第110話
この牢屋に入れられて五日が経った。状況は何も変わらない。
俺たちの無罪が証明されることは、ほぼ絶望的だ。だれかが助けてくれる保障もない。
でも、このまま指を銜えているのなんて嫌だぞ。俺たちはこんなところで捕まっている場合じゃないんだ。
くっ。こうなれば自力で脱出するしかないのか。脱獄には相当なリスクが付きまとうが、やるしかないのか。
幸い、このフロアに見張りはほとんど来ない。食べ物を運んでくるときしか見回りに来ない。
監視カメラ的な文明機器もこの世界にはないだろうから、脱獄のチャンスはいくらでもある。あとは脱獄する方法を考えないといけないのだが、どうやったら脱獄なんてできるのか。
昼食という名のくさい飯を食べ終えた昼下がり。牢屋をとりあえず見回してみよう。
まず目につくのが窓だ。窓と言ってもガラスの扉なんてない。土の壁の上方に穴を開けただけの代物だ。
跳べば窓に手が届く。だけど窓から抜け出すのは物理的に難しい。窓の横幅が十センチくらいしかないからだ。
ためしに窓に手をついてみる。うわ、汚え。この窓枠、泥まみれじゃねえかっ。掃除さぼってやがるな。
「アンドゥなにしてるの?」
セラフィが力のこもっていない声で訊ねてきた。
「なにって、見ればわかるだろ。脱ご――」
おっと、まずい。こんな静かな場所で迂闊にしゃべったら、上の階にいる見張りに聞かれてしまう。
耳打ちするためにセラフィに近づくと、こいつは何を勘違いしたのか、ドン引きして後ろに下がりやがった。
「なんで逃げるんだよ」
「だって、アンドゥの顔、なんか怖いんだもん」
なんだよそれ。今の俺はそんな犯罪者じみた顔をしてるのか?
「変なことはしねえって。ちょっと耳を貸せって」
「しょうがないなあ」
そこに見張りが立っていないことを一応確認する。不審がるセラフィに小声で、
「このまま待っていても埒が明かないからな。脱獄するんだよ」
「だつごく?」
うわ、ばかっ! そんな声で言ったら見張りに聞こえるだろっ。
俺は慌ててセラフィの口を手で塞いだ。
「むぎゅ」
「そんな声でしゃべるな。見張りに聞かれたらマジでやべえんだよっ」
「んもう、だったら先にそう言ってよ!」
セラフィが俺の手を取って喚いた。
「脱獄って、ここを勝手に出ちゃうんだよね。そんなことをしてもいいの?」
「もちろん、だめに決まってるだろ。でも、ここでずっと待ってても、だれも助けに来てくれないだろ?」
「そうだけど、こんなこと、してもいいのかなあ」
変わったものが好きなお前にしては珍しい慎重論だ。なんだお前、牢屋の生活でひよっちまったのか?
「よくはねえけど、こんなところにずっといたくないだろ?」
「そうだけど」
「俺たちは無実の罪で捕まってるんだから、こんなところに閉じ込められるのは不当なんだ。だから、俺たちで道を切り開くんだよっ」
自分たちで道を切り開くとか、超かっこいい。今の俺、最高にいけてるんじゃないか?
よし。そうと決まれば作戦を開始するぞ。
脱獄の経路として利用できそうなのは窓だけか。あの窓をもうちょっと広げられないかな。
刻印術で爆破させたら、いけるんじゃないか。この壁に爆発系の刻印を描いて、どかんと一発かます感じで。
石片だったら、その辺にたくさん転がっている。セラフィにちょっとお願いすれば、刻印なんて簡単に描いてもらえる。
問題になるのは音か。爆発音で上の階にいる見張りに気づかれてしまう。
音を消す刻印は探せばあるかもしれないけど、爆発音を完全に相殺することは不可能だろう。
爆発系の刻印を描いて、壁に穴を開ける。見張りのおっさんたちをなんとか振り切って、街のどこかで師獣を調達する。
壁の破壊は意外とすんなりできそうだが、他のふたつはできるか? かなり難しそうだが。
リスクを考えると、脱獄するのはやっぱりきついか。でも、ここにいても出してもらえる保障はないし。
脱獄をリアルに考えると無理そうな気がしてきたぞ。どうする――。
牢屋のはるか彼方から、戛々と足音のようなものが聞こえてきたっ。
見張りのおっさんたちが見回りに来たのか? 俺が脱獄を考え出した、このタイミングで。
あいつら、俺の思考を読み取る術でも心得てるのか!? いや、そんなはずはない。冷静になれ。
ブーツの固い靴底を鳴らす音が、鳴るたびに大きくなっていく。しかもブーツの音はひとつじゃない。ふたつ以上は確実にあるぞっ。
だれかがこの牢屋へ歩いてくるんだ。夕食の時間にはまだ早いぞ。
鉄柵の向こうに姿をあらわしたのは、三人の近づきがたいおっさんたち――いや、違う。右と左にいるのは見張りのおっさんだけど、真ん中で紺色の軍服みたいなものに身を包んでいる人は知らない人だ。
黒人のような黒い肌に、銀髪っぽい髪を後ろで束ねている。顔は端正だけど、背はあまり大きくない。見張りのおっさんたちと比較すると、男子中学生くらいの背丈しかない。
顔の感じからすると、年齢は三十代くらいか? 背は低いけど、胸を張った姿は威風堂々としていて、なんだか隙がない。見張りのおっさんたちとは雰囲気が明らかに異なっている。
見張りのおっさんたちは貧乏なアルバイトっぽい感じだけど、紺色の軍服の人は公務員、いや将校っぽい感じだ。
将校!? 帝国のお偉いさんなのかっ。
紺色の軍服の人は一言も発さず、俺たちをじっと見ていた。琥珀のような瞳が静かに光を放っている。
軍服の人が見張りのおっさんたちへ振り返り、浅くうなずいた。見張りのおっさんが牢屋へ歩み寄って、持っていた鍵を鍵穴へ差し込んだ!
「出ろ」
がしゃんと錠から音がして、牢屋の扉が開かれた。
俺の目の前で一体何が起きてるんだ? なんで帝国のお偉いさんの指示で牢屋が開けられたんだ。
紺色の軍服の人が片膝をついて拝礼する。左右の見張りのおっさんたちはまごついていたけど、軍服の人に倣って拝礼した。
「お初にお目にかかります。セラフィーナ王女殿下。私は帝国情報機関に勤めております、ロギスと申します」
セラフィーナ、王女殿下?
「あなた様がエレオノーラの高貴なる方と露知らず、彼らが無礼をはたらきました。我々の顔に免じて、どうかお許しください」
なんで、こいつの身分がばれてるんだよ。あと、帝国情報機関って。
セラフィもぽかんと間抜けな口を開けている。
ロギスさんが静かに顔を上げた。オールバックの髪は一本も乱れない。
「この街で、あなた様によく似た女性を捕えたと報告を受けまして、代理で私があなた様の迎えにあがりました。訪問が遅れた非礼をお詫びいたします」
よくわからないけど、とんでもないことが起きてるぞ。帝国の国司っぽい人から直々に迎えに来られたんだ。
セラフィって、やっぱりすげえ。帝国のこんな汚い牢屋でも威光があるなんて、すごすぎて感涙しちまうぜ。
ロギスさんが音を立てずに立ち上がって道を開けた。
「クリスタロスへ向かう前に、我らの主と会っていただきとうございます。お供の方も、ごいっしょに願います」