第118話
――あなたたちには、心のケアが必要なようね。
オズワルドさんの去り際の言葉が、頭からずっと離れない。
俺たちは、精神的な治療が必要なほど傷ついているのか?
客舎のバルコニーから夜の森を眺める。
常夜灯のない森は漆黒そのものだ。けれど、虫や鳥の鳴き声が聞こえてくるから、ここにいるだけで心が癒される。
俺とセラフィは、イザードで起きた一件からあれこれと考えて、その結果、今は帝国のど真ん中で羽根を休めている。
今までの行動を思い返してみると、かなり向こう見ずだと思う。シャロやエレオノーラの人たちの迷惑を顧みずに、勢いでこんな遠い地まで来てしまったのだから。
俺たちは、病んでるのか? オズワルドさんの言う通りに。
エレオノーラでフィオスと対峙してから、かなりの流血を目の当たりにしてきた。
俺もセラフィも、流血の耐性なんてなかったわけだから、度重なる惨劇で精神を病むのは、むしろ普通なのかもしれない。
「あ、ここにいたんだっ」
背後から聞きなれた声がした。振り返ると、セラフィが青い髪の人――アイルティスさんを連れてバルコニーに入ってきていた。
セラフィは寝間着に着替えている。と言っても、桜色のワンピースみたいな衣装だったから、さっきと見た目は大して変わっていなかったが。
「部屋にいないから、どこに行っちゃったのかと思って心配したんだよ。もうっ」
セラフィが頬を膨らませている。その様子に、精神を病んでいる印象は感じられない。
「わりいな。ちょっと夜風に当たりたかったんだよ」
「アンドゥって、夜にお外に出るのが好きだよね。夜のお外って、そんなにいいかなあ」
夜に外に出てることなんて、そんなに多くないだろ。
そう思ったけど、エレオノーラの宮殿で夜の泉を眺めたり、イザードでこいつと夜に森を散策したことがあったな。
「夜風に当たってると、気持ちが落ち着いてくるだろ。だからだよ」
「ふーん。そうなんだあ」
セラフィが俺のとなりに来て微笑んでいる。とりあえず元気そうで、よかった。
「アンドゥ、最近元気ない?」
「は?」
「なんか、思いつめてる気がするよ。昔と違って」
そうなのか? 自分では、そんなふうに思っていないが。
「昔のアンドゥは、もっと適当っていうか、シャロにいっぱい怒られても、あんまり気にしてない感じだったんだけどね」
そうだな。昔は背負うものがなかったから、いろいろと気楽だったのかもしれない。
「それはお前も同じだろ。お前だって、最近元気ないんじゃないか?」
「そうかなあ」
「そうだろ。ビルゴスで捕まってたときなんか、終始、泣きそうな顔してたじゃんか」
冗談交じりで言い返すと、セラフィの顔にとたんに怒気が混じった。
「むぅ。アンドゥだって、わけわかんないことしてたじゃん!」
「わけわかんないことって、なんだよ」
「ほら、無理やり牢屋を抜け出そうとして――」
ばかっ! 脱獄しようとしてたことをアイルティスさんに聞かれたらまずいだろ!
電光石火の速さでセラフィの口をふさいで、アイルティスさんの顔を覗き込む。黒人のような顔に表情の変化は見られない。
アイルティスさんはバルコニーに入ってきたときから、出口の前で直立不動のままだ。そこに置かれた石像のように身じろぎしない。
「アイルティス、さん?」
この人、本当に生きてるのかな? せめて、息をしているのかどうかぐらいは確認した方がいいのかもしれない。
「この人、あたしが何を聞いても、全然しゃべってくれないんだよね。あたし、嫌いっ」
お前はこの手のタイプは好きじゃないだろうな。
「そう言うなって。性格や好みは人それぞれなんだから」
口を開きつつアイルティスさんの顔色をうかがうが、この人、無表情から微塵も変化しないな。
肌が黒いから、あちらの世界の黒人みたいな顔立ちなのだと思っていたけど、目鼻立ちのはっきりした、どちらかというと白人っぽい顔立ちだ。
「あの、こいつと、その辺を歩いてきてもいいですか?」
アイルティスさんの黒い顔に変化はない。しかし、しばらくして、後ろの扉から離れてくれた。
外に行ってもかまわないということか。
「じゃ、行くか」
「えっ、うん」
セラフィの手を引いてバルコニーを後にする。
「お外に行くの?」
「そうだよ。嫌か?」
「ううん。嫌じゃないけど、急だなと思って」
変態奇行王女を地で行くお前にしては、めずらしく尻込みしてるんだな。
「急に思い立ったんだから、しかたないだろ。なんとなく外に出たいんだよ」
「ふうん。そうなんだ」
客舎の外は月の淡い光に照らされていた。草木や泉が青い色を発している。
客舎と泉を覆う森は漆黒そのもので、虫たちの鳴き声が静寂と哀愁を感じさせる。
「どこに行くの?」
「そうだな。森の中に入るのは危険そうだけど、他に行く場所もないし」
あらためてみまわすと、泉の他には何もないな。街灯どころか、そもそも道すらないし。
なんとなく出てきたのはいいけど、行く場所が本格的にないぞ。
「そういえば、この客舎って、帝国の宮殿のそばにあるんだよな」
ロギスさんがそんなことを言っていた。
「そういえばって、宮殿に忍び込む気じゃないよね」
セラフィの疑心に満ちた声が後ろから聞こえた。
「そんなことはしねえよ。俺をだれだと思ってるんだ」
「アンドゥって、偉い人に失礼なことばっかりするから、信用できないんだもん!」
ずいぶんな言い方だな。失礼なことなんて、俺は一度も――いや、何度かやってるな。シャロとか、イザードのマリオ王子に対してな。
「アンドゥのそういうところ、あたし嫌いなんだから、ちゃんと反省してよね!」
「へいへい」
俺は精神的に病んでるらしいんだから、説教は勘弁してほしいぜ。
セラフィが泉のほとりでしゃがみ込む。背中を丸めて、水面に浮かぶ月を眺めているのだろうか。
こちらの世界の月は青い。青白いという表現の方が正しいかもしれない。
青い月が放つ光は幻想的だ。冷たくも儚いその色は、泉を氷のように光らせている。
「ねえ、アンドゥ」
「なんだよ」
「あそこにさあ、屋根がない?」
小屋? そんなものは見当たらないぞ。
セラフィが指す方向を見やる。泉の対岸は暗くてよく見えないが、言われてみると、小屋のようなものが建っている。
「ねえ、あそこに行ってみようよ!」
こら、急に立つな。びっくりするじゃないか。
今から泉の向こうに行くのか。あんな真っ暗で、ロールプレイングゲームだったら間違いなく森のモンスターにエンカウントする場所なのに。
しかし、行くところはとくにないから、
「しょうがねえなあ。じゃ、ちょっと行ってみるか」
「うん!」
セラフィの快活な返事に背中を押されるように、客舎からはなれた。
森の中は暗くて入れない。泉の岸からまわりこむようにして、目的地に近づくしかなさそうだ。
泉の岸に生えた木の幹につかまりながら、道なき道を歩く。木陰の下はかなりぬかるんでいる。
「地面、すべるから気をつけろよ」
「うん」
セラフィは俺の背中につかまりながら、器用についてくる。
「こうやって森を歩いてると、イーファと会ったときを思い出すね」
そうだな。あのときも、今みたいに目的もなく森をさ迷って、イーファさんと偶然出会ったんだ。
「あたしが落ち込んでて、アンドゥがあたしのために提案してくれたんだよね。次の日は、すごい寝坊しちゃったけど」
そうだったか? 当時の詳しい経緯は覚えていないぞ。
「シャロやお父様は、夜にお外へ出ちゃだめって言ってたから、こういうのって、悪いことなのかなって思ってたけど、アンドゥがあたしに提案してくれなかったら、イーファと会えなかったんだもんね」
いや、あの夜にイーファさんと会ってしまったから、こいつを余計に苦しませることになってしまったのではないか。心が少し痛んだ。
「今日も楽しいことがあるかなっ」
「さあな」
「アンドゥも、そういうのを期待してるんでしょっ?」
「してねえよ。っていうか、あんな出会いが何度もあるわけねえだろ。漫画じゃあるまいし」
「漫画? 漫画ってなに!? それ、おいしいの!?」
あちらの世界のキーワードに反応して、セラフィがぴょんぴょんと飛び跳ねたら、勢い余って泉に滑り落ちそうになった。
俺は驚いてセラフィの細腕をつかんだ。