第15話
扉の向こうには白い空間が広がっていた。
中は意表を突いて体育館みたいに広い。いや、この広さは体育館なんてものじゃないぞ。武道館やサッカー場くらいはあるんじゃないか?
王宮の地下に、こんな広い空間があったなんて。
異様なのは広さだけじゃない。空間全体が白のペンキで塗りたくったみたいに真っ白だ。壁も床も、天井までもすべて。
床だけはわずかに色がくすんでいるから、足場を識別することはできる。けど壁と天井はだめだ。見分けが全然つかない。
まるで美術の抽象画の中の世界だ。絵画なんて俺は全然知らないから、それ以上の適切な描写は説明できないけど、とにかく絶句してしまうくらいに異質な空間だった。
「驚いた?」
セラフィが俺をまた下から見上げてくる。
「ここはね、天穹印の間っていうんだよ」
「天穹印、の間?」
「うん。天穹印は大陸を浮かせてる、とっても大事な刻印なの」
その刻印がこの世界の中心なのか。
「でも刻印なんて、見わたすかぎりどこにもないぞ?」
「うん。だから、これから案内してあげる」
セラフィが自信たっぷりに言い切ったので、黙ってついていくことにしよう。
それなのに床はすぐに終端を迎えてしまった。この天穹印の間は、空間がやたらでかいくせに床は六畳分くらいの広さしかないのだ。
空間がこんなに広いのに、どうして床がひと部屋分くらいしかないんだ? 空間の法則がみごとに無視されているが。
けれど床の端から底を見下ろして、この空間設計の意味がわかった。
床の下は、奈落の底になっていた。すごく高い崖の上から谷底をのぞきこんでいるような感覚だが、底がどこにあるのか判断できない。底も壁と同じく白一色だから。
替わりにあったのは、浮遊大陸のように浮かぶ無数の部屋だった。壁のない床の上に、テーブルや本棚の置かれたフロアが空間のあちこちに浮かんでいる。
なんて神秘的な光景なんだ。この世界は部屋まで浮いちまうのか。
フロアのまわりには、ひとりでに浮遊するリフトがゆっくりと移動している。各フロアを行き来するために使うものだろう。
「すごいよね、ここ」
気づけばセラフィがとなりでしゃがんでいた。
「あたしも、初めて来たときにびっくりしちゃった。だってお部屋が浮かんでるんだもん」
「それを言ったら、島が浮いてるのも俺にとっては驚きだけど」
「ええっ、そんなことないよー。だって、大陸が浮いてるのは、天穹印があるんだから当たり前だもん」
あちらの世界では完全にあり得ない理屈だけどな。
「じゃあ、その天穹印が部屋を浮かせてるんじゃないのか?」
「うーんと、そうなのかな? あたしにはちょっとわからないけど」
ここで話していても意味はないから、天穹印を早く見にいこう。
「下に降りれば天穹印があるフロアまで行けるのか?」
「うん! リフトを持ってくるから、ちょっと待ってて」
セラフィは嬉しそうにうなずいて、そばで宙に浮いているスマートフォンみたいな小さい板を指で操作しだした。
おっ、なんだこれ。形状がマジでスマートフォンに似てるぞ。
ディスプレイだけで、他のボタンがついていないスマートフォンだ。浮いているのは、やはり天穹印の力のせいか?
セラフィがその板の表面に指で刻印を描いている。
「それは、下のリフトを操作するデバイスか何かなのか?」
「うん。行きたいお部屋に対応している刻印をこのスレートに描くとね、下のリフトが上がってきて、お部屋に連れてってくれるの」
スレートという名前なのか。なかなかしゃれたシステムだ。
刻印の入力が終わると、畳四畳分くらいの大きさのリフトが下から上がってきた。さっきは遠くから見下ろしていたから小さく感じたけど、間近で見るとリフトは意外と大きい。
リフトにそっと足を乗せると、リフトはゆっくりと降下しだした。
スピードはエレベーターよりも全然遅い。速すぎると落ちる危険性があるから、設計者は安全性を考慮したんだろうな。
俺のまわりを色んな部屋が過ぎっていく。書斎のように本棚がたくさん置かれている部屋や、ハンモックみたいなベッドが空中にぶら下がっている部屋。
それに、金銀財宝が山のように積まれている部屋が向こうの方にあるぞ。なんだあれ!?
これはさすがに我慢できないぞっ。
「他の部屋には行けないのか?」
セラフィに思い切って訊ねてみると、こいつは申しわけなさそうにうなずいた。
「あたしが知ってるのは天穹印の部屋の刻印だけだから、他のお部屋には行ったことがないの」
「そうなのか」
俺の肩が残念な気持ちでぐったりと落ちる。
つい欲に目がくらんでしまったけど、邪な考えをもっちゃいけないか。しかし、残念だなあ。
でも、それならどうしてセラフィは、天穹印のあるフロアの刻印だけ知っているんだろう。
「じゃあなんで、天穹印の部屋の刻印だけ知ってるんだ? そこは他の部屋よりも重要な部屋なんだろ?」
「うん。あの刻印だけは、お母様が教えてくれたから」
セラフィが急にテンションを下げてうつむく。まずいことを切り出しちまったか?
そういえば、セラフィの母さんって見たことないな。戦士系の親父さんにはこの前謁見したばっかりだけど。
「母さんはいないのか?」
「うん。あたしが小さかったときに、病気で死んじゃったから」
そうか。俺としたことが、これじゃあ近侍失格だな。
王宮の大広間のようなフロアに到着して、リフトが音を立てずに制止する。
フロアの奥に、ウォーターボールみたいな球体が浮いている。人が中にすっぽりと入れてしまうくらいに大きくて、さらに表面がセロファンみたいな半透明の物質で覆われている。
近くで見てみると、その球体は高速で自転していた。七色に瞬間的に色を変えながら、表面に大きな刻印を映して。
その刻印も、秒単位の間隔でせわしく書き換わっているから、じっと凝視しているとなんだか頭痛がしてきそうだ。七色の光もほぼ原色だから、長時間見ていたら健康によくないかもしれない。
「これがエレオノーラの最深部。天穹印だよ」
セラフィが笑顔をとり戻して言った。
「あたしとお父様、王家に生を受けた人は、先祖代々からこの天穹印を守護する役をイリス様から仰せつかってるの」
イリス様というのは、天空神と呼ばれている存在か。
「それでね、天穹印は周囲の島を浮かせる力をもってるから、エレオノーラの周辺の小さい島も空に浮かぶことができるの。他にも雲海をつくって、温度調節もしてくれてるんだって」
なるほど。つまり雲で太陽の光を反射させて、大陸を温めているんだな。空は陸地よりも大分寒いはずだから。
そうすると、酸素なんかも発生させているのだろうか。高いところは酸素濃度が低いはずだから、高度の低い場所に比べて酸素が少ないはずだし。
そう切り出してみると、
「さんそ?」
セラフィは目をぱちくりして、「なにそれ知らない」という顔を向けてくる。
酸素の存在は、こちらではまだ発見されていないんだな。
でもこの天穹印というのはすごい物体だ。見た目はあまり健康的じゃないけど。
原色半透明の、スポットライトのカラーホイルみたいな膜の奥に、古代文明の粋みたいなものが詰められているのだろうか。
「感動した?」
セラフィが嬉しそうに俺の顔を見てくる。素直にうなずいておこう。
「ああ」
「ほんと!? 何したらアンドゥが喜んでくれるかなあって、ずっとわからなかったんだけど、喜んでくれてよかったあ」
そんなこと考えてくれてたのかよ。俺のことなんて気にしなくていいのに。
「でも、この天穹印って壊れたりしないのか? 壊れたら大変なことになると思うけど」
「うーん、どうかな。お父様は、定期的にチェックされているから絶対に壊れないって言ってたけど」
チェックねえ。でもいくら大事にしていても、物はいつか壊れるものだろ。この天穹印だけは例外的に壊れないのだろうか。
「仮にだけど、これが壊れたらどうなるんだ? やっぱり大陸は沈むのか?」
するとセラフィは唖然とした顔で、
「う、うん。多分」
せわしくうなずいた。
「俺、なんか変なこと言ってるか?」
「言ってる。そんなこと考えるの、アンドゥだけだよ。多分」
そんなことはないだろ。
「そうなのか? でも、物はいつか壊れるだろ。陛下やシャーロットだって同じことを考えてるんじゃないのか?」
「うーん。みんなもきっと、天穹印が壊れるなんて思ってないんじゃないかな。だって、あたしたちが生まれる何百年も前からずっとまわりつづけてるんだよ?」
そんな昔から稼働してるのか。この中央装置は。
「そんなに頑丈なのか?」
「うん。だって、あたしたちを支えてくれてる大事なものだもん。壊れちゃったら、多分みんな死んじゃうし」
その通りかもしれない。
ここで俺が天穹印に悪さをして、大陸の浮力を無効化させるようなことをしでかしたら、なんて考えただけでぞっとする。
天穹印はここで何百年もまわりつづけているんだから、急に動作を停止させることなんてないのだろう。天穹印のせわしく変化する色を見ながら、自分に言い聞かせた。




