第100話
視界のはるか彼方まで広がる雲の海に、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
俺はどうしてか、またどんな方法を使ったのか、雲海の上に立っている。
雲の上に立つのはとても不思議な感覚だ。地面を踏みしめているような感覚がまったくない。
分厚い綿に乗っかっているような気分かもしれない。
右を向いても、雲。左を向いても、雲。果てしなく広がる雲の世界は非現実的すぎて圧巻だ。感想がひとつも出てこない。
俺はどんな刻印術を使ったのだろうか。昨夜の記憶がまったくないのだが。
いや、これは夢だ。耳元から不自然に聞こえてくる鳥の鳴き声で気がついた。
目を開けて空を見上げる。緑の天井の隙間から暖かい光が差し込んでいる。
「いつの間に寝てたんだ」
セラフィを先に寝かせたけど、俺はすぐに寝られなかった。寝込みをだれに襲われるのか、かなり怖かったから。
俺にブラックコーヒーでも飲ませてくれと思いながら、まわりに目を光らせていたはずなんだけどな。焚き火に何度か枯れ木を入れた後の記憶がない。
そういえばセラフィは!?
急いであたりを見回す。セラフィの背中らしきものがシトリのそばで丸まっている。
あまりに面白い光景に俺は吹き出してしまった。
鷲のようなシトリの腹に収まっている姿は、まるで雛だ。収まり具合が完璧すぎるのか、親鳥と雛そのものに見えてならない。
スマートフォンで思いっきり写真撮りてえ!
心行くまで笑って、ふうと息を吐く。
ここはエレオノーラの宮殿じゃないんだ。シャロみたいな護衛はいないし、アビーさんのように細々と世話してくれる人もいない。
呑気に遊んでいる場合じゃねえ。気持ちを切り替えていかないとな。
「なんか肩がいてえ」
変な寝相だったからか、右の肩と背中に違和感がある。腕をまわせないほどじゃないけど、肩を動かすたびに妙な抵抗力を感じる。
森の外の景色が見てみたい。セラフィから少し離れてもだいじょうぶだろう。
森の外に、さっき見た夢のような光景が広がっていた。
浮遊している島の真下から向こうまで広がっている、白い海。雲海は何度も見てるから、いまさら感想を述べる必要なんてないんだけど、荘厳だな。
天空の世界って、やっぱりすげえ。超あり得なくて超ファンタジーな光景に浮かれてしまうのは不可抗力だ。
冬だから寒いけど、今日もいい天気だ。単身でこっちの世界を旅するなんて、なんかゲームみたいだ。
そう思うと、今の状況は面白いのかもしれない。暗いことばっかり考えてないで、前向きに行こう!
セラフィが起きるのを待って、身支度を簡単に済ませる。別の島を早く探したいが、セラフィがこの島を探検しようと言って聞かない。
「アンドゥ見て見てっ。あんなところにおっきな果物があるよっ!」
「はいはい」
俺の前をセラフィが張り切って歩いている。右手に木の枝を持って、腕をぶんぶんと振りながら。
「ほらあそこ! ちっちゃい小鳥さんがいるっ」
ちっちゃい小鳥さんって、小さいという言葉の意味が重複してるぞ。小鳥に小さいという言葉をつける必要性は――。
「アンドゥも見てっ。あそこ!」
腕を強く引かれたので仕方なく眺めてみる。鳥なんてたくさんいるから、どの鳥を指しているのか全然わからない。
「おお。いっぱいいるな」
「アンドゥ、ちゃんと見てる?」
「見てるって。あれだろ?」
俺が適当に森の向こうを指すと、セラフィがぶすっと頬を膨らませた。
「アンドゥ、全然ちゃんと見てないじゃん。あたしが見てた小鳥さんはもういないもん」
そんなことを言われたって知らねえよ。
「急に言われたんだから、仕方ねえだろ。それならもっと早く言ってくれよ」
「早く言ったって、どうせ見ないでしょ」
「そうだな」
セラフィが「もうっ」と怖くない顔で怒る。俺を無視して森の小道をずんずんと歩いていく。
いつもながら思うが、お前は朝からテンションが高いよな。俺は夜型の人間なのだから、朝はテンションが低いのだ。
「あんまり遠くまで行くなよ」
「ふんだ。アンドゥなんて、もう知らないもんっ」
子どもっぽい理由で怒るなって。一応危険な旅の道中なんだぞ。
だけど、この無人島は呆れ返るほど平和だ。老人しか住んでいない過疎地の手入れされていない森のようだ。
道と呼べるか微妙な木の隙間を歩いていく。森には巨大な岩がそびえていたり、苔や茸が生えている。
木の幹を栗鼠みたいな小動物が駆け上がる。ムクドリみたいな鳥が木のそばの地面をしきりに突いている。
聞こえてくるのは鳥や動物の鳴き声と、草木のざわめきだけ。都会の喧騒を忘れさせてくれる、自然に囲まれた場所がこっちの世界にもあったんだ。
ここはまさに動物の楽園だ。人に汚されていない緑の聖域。
人も建物もないから、こんな島に来ても意味ないだろと思っていたけど、そんなことはなかったかもな。
「気に入った?」
セラフィが立ち止まっていた。前屈みになって俺を見上げてくる。
「ああ。こういう場所も悪くないんじゃないか?」
「でしょ! アンドゥなら、絶対にそう言ってくれると思ってたんだあ」
嘘つけ。お前が個人的に森を探検したかっただけだろ。
「それなのに、アンドゥって本当に素直じゃないよね。あたしに嫌々ついてきてますみたいな顔してるんだもん。どうして素直になれないの?」
ほっとけ。現代人、とりわけ俺くらいの年齢の男子はこれが標準なんだよ。
お前みたいに素直すぎたら、学校でいじめの対象になるしな。
「俺くらいの男は、だいたいこんなもんなんだよ」
「そう? 宮殿のみんなは素直に言ってくれるけど」
「それはお前に気を遣ってるからだろ。こっちの世界でも素直な男なんて、きっとマリオくらい――」
猛獣の雄たけびのようなものが森に木霊する。たくさんの小鳥が森から一斉に飛び立つ。翼を忙しく動かしながら。
「なんだ!?」
さっきまで平和そのものだったのに、雰囲気が一変したぞ。戦場に紛れ込んだような緊迫感に呼吸が苦しくなる。
「おっかない熊とかが、出たのかな」
セラフィも縮こまって肩をふるわせる。いつも能天気なこいつがびびるのは珍しい。
それと、こっちの世界にも熊っているんだな。
猛獣の雄たけびはわりと近くから聞こえてくる! いや、すぐそこにいるんじゃないか!?
木の根を埋め尽くす雑草を掻き分けて、何かがやってくる。そいつは巨体をのっそりと動かして、一歩ずつ、そして確実に俺たちへ近づいてくるっ。
幻妖と対峙するときに感じる、あの嫌な気が前方から発せられている。俺はセラフィを下がらせて、同時に剣を抜いた。
雑草の茂みからあらわれたのは、犀のような幻妖だった。あちらの世界の乗用車くらいの巨体を俺たちに向けている。
目は赤紫色で、深緑色の体毛に覆われている。意外と大人しそうな雰囲気だが、辺りを包む負のオーラが俺に緊張感を与えていた。
――相手が幻妖であるかは、香りでわかるのです。
イーファさんが言ってたな。そんなことを。
あのときは、この人はなんでそんなことを言うんだと驚いちまったけど、今ならわかるかもしれない。
犀の幻妖が突如雄たけびを発する! 天を仰いだ瞳は真っ赤で、辺りを包む気がさらに禍々しくなる。
「よけろっ!」
「きゃっ!」
セラフィの胸を強く押し出す――同時に犀の幻妖が俺に突進してきたっ!
「くっ!」
間一髪。横に飛んで直撃だけは回避することができた。けれど、あいつの角が俺の右手に当たり、剣を危うく落としそうになった。
「アンドゥ!」
あいつは正面の木に激突する。太い幹をものともせずに木を根っこから押し倒す。巨大な木が轟音とともに倒されてしまったっ。
「っつう。なかなかやるじゃねえか」
ものすごい破壊力だ。さっきの突進にはきっとダンプカーくらいの力があるんだろうな。
そんなものを食らったら、俺は一撃で死亡確定だ。足のふるえが少しずつ大きくなる。
あいつが身体の向きをのっそりと変える。突進以外の鈍い動きから、あいつの余裕が感じられて、怖さというか気味悪さを倍増させる。
「けっ。来るなら来やがれっ!」
あいつがまた顔を上げて怒号のような雄たけびを発した。