花の色は…
塀に貼ってあった庭師募集の紙を見て、男はこの屋敷を訪ねた。応対に出た執事の老人は、入ってすぐの事務所のようなところで二、三の質問をした後、そのまま彼を雇ってくれるという。これから屋敷の中を案内するが、用事が済むまでここで待っていろと命じられたのだ。それまでの時間つぶしのつもりで庭に出たのはいいけれど、通用門から勝手口まで、たった今通ってきた小道があったはずのところが、まるで小さな林ほどに木々が生い茂っていた。それでも、恐らくはちょっとした違いだろうと思って無理に抜けたら、もう方向を見失ってしまい、戻ろうにも、自分が出てきた母屋まで分からなくなっている。
だが、広いとはいえ所詮は個人の屋敷だ。まっすぐ歩いていけば敷地を囲う塀にぶつかるだろう。そうしたら、それに沿って歩いていけばいい。さっき貼り紙があったところは、塀からすぐに母屋の勝手口があったし。彼は開き直ってどんどんと歩を進め、いっそう奥へと迷い込んでいく。
やがて、大きな土蔵の前にたどり着いた。
「そこにだれかいるの?」
若い女の声に、ぎょっとして足を止める。
「えっ?」
今の声は、土蔵の中からだろうか?白い壁を見上げてみると、ずっと高いところに、太い鉄格子がはまった小さな窓があった。何歩か後ずさり、背伸びをして覗きこんでみる。奥までは見えないが、その窓の内側で、白い手がひらひらと動いたのが分かった。
「どうして、こんな所にひとが…?」
扉には、古びた土蔵に不似合いとも思える頑丈な錠前が付けられている。まるで、誰かを閉じ込めているようだ。だが、その声にはあまり屈託がない。
「あなたは、だあれ?」
「…私は、新しく雇われた庭師なんです」
「ニワシって、なあに?」
「お庭の手入れをするんですよ。木とか、花とか」
「ふうん…。私は、ここから見えるところしか知らないの。窓から、きれいなお花がたくさん見えるようにしてちょうだい?」
「え、ええ…、わかりました」
そこへ突然、咎めるような声がした。
「君、こんな所にいたのか」
「あ、執事さん…」
「まだ、案内も何も済んでいないのに。どこに行ってしまったのかと思った。この屋敷には、近づいてはいけない所もあるんだよ。さあ」
「ねえ、お願いよ?」
先程の声が追いかけてくる。何か答えてやりたかったが、執事は男を急きたて、その場を離れた。
「何を話していた?」
「え、あの…、ここから出たことがないので、窓から花が見えるようにしてくれと…」
「それだけだね?」
「はい」
「もう、あそこへは近づかないように。分かったかい?」
「中には一体、誰が…」
「いま、近づくなと言ったばかりだ」
「…はい」
屋敷の中を一通り案内してくれた執事は、男にもう一度告げる。
「庭の手入れをしてもらうために、君を雇ったんだ。余計な事には首を突っ込むんじゃないよ?それが、君のためでもあるんだから…。あの蔵の中にはね、ここのお嬢様がよく入って、遊んでいらっしゃるのだ。だが、お相手をする必要はない。逆に、失礼になる」
「はあ…」
「空想好きな方だから、お一人で楽しんでいらっしゃる。君は決して、調子に乗ってはいけないよ」
「…分かりました」
男はそっと、庭の土蔵の方を見やった。もしかして、あのひとは閉じ込められているのではないだろうか?どうも、そんな気がする…。
翌日も、その翌日も、庭師の男は土蔵に近づけない。それでも様子を見ていると、朝晩、執事やその妻である老女中が出入りしているようだ。食事の世話や、中の掃除ではないかと思われる。
確かに自分は一介の使用人ではあるが、この家の家族構成すら、きちんと教えてもらっていない。お嬢様とやらが一人娘なのか、他にも子供がいるのかも知らないし、旦那様にも奥様にも、お会いしてはいない。どうも謎の多い屋敷である。
とはいえ、彼自身も、何も詮索されずに雇ってもらっている。偶然に通りかかったこの屋敷の塀に、求人の貼り紙があったのだ。そのすぐ横に小さな通用門があり、覗きこむと母屋の勝手口に通じていた。声をかけ、出てきた執事に話を聞いたら、庭いじりの真似事が出来ればいいという。そして、さりげなく身寄りのことを聞かれる。大きい屋敷だから保証人が要るのだろうかと危ぶんだが、親兄弟もなく、天涯孤独なのでこのまますぐにでも働けると正直に答えたところ、即座に採用になった。
男は、各地の戦争を渡り歩いた傭兵である。何度も修羅場をくぐり抜け、ある程度の金は手に入れたけれど、血生臭い光景は、少々見飽きた。しばらくのんびりと旅をして暮らそうと考えていたのだが、いざ始めてみると、これまたどうも退屈なものだ。簡単な仕事で少しは金になり、食事と住まいが保証されているのなら、それに越したことはない。
そして、数日後のこと。
朝から良く晴れたので、男は梯子と剪定ばさみを持って庭に出る。普段の仕事は、庭に落ちた花殻を取り去り枯葉を拾って、それで終わりと言えば終わりだ。枝の剪定などは知らないし、出来もしないが、下枝ぐらいなら払えるかも知れない。そんな風に思って、庭をうろうろと歩き回っているうちに、あの土蔵の近くまで来てしまった。
『いらっしゃるかな…?』
周りを見回してから、少し離れた木に、梯子をかける。そして、ちょうど窓から見える辺りまで、登ってみた。
「あら…、この前のひと?」
「おはようございます。お嬢さん」
男の思った通り、あの声が呼びかけてくれた。
「済みません、なかなか近づけなくて。もうすぐ、この木にも花が咲くんじゃないかな。登るのにも邪魔だし、下枝でも払いますよ。仕事しているなら、文句は言われないでしょう」
「うふふ、その木を切っては駄目よ?桜だもの」
そう、男は園芸など何も知らない。桜の木は、下手に切ったら枯れてしまう。俗に『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』という。そんなことも知らないのだ。
「そうなんですか…。お恥かしい」
無意識に頭をかいたら、土蔵の中で、くすくす笑う声がする。
「もうすぐ咲くのね、楽しみだわ。よいしょっ…」
中で、がたがたと何かを積み上げている気配。その上に乗ったのだろうか?鉄格子に指がかかり、白い顔が少しだけ見えた。男ははっとして、目を凝らす。
『綺麗なひとだ…』
思った通り…、いや、想像以上に、その娘は美しかった。真っ白な肌に黒く長い髪、黒目がかった大きくつぶらな瞳。珊瑚のような、艶やかに紅く光る唇。
一瞬で、全てが目に入った。そしてその一瞬で、男は心を奪われた…。本当はもうずっと前から、きっと初めて声を聞いたときから、彼女のことはひとときも忘れられなかったのだけれど。
「私ってお転婆さんね。こんな所まで登ってしまったわ」
「いえ、そんな…。ところで、どうして蔵の中にいらっしゃるんです?いったい、いつから?」
「いつからか分からないけれど、ずっとここにいるのよ」
「ええっ?中に入って遊んでいらっしゃるとお聞きしたのに…。外に出られないのですか?」
やっぱり、あの話は嘘だった。このひとは、ここに閉じ込められているのだ。
「ええ。出してもらえないわ…。でも、いいの。外の世界は危ないって言うし」
「危ないって言ったって…。人の自由を奪うなんて、ひどすぎます。私に出来るのなら、すぐに、お出しして差し上げたい」
「外に?でも、怖いわ」
彼女は小さな声で呟き、うつむいてしまった。男は慌てて、言葉を続ける。
「それじゃ、なるべく毎日来ます。そのうち、何とかして中に入れれば」
そのまま、誘い出そう。危ないことなどないのだし。男の企みを知ってか知らずか、娘は笑顔になる。
「そうね。中に遊びに来て?それならいいわ」
「あの…、お名前を教えていただけますか?お嬢さん」
「卯女というの。卯月の初めに生まれた娘だから、ですって。桜の花が満開だったそうよ」
梅と同じ音の名前。梅のように香り高く、桜のように華やかなこのひとに、よく似合うな…。ぼんやりと窓を見つめていると、遠くで執事が呼ぶ声がした。
「あら、じいやが呼んでいるわ。早く行かないと叱られるわよ」
「はい。また来ます」
男は急いで、桜の木から下りた。見上げてみれば、もう蕾が膨らんできている。ほどなく開くだろう。出来ることなら彼女を救い出して、満開の桜を一緒に見たい。しかし、外の世界が危ないから、土蔵に閉じこもるだなんて。いったい、誰が教え込んだんだろう…?
道を歩いていて、偶然見つけた貼り紙で、この屋敷に雇ってもらった。そして、美しい女性に出会えた。縁は異なもの、味なもの。ただの巡り合わせだ。それでも自分には、運命と感じられる。あのひとをさらって、どこか遠くに逃げて行けたら…。
立ち止まって、土蔵を振り返った。上空には、暗い雲が垂れ込めているように見える。
「お気の毒に。あのひとが不幸だから、だろうな」
いや、もしかしたら。何か凶々しい予兆かも知れない。知らぬ間に恋に落ち、盲目となった彼には、もはや気づくことは不可能だろうが…。
明くる日から、彼女の名前の月となる。
今年は桜が遅かったが、やっと蕾がほころびかけてきて、今日あたりには咲きそうだ。朝から晴れてはいたが、時間と共にだんだんと日が高くなって、辺りも暖かくなってきた。庭師の男は土蔵近くの桜の前にやってきて、しばらく枝を眺めていたが、思い切ったように声を出す。
「お嬢さん…、卯女お嬢さん…。いらっしゃいますか?」
「庭師さんなの?おはよう」
「ほら、ここを見ててごらんなさい。きっと、もうすぐ咲きますよ」
そのまま二人は、じっと桜の枝を見る。木の下と、土蔵の窓から。気が遠くなるほどゆっくり、ゆっくりと蕾が開いていく…。だが、一瞬でも目を逸らしたら、見逃してしまいそうだ。身動きもできないままに、長い時間が経っていく。
そしてついに、ぽっかりと一つ、花が咲いた…。
「素敵…。桜の花が咲くところなんて、初めて見たわ」
「ははっ、私もです。何しろ、素人庭師ですから…でも、よかった…」
「ええ、ありがとう、嬉しいわ。ねえ?」
「はい?」
「じいやたち…、いないのよ。さっき、おつかいに行かせたの」
「じゃあ…」
「私は外に出られないから、あなたが遊びに来てくれる?」
「分かりました。何とか鍵を壊して、」
そのとき、鉄格子の間から、何かが投げられた。太陽に照らされ、きらりと光ったものは…、一本の鍵だった。
「うふふ。前に、こっそり取ったのよ。でも、中からでは開けられないのね」
「卯女お嬢さん…」
自分を信用してくれたということか。男は嬉しくなって、早速、開けにかかる。
ガチャガチャと大仰な音がして、鍵が開いた。ささっていた閂も外し、重い扉を開ける。中は思ったより広く、薄暗かった。奥は畳敷きで、窓からの陽の光が、ほんのりと明るく照らしている。畳の上には背の低い屏風が置いてあって、その向こうに卯女がいた。
桜の柄の振袖を着て、こちらを向いて心持ち首を傾げ、にっこりと微笑んでいる。窓越しに見ていたときには気づかなかったが、口元に可愛らしいえくぼがあった。
「来てくれてありがとう。鍵が合って、よかったわ」
畳の前でためらう男に、上がるようにと手で招いた。それに応えて屏風を少したたみ、そこから入っていくと…、一瞬、何かを突き抜けたような気がする。
「え?今、何か…」
「そうなの。外側から、じいやたちが結界を張っているのよ。私が外に出ないように。あなたも、もう出られないわ…ねえ?私と一緒に過ごしましょう?…死ぬまで…、ここで…」
恐ろしい誘いに、男は戸惑う。それでも、彼女と二人でいられることに、甘い誘惑も感じる。
しかし、ふと考え直した。あいつらは悪者のようだが、どうせ朝晩にはここに出入りしていたはず。その時、何とかしよう。何しろ体力には自信がある。相手が見た通りの年寄り二人なら…、上手くやれば…。
「そんな事をおっしゃってはいけません。どうせなら、あの二人をやっつけて逃げましょう」
「まあ、頼もしいのね。でもあんまり、実感がないわ。そんなこと、できるのかしら」
卯女は下を向いて、畳の上に指で文字を書いている。まるで百年も前の少女のような浮世離れも、とても好ましい。もしかしたら彼女が幼いころに、あの悪者たちがさらったのだが、あまりの愛らしさゆえ、そのまま飼っているのではないだろうか?逃げ出さないよう、召使のようにかしづいて世話をする一方、外は恐ろしい場所なのだと教えこんでいるのでは…?そうだ。きっとそうに違いない。
男は自分に都合のいい物語を作り上げ、どこかそれに酔っていた。ふと横を見てみたら、小さな棚に、絵草紙のような本がたくさん並んでいる。その中で一冊だけ、反対向きにさし込まれているものを見つけ、何となく手に取ってみた。
「あ、それはだめ…」
卯女が手を伸ばしてくるのを意地悪く押さえて、パラパラとめくる。他愛ない、娘と若者の物語のようだ。想いが通じて、最後には結ばれるらしい。…といっても、着物のまま、抱き合うところで終わっている。それでも、彼女には隠すほど恥かしく…、だが、とてもお気に入りのようだ…。
「ああ、済みません…意地悪をしましたね」
怒ったような顔で、卯女は彼を見上げている。その時、男は気づいた。絵草紙を取ろうとして…、そして取られまいとして…、いつの間にかその絵と同じように、抱き合っていることに。
頬を紅く染め、逃げようとする彼女の腕を…、男は思わず、しっかりとつかんでしまう。
「…痛いわ」
構わず、ぐっと抱きしめた。卯女は儚げに、彼にもたれてくる。
「何もしませんから…。今だけ、こうしていたいんです。初めてお顔を見たときから…、私は…」
下手な誘い文句のようだが、彼女には触れられない。勿体なくて。本当にただ、こうして抱いていたいだけだ。
「逃げないから、少しだけ力を緩めて…?苦しいの」
小さな声で言われ、慌てて力を抜いた。卯女は白い指をそっと男の胸に当て、はだけたシャツの襟から、日に焼けた首筋に唇を寄せる。
「おひさまの、においがする」
「そうですね。ここに来る前も、ずっと外で走り回る仕事だったから」
薄い肩を抱いてやり、男は幸せな気持ちに浸った。そう、今はこれだけでいい。必ず救い出して、二人で暮らすんだ…。家事も何も出来ないだろうな。楽しい失敗を繰り返し、仲良く暮らしていこう…。
そんなことを夢のように考えていると、首筋にチクリと痛みが走った。まだ、彼女が唇をつけたままなのだ。悪戯で、歯を立てたのだろうか。そちらに目をやれば、悪戯っぽく見上げている。
「そこは、食べられませんよ。あの…ええ…と、唇は…、恥かしい…?」
照れながらも誘ってみると、卯女は下から指を伸ばして、彼のまぶたを押さえた。
『目を閉じていろというのか。可愛いな…』
黙って目を閉じる。彼女がまた、寄り添ってくる気配がする…。
そして、次の瞬間。
卯女の唇がキューッとめくれ上がり、糸切り歯が牙のように尖った。そして、先程まで唇を付けていた…血管を捜していた…首筋にかぶりつく。頸動脈が肉ごと食い破られ、文字通り血が噴き出した。
鋭い痛みに、男は驚いて目を開ける。しかし、なぜだか動けない。もう、かなりの血を失ってしまったのだろうか。だんだん身体の力が抜けていき、意識が遠くなって…、どうしてか…不思議な快さも感じる…。この男とて、女の肌を知らぬ訳でもない。だが…女の身体に自らを埋めるよりもいっそう、なぜか気持ちがいい…。このまま死ぬなら、死んでもいい。うっとりと目を閉じ、微笑が浮かんできた。愛しい女の手にかかって、彼女を満足させて…死んでいけるのなら、それでもいいような気がする…。
やがて、男の肌は血の気を失い、蝋のように真っ白に変わった。そうなってからやっと、卯女は唇を離す。色白の頬は見違えるように血色がよくなっていて、顔も着物も鮮血に染まったまま、にっこりと笑った。そのまま窓の外に目をやれば、今朝、たった一輪咲いたばかりの桜が狂い咲き。こぼれんばかりに満開だ。
もう動かない男の身体に目を落とし、服を脱がせ始める。あちこちに傷痕のある逞しい裸身が顕わになって、彼女は満足げに笑った。
「美味しそう…。死ぬまで一緒って、ずい分短かったわね。うふふ…」
とりあえず、目の前の片腕を無造作にちぎり取る。若い娘どころか、人間の膂力とは思えない。そのまま大きく口を開け、端からガリガリとむさぼり喰らい始めた…。
夕方になって、遠くの街へと買物に出されていた執事とその妻が、古ぼけた車で帰ってくる。この屋敷には、三人しか住んでいない。土蔵の中の卯女と、彼ら二人。強力な妖物と、その世話をする下級のものたちである。
『新しい季節の着物が欲しい。たくさん買ってきて』
そう命じられて、見繕ってきたのだ。満開の桜を見て、二人はすぐに、何が起こったのかを悟る。扉を開け放していた土蔵に飛び込むと、彼女は素早く天井へ飛び上がり、四つ足で逆さに張り付いて逃げた。
「お嬢様!何て事を…」
「だって、お腹が空いたんだもの。それにあの男が勝手に、いやらしく勘違いして迫ってくるから…」
執事はため息をついて、妻と顔を見合わせる。
「…もう、怒りませんから。下りてきてください」
「本当?」
念を押してから、卯女はふわりと飛び下りた。畳の上には、男が着ていた服だけが残っている。
「全部、食べてしまったんですか?」
「ええ。久しぶりに…若い男は美味しかったわ…。特に、目玉と…アレ…。うふふ…」
ぺろぺろと舌舐めずりをする。顔が可愛らしいだけに、鼻まで届くほど長く紫色に伸びた舌は、いっそう気味が悪い。
「お嬢様!」
「怖いわねえ。まあ、これでしばらく、鶏や鼠でも我慢してあげる。十年ぐらいは、寿命が延びたような気がするの」
確かに、肌はしっとりとして、唇は蜜を含んだように艶やかに光っている。いったい、何十年、何百年の間…こうやって、生きてきたのだろうか…?
「それより、新しい着物は?もう桜が咲いたのに、桜柄なんか不粋だわ。汚れたし」
「大急ぎで一枚仕立てさせました。来週また、他を受け取りに参ります」
美しいものが正しいとは限らない。閉じ込められているからといって、むやみに同情してはいけない。獲物を誘い込むための罠かも知れないではないか。可哀想とは、惚れたということだ。うかつな恋が、その身を滅ぼす元にならないとも限らない…。
次の日にはまた、塀に求人の紙が貼られた。
『住み込みの庭師募集。経験不問。体力の有る若い男性を求む。委細面談』
(了)
「今度は、もう少し我慢してくださいよ。近所に疑われますからね?」
「はあい。でも昔、じいやの言う通り気長に待ってたら、失敗したわよ。ほら、毎晩やって来てお花を植えてくれた…。あら、…ということは、あれも庭師なの?」
「ああ、あの男は、嵐の夜にまでやって来て、川に流されてしまいましたね。もう少しで召しあがれるところでしたのに、申し訳ありませんでした。いいえ、庭師ではないのですよ。お嬢様に逢いに来た証拠だとか言って、勝手に芍薬を植えていったのです」
「まあ。迷惑ね。…綺麗だから、いいけど」
「もうすぐ、咲きますよ。株が増えて、もう三千はあるでしょう」
お花を植えてくれたのは、百夜通いの、深草少将かもしれません…。