第104話
地面を歩く蟻を呑気につまんでいたシトリの背に乗って、無人島を後にした。
帝国の行き方はわからない。シトリを適当に飛ばしてみるけど、行く当てなんてない。どうすっかな。
「ねえアンドゥ。どこに行くか決まった?」
俺の背にしがみつくセラフィが尋ねてくる。
「いや、決まらねえ。どうすっか」
「うーん。どうしよっかねえ」
どうしよっかねえ、じゃねえって。お前は呑気だなあ。
「アンドゥがシトリを操ってるんだから、そのうちに着くって!」
「着くか」
この世界で当てもなく空を飛び続けるのは、あちらの世界の大海原を漂流するのと同じだ。
シトリだって無限に飛べるわけじゃない。適度に休めたり餌を与えなければ、いずれ飛べなくなってしまうんだ。
俺たちの食料の問題もあるのだから、早く帝国を見つけなければ。
今さら気づいたけど、地図がないからいけないんだよな。何も見ないで帝国なんて目指せるわけがない。
「なあセラフィ。地図は持ってるか?」
こいつにだめ元で聞いてみる。
「ちず?」
予想していた通りに聞き返された。お前は地図を知らないのか。
「ちずってなに? アンドゥお腹空いてるの?」
「いや。なんでそうなる?」
「ええっ、だって、ちずってなんか食べ物っぽいし。アンドゥの世界のお菓子?」
あちらの世界には「チーズ」という地図と似ている名前の食べ物はあるけどな。異世界在住の女の口から寒い親父ギャグを聞かされるとは、さすがに予想できなかったぞ。
「ちずってなにっ? アンドゥ早く教えてっ!」
「わかったっ。わかったから肩を揺らすな。落ちるっ!」
くだらないコントはこの辺で終わりにして、俺が知るべき情報は、現在地と帝国の位置か。街を探さないと話にならないな。
途中で見つけた無人島で休憩しつつ、空の旅を続ける。シトリに跨り続けていると股や腰が痛くなってくる。
アリシダさんみたいな旅人との出会いはない。凶悪な幻妖に遭遇することもない。
空の旅は平穏を保っているが、そろそろ人が恋しくなってきたぞ。
アリス宮殿を飛び立って三日くらいが経った日の夕方。やっと集落らしきものを見つけた。
外壁が崩れ落ちそうなあばら家がたたずむ貧村だ。ここに目ぼしい情報はなさそうだけど、宿を借りられるだけでもかなり嬉しかった。
何軒か訪問して宿を借り、この村と付近の島の情報も得ることができた。
この村は「ラハコ」という名前で、帝国領のはずれにある村なのだという。
帝国領の西端にある村で、村から北へ半日ほど飛んだところに、「アゴラ」という大きな街があるらしい。その街はこの辺りで一番大きな街らしいから、地図なども購入できるだろうという話だった。
そういえば帝国の首都の名前を聞いていなかったな。なんていうのだろう。
「いい人たちだったねえ」
朝日が昇ってすぐにアゴラへ向けて出発した。無償で泊めてもらったので長居しづらいし、人見知り的な理由も大きかった。
セラフィはそういうことがあまり気にならないのか、俺の背中につかまりながらにこにこしている。
「お前はいいよな。全体的に呑気で」
「んー? 何か言った?」
「別に」
万年人見知り症候群を発症している俺は、こいつみたいに諸国を旅することはできそうにない。
「アンドゥ、今日は珍しく早起きだよね。いつもはシャロに怒られるまでぐうたらしてるのに」
「俺は人んちでぐうたらできるほど図太くないんだよ」
「あのふたりだったら、そんなに気を遣わなくても平気だけどね」
俺たちを泊めてくれた老夫婦は、田舎の人特有のおっとりした雰囲気の人たちだった。
田舎だけに諸外国の情勢にも詳しくなさそうだったから、俺たちのことは感づかれないだろうと思った。けどお忍びで旅しているのだから、第三者との接触は警戒しておくべきだ。
「帝国の首都って、あと何日くらいで着くの?」
セラフィが間抜けな声で尋ねてくる。
「知らねえよ。っていうか今の行き先は帝国の首都じゃないし」
「ええっ!? じゃあ、どこに向かってるのっ?」
なに言ってるんだよ。アゴラで情報収集をしろって、俺たちを泊めてくれたじいさんばあさんが言ってただろ。
「俺たちが向かっているのはアゴラだろ。お前、ちゃんと聞いてたのかよ」
「んー、だってえ、そういうの覚えるの苦手だし」
セラフィが悪びれずに笑う。この何も考えていない顔を見たら殴りたくなってきた。
「そういうのはアンドゥがなんとかしてくれるから、だいじょうぶだよねっ! 頼りにしてるからねっ」
頼りにしてるからね、じゃねえって。この旅はすべて俺頼みかよ。
こんなんでよく旅をしようと思ったな。お前の無計画さにはほとほと呆れて言葉も出ないぜ。
「お前、悪いやつにほいほいとついていきそうだよな」
「そうかなあ。そんなことはないと思うけど」
「ほんとか? アゴラっていう街は大きいみたいだから、気を付けろよ」
「はーい」
眼下の一面に雲海が広がっている。縁日で売られている綿菓子のようなそれは、今日もふわふわと風に揺られている。
隙間なく雲が敷き詰められている様子は、まるで雲の絨毯だ。ぼんやりと眺めていると、この白い絨毯に飛び乗れそうな気がしてくる。
この雲の層の下。奈落と呼ばれる地域にフィオスやイーファさんの国があるんだよな。
彼らの住む国はどんな国なのだろうか。イリスの世界とさほど変わらないのか。それとも幻妖の跋扈する弱肉強食の世界なのか。
雲の上の世界しか知らないから、この下に別の世界があるというイメージが湧かないんだよな。
帝国なんかに行くより、この雲を潜った方がはるかに有益な情報が得られるんじゃないか。しかし奈落という忌み嫌われた世界に降りるということは、罪人に下される刑罰を自ら進んで受けることと同義なんだ。
「アンドゥ、なに考えてるの?」
セラフィがまた少し顔を近づけてきた。
「この雲の下にフィオスやイーファさんの国があるんだなあって、思って」
「そんなこと、言ってたね」
セラフィの消沈する声が耳元で聞こえる。
「イザードを襲った人たちは、あたしたちに復讐するために、あんな怖いことをしてたんだよね」
「ああ。フィオスもな」
「うん」
フィオスやイーファさんは、自分たちの国を守るために戦っている。
今さら気がついたが、自分たちの国を守るって、なんだ? 彼らの国はエレオノーラや帝国の侵攻でも受けているのか?
――あなたがわたしたちの国を知れば、自分の言っていることの愚かさを痛感するはずです。
イーファさんはイザードの王の間で、そう言っていた。血や争いごとが苦手なのに、今にも倒れそうな顔で。
フィオスやセイリオスの連中が並々ならぬ思いでエレオノーラやイザードを逆襲したんだろうけど、彼らの国の状況が全然わからないから、熾烈な思いだけを伝えられてもしっくりこないんだよな。
やっぱり奈落へ行ってみた方がいいのだろうか。
「なあ、セラフィ。奈落って行ったらまずいかな」
「えっ、奈落に行くの?」
セラフィの不安げな声が聞こえる。
「ああ。フィオスやイーファさんの国って奈落にあるんだろ。あいつらの国がどうなってるのかわかんねえからさ。直接見た方が――」
「だ、だめだよっ!」
セラフィに首を思いっきり絞められた。
「ぐおっ」
「奈落って、真っ暗で怖い世界なんだよ。人食いの幻妖がいっぱいいて、あたしたちが行ったら食べられちゃうんだよ!」
「わかった。わかったから、苦しい」
ゲテモノ好きで変態を地で行くお前がこんなに拒絶するとはな。奈落ってそんなに怖い世界なのか。
「シャロから前に聞かされたんだけど、こちらの世界では落刑っていう刑罰があるんだろ?」
「らくけい?」
「奈落に突き落とされる刑罰だよ。こちらの世界で最も重い刑罰で、いわゆる処刑って落刑のことなんだってよ」
「そうなんだ。知らなかった」
刑罰の話なんて、王女であるこいつに言うべきではなかったか。俺としたことが、迂闊だった。
「ええと、つまり何が言いたかったかというと、こちらの世界の常識では、奈落に行くという行為が異端の極みだということなんだよな」
「うん。だって奈落に行っちゃったら、あたしたち、生きて帰ってこられないもん。だから、みんな奈落に行きたくないんだよ」
その割りにはフィオスやイーファさんは、奈落からイリスの世界へやってきてるんだよな。
彼らがイリスの世界へ来るということは、奈落への交通手段があるということだ。
だから、奈落へ行ったら生きて帰ってこられないというセラフィの主張は、いささか誤っているのかもしれない。
だけど、雲海をふたたび見下ろして思う。行ったら生きて帰ってこられないという世界へ降りるのは、かなりの勇気と入念な調査が必要だ。
時間がかかるのなら、帝国へ向かうのが先でいいな。セイリオスの暴挙を止めてから、奈落をゆっくりと調査するのだ。
そうと決まれば、さっさとアゴラへ行って地図を購入だっ。