第117話
帝国の客舎は、街のはずれに広がる森の中にあった。
木漏れ日が照らす小道をまっすぐに走って、湖のように広がる泉の畔に、ひっそりとたたずんでいた。
「客舎に到着いたしました」
ロギスさんにつづいて馬車を降りる。セラフィの手をとって、丁重に馬車から降ろすと、
「わあ。きれい」
目の前に広がる泉の透明さにセラフィが感嘆した。
水面が陽の光を受けて輝いている。森の静寂につつまれて、穏やかな空気が心を落ち着かせてくれる。
「そうだな」
「ねえねえ。もっと近くで見てみようよ!」
セラフィが俺の手を引っ張る。泉の畔まで寄って、穏やかな水面を眺めてみる。
浅いのか、泉の底がきれいに見える。ごみやヘドロがなく、水草も生えていない。
地面に純水をそのまま流し込んだみたいだ。
透明な水の中に、小さな魚がぷかぷかと浮いている。亀のような生物や、あめんぼみたいな小さい虫もいる。
「お魚さん。いっぱいいるね」
「そうだな」
「ここは、お魚さんたちの楽園なんだね。あたし、こういうの好きかも!」
「ほう。それは意外だ」
ゲテモノ好きのお前にも、小魚や小動物に癒される発想があったんだな。
「なに、その目。文句でもあるの?」
「文句なんてねえよ」
「うそばっか。その目、絶対にあたしを疑ってる目だもんっ」
お前は相変わらず勘の鋭い女だな。
だが、ロギスさんが後ろで見ている手前、妙なことは口走れないわけで。
「じゃあ、罰として、今すぐそこに飛び込んで」
「飛び込ますな!」
なんで俺が泉にダイブしないといけないんだよ。っていうか、こんなときに王女の特権を使うな!
泉を指していたセラフィは、頬をふくらませて、露骨に嫌そうな態度をとって、
「アンドゥつまんない。遠い国に来ちゃったから、緊張してるの?」
「緊張、はしてるが、普通、近侍を泉に飛び込ませないだろ」
「普通じゃなくて、罰だからいいんだもん」
「いや、それもだめだろ!」
そんな言葉がさらりと出てくるなんて、お前の教育者の人格を疑うぞ。シャロなんとかという教育者のなっ。
セラフィが意地悪しそうな顔で、唐突に俺の背後にまわりこんで、
「ほら、早くっ」
「や、やめろ!」
全力で押すな! 形式上はお前の臣下なんだから、微妙に反応しづらいだろっ。
「気に入っていただけましたか」
ロギスさんが、やや遠慮した感じで口をはさんだ。こんなところで醜態をさらして、申し訳ありません。
「うんっ! 帝国にも、こんなに静かな場所があるんだね」
「ええ。皇帝陛下は森や泉を好まれますから、こうした施設は街のあちこちにあるんですよ」
「そうなんだあ」
セラフィが後ろから抱き付いて、間抜けな声を漏らした。
皇帝って意外とネイチャーな性格なんだな。てっきり、戦争とか軍事のことばっかり考えてるんだと思ってた。
「帝国のわりには、意外だと思われましたか?」
「あ、いや」
「我が国は、私が生まれる前から軍事に力を入れていましたから、異国の方がきな臭い印象をもたれることは仕方ありません。かく言う私も、我が国の一番の特色は何かと訊ねられましたら、軍事力の高さだとこたえますから」
帝国って、やっぱり軍事色が高いんだな。改めて息を呑む。
「しかし、現在の皇帝陛下は戦を好まれません。ですから、帝国を緑の豊かな国にしたいとお思いです。そのため、軍事を縮小し、ここのような楽園を広げようと政務を執られ――」
「ロギス」
オズワルドさんの気持ち悪い――いや、艶めかしい声に、ロギスさんの背筋が伸びた。
「あなた。今日はめずらしく口が軽いわね。セラフィーナ様にいいところでも見せたいの?」
オズワルドさんの長躯がすぐそばまで迫って、ロギスさんの肩に手を置いた。
「国の極秘情報をぺらぺらとしゃべったらだめよぅ」
「は。申し訳ございません」
ロギスさんが敬礼をして、馬車の陰へと下がっていった。
オズワルドさんの細い双眸が、俺を舐めまわすように見てくる。ぞわっと鳥肌が立った。
「セラフィーナ様。あなた様の身辺警護をロギスとアイルティスにまかせます。不自由されることがございましたら、彼らになんなりと言い付けてくださいませ」
「う、うん」
「皇帝陛下も、あなた様とお会いになられることを望まれておいででしょう。面会の日取りを調整しますので、こちらでしばらくお待ちください」
「うん。ありがとう」
皇帝陛下に会うっていう話は、マジだったんだな。よくわかんねえけど、なんかすげえ。
それなのに、セラフィは浮かない顔で、
「それよりも、フィオのことをみんなに伝えてほしいんだけど」
それよりもって言うな。皇帝陛下の存在がおまけみたいに聞こえるだろ。
しかし、オズワルドさんは表情を曇らせずに、いや、むしろ「おっほっほっほ」と気持ち悪いことこの上ない笑い方で、
「セイリオスのことでしたら、ご心配にはおよびません。手はすでに打っておりますゆえ」
英国の貴婦人のように言った。
「そうなの?」
「もちろんでございます。それが、我々、帝国情報機関の務めでございますから」
所作はいちいち気持ち悪いけど、この人はやっぱり一流の人なんだな。落ち着きっぷりがはんぱねえ。
けれど、消沈するセラフィの横顔をながめて、はっとする。
俺たちは皇帝陛下に会いに来たんじゃない。セイリオスとフィオスがもたらす危殆を、この人たちに伝えるために来たんだ。
それなのに、この平穏な客舎と泉に癒されているだけでいいのか。
「あの、オズワルドさん」
そっと声をあげてみるが、その先の言葉が出てこない。
俺たちの役目は、この人たちに伝えたことで完遂している。それ以上の判断は、帝国の人たちですべきだ。
「なあに、坊や」
オズワルドさんが手を伸ばしてくる。ごつごつした手の感触があって、俺は慌てて身を引いた。
「あなたたちは、賊を怖がりすぎているのよ。そんなにびくびくしていたら、残りの人生を謳歌できないわよぅ」
そんなの知りませんよ。だいたい、フィオスを怖がってなんかいないっ。
「あなたたちがそこまで気にするということは、それだけ、賊からあたえられた傷が深いということなんでしょうね」
オズワルドさんが「うふふ」と笑った。
「あなたたちには、心のケアが必要なようね。だから、ちょうどいいわ。ここでゆっくり静養なさい。寝食のことは、気にしなくていいからね」
オズワルドさんが俺の足もとから頭のてっぺんまで見やって、「じゃあね、坊や」と去っていった。