんで、あんたたちは当たり前のように刻印を知っているんだ?
フィオスはスレートの操作に悪戦しているのか、俺に目を向けずに言った。
「この刻印は、以前にセラフィーナ王女から教えていただいたのです」
刻印を描き終えると、しばらくしてリフトがあがってきた。フィオスが颯爽とリフトに飛び乗る。
「何をしておられるのです、ユウマ殿。あなたも早くお乗りなさい」
ちっ、何が一体どうなっているんだ。
* * *
焦る気持ちを無視して、リフトがゆっくりと下降していく。
三分、いや、もっとかかってたんじゃないのか? そのくらい長い時間を待って、ようやく天穹印の部屋に到着すると、部屋の真ん中でアビーさんが待っていた。
「アンドゥさま」
その後ろには、ガスを貯める球形のガスホルダーみたいな天穹印がたたずんでいる。ぐるぐるとひとりでに自転して、原色の刺激的な光を放ちながら。
天穹印の光を背に、アビーさんが悲しそうな顔を向けている。その儚げな表情は、もう絵画にしたいくらいきれいだ。けど……。
俺が近づこうとすると、肩をびくっと反応させて、俺からはなれようとするんだ。助けを求めていそうな顔をしているのに。
「俺は、どうすればいいんだ。あんたからはなれた方がいいのか? 俺に近づかれるのは、迷惑なのか」
俺の重い口から怖い言葉が漏れる。
でも、迷惑しているんだったら、言ってほしい。……正直に。傷ついて立ち直れなくなってもいいから。
理由もわからずに避けられるのだけは嫌なんだ。
「それは――」
アビーさんも重い口を開く。俺の心臓が、パンパンに破裂しそうなくらいに膨らんでいるのがわかる。
……怖え。
今すぐこの場から逃げ出したい。けど、それはできない。静まり返る空気が、緊張する俺に追い討ちをかける――。
そう思っていたときだった。パンパンと手を叩く、緊張感のない音が後ろから突然聞こえてきた。