第2話
俺は安藤悠真。この前、高校受験という名の戦争に生き残った高校一年生だ。
歳は十五。身長はクラスの背の順でまん中ちょい後ろに並ぶくらい。
体重もまあ平均くらいかな。身長から百十の数値を差し引いて測量するという、如何わしい平均体重の計算結果と同じくらいの数値だからな。
血液型はA型。趣味は読書、と言うと普通だから、ネットサーフィンあたりにしておこう。
俺のありきたりな個人情報を公開しても意味はないので、現実逃避はそろそろ終わりにして本題に戻ろう。
俺はなぜベルギー王室にいて、薄紫色ウィッグ被り女に押し倒されそうになっているのか。
何が一体どうなっているのか、朝から順に記憶を辿ってみよう。
今日――高校に入学してしばらく経った、ゴールデンウィーク前のうら暖かい日のことだった。俺は急いでいた。
母さんが俺を起こしてくれなかったから、朝の出発時間の三分前まで寝坊するという大失態を犯してしまったのだ。
枕元の時計を見て、俺はお先が真っ暗に感じるくらいに焦った。即行で制服に着替えて、寝癖を直す間もなく家を飛び出した。
そこまでは至って平凡だった。SNSの日記でわざわざ公開するほどのことではないな。
その後だ、異変が起きたのは。
すごい急いでたから、実はよく覚えていないのだが、地元の駅に向かって爆走していたんだと思う。高校はふたつ離れた駅にあるから。
やべえ。このままだと電車の出発時間に間に合わねえ。と、たぶんそんなことを考えながら、スマートフォンの時計をちらちらと見ながら、とにかく真面目に走っていた。
そのときだ。地面がいきなり真っ暗になって、俺は慌てて顔をあげた。時間を見てたからよくわからなかったけど、気づいたときには暗闇の中に閉じこめられていたんだ。
暗闇といっても、その定義は人によって違うと思うから、ここはちゃんと説明した方がいいか。
一言でいうと、もう完全に真っ暗だったのだ。明かりのない洞窟の中とか、布団を頭からすっぽり被っているときのような感じだった。
俺は死んじまったのかと思ったな。星のない宇宙空間みたいな場所にいきなり連れてこられたんだから。
ひと昔のアニメによく出てきた感情無し無表情女だって、あんなのを食らったら眉間に皺くらい寄せるさ。
暗闇の中でびくびくしていると、地面が突然なくなって、俺の身体が真っ逆さまにダイブ。サスペンスで犯人に突き落とされる被害者を模したダミー人形みたいに落っこちて――。
気づいたら、見知らぬ世界に迷い込んでいたんだ。
* * *
「きみは幻妖なの!? 見た目は普通の人とあまり変わらないけど」
コミックマーケットの帰りと思わしきコスプレ女が、ぐいぐいと近寄ってくる。
表情はものすごく生き生きしていて、まるでクリスマスに新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいな顔をしている。
「えっと」
よくわからないけど、人間かどうかを疑われているみたいだ。「未来から来た猫型のロボットです」と、ぼけてみてもいいが、開口一番ですべったらきついな。
面白くないけど、ここは無難に返答しておこう。
「その、人間だけど」
「じゃあどこから来たの!?」
コスプレ女がさらに顔を近づけ――だ! だから、お前は距離が近いんだって!
なんで逆に襲われそうになってるんだよ。
「どこって、俺の住所は、東京の西の方だけど」
「とうきょう?」
すると今度は、嬉々とした表情を固まらせて首をかしげた。
「とうきょうってどこ?」
「東京は、えっと日本の首都だけど」
「にほん?」
コスプレ女はさらに首をかしげて、顔の角度が床と水平になるんじゃないかというくらいまで首を曲げて、
「どこそれ知らない」
棒読みで言った。大根役者みたいに。
「はあ? なんで知らないんだよ。日本は絶対に知ってるだろっ」
「えー、だって知らないものは知らないもん」
コスプレ女は俺から離れて、駄々をこねるがきみたいなことを言ったが、突然何かを思い出したように、
「もしかして知られざる大陸!? あたしたちの知らない未知なる大陸から呼び出された異人さんなのもしかしてっ!」
ソプラニーノ・リコーダーみたいな声を発してまた近寄ってきた。わかったからお前は少し落ち着け。
朝からなんてテンションの高い女だ。こっちは南極の氷みたいに足の先から脳天まで冷え切ってるっていうのに。
「俺からも二、三、聞きたいことがあるんだが」
「なーに?」
「その、お前は一体だれなんだ。あと、ここはどこなんだ?」
「だれって、あたしの名前を言えばいいの?」
コスプレ女が自分の顔を指す。
「あたしはセラフィーナだよ。イサベル・セラフィーナ・ラ・アーシェラっていうの」
ほほう。ここはやはりベルギー王室だったのか。
いやいやちょっと待て! セラフィーナって、めちゃくちゃ外人の名前じゃないか。
東京生まれの純日本人である俺に、いつからそんなグローバルな知り合いができたんだっ。
「あ、セラフィーナだと言いづらいと思うから、セラフィって呼んでね」
セラフィさんは何を勘違いしたのか、俺に気を利かせるように言ってきた。そこはいいよ。おいおい検討していくから。
「俺が気にしているのは、そんなことじゃない」
「えっ、じゃあ何?」
セラフィさんは、ああ、もう面倒だから呼び捨てでいいか。セラフィは、なにこの細かい人、めんどくさいなあという顔をしている。
突っ込みたいところは他にもたくさんあるが、ここでいちいち立ち止まっていたら話が一向に進まなそうだ。
「セラフィが外人だというのは、概ね納得したとして」
「外人って?」
「じゃあ次に、この部屋は一体どこなんだ。ここが実はどっかの国の王宮で、ここはあたしの部屋なの、とか、そんなわけのわからないことは言わないよな?」
「えっと、その通りなんだけど――」
「その通りなのかよ!」
つい関東のお笑い芸人みたいな突っ込みをしてしまったが。
「えっ、マジなのか?」
「うん、マジだよ」
セラフィがにこにこと少し意地悪い笑顔を浮かべて、
「ここはエレオノーラの王宮、アリス宮殿」
と言った。そして困惑する俺の前で両手を床について、その子猫のように愛くるしい顔を近づけた。
「あたしはこの国の王女なのっ!」