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恋と鍵  作者: ねと
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第2話:『令嬢たちの家事能力はマイナス100点!?』

「……アリス、アリス、アリス……」


窓から差し込む朝日が、湊の重い瞼を叩く。結局、昨夜は一睡もできなかった。

五人の令嬢、五つの黄金の鍵。そして、全員が持っていた「アリス」の断片。

湊は這い上がるようにベッドから抜け出し、寝癖を直す気力もないまま一階のリビングへと階段を下りた。


「(……まあ、いい。あんなに気取ったお嬢様たちなんだ。朝くらいは、優雅にクラシックでも流しながら、エプロン姿でコーヒーの一杯でも淹れて待ってるだろ……)」


そんな淡い期待は、キッチンのドアを開けた瞬間に、物理的な「衝撃音」と共に粉砕された。


バギャン!!


「っ!? 何だ、今の音は!」

「……あら、管理人。おはよう。ちょうどいいわ、この鉄の箱、どうすれば動くのかしら?」


煙が立ち込めるキッチンの中で、西園寺 凛花が仁王立ちしていた。

彼女の手には、無残にひしゃげた高級トースター。どうやら、厚切りすぎるパンを無理やり押し込み、さらにフォークを突っ込んで「テコの原理」で取り出そうとしたらしい。


「凛花……お前、トースターに攻撃したのか?」

「失礼ね! 私が『焼きなさい』って命じたのに、この機械、ちっとも言うことを聞かないんだもの。西園寺の家で私に逆らう者は一人もいなかったわよ!」

「機械に家柄は通用しねえよ! 火事になるだろ!」


湊が慌ててコンセントを引き抜くと、今度はコンロの方から「シュゥゥゥッ!!」という不穏な蒸気音が響いた。


「七海様、申し訳ありません。……少々、火の勢いが強すぎたようです」


神楽坂 琴音が、鍋を前にして困り果てたように微笑んでいる。

鍋の中身は、かつて味噌汁だったと思われる「黒い塊」。しかも、彼女はあろうことか、沸騰した鍋に「お清めの塩」を袋ごと投入していた。


「琴音! 味噌汁は除霊の儀式じゃないんだぞ! 塩分濃度で死人が出るわ!」

「あら……。神楽坂では、不浄のものは全て炎と塩で清めるのが習わしでしたので……」


「ミナトー! お腹空いたよー! 早くこれ剥いてー!」


足元から声がした。見ると、羽衣 舞が床に座り込み、ジャガイモを「素手」で握りつぶそうとしていた。


「舞……お前は何をしてるんだ」

「ポテトサラダ作ろうと思って! でもこのリンゴ、皮が硬くて爪が入らないんだもん!」

「それはジャガイモだ! あと、握力で調理しようとするな! 部屋が泥だらけだぞ!」


湊が発狂寸前で叫んでいると、背後にひんやりとした気配が漂った。


「……騒がしいわね。朝から猿の惑星か何かの上映会かしら」


九条 詩乃が、完璧に整った身なりで現れた。彼女だけは冷静だ……と湊が安堵しかけたその時。

詩乃はおもむろに冷蔵庫から生卵を取り出し、それをまな板の上に置いて、定規で正確に中心を測り始めた。


「……詩乃。何をしてるんだ?」

「目玉焼きを作るのよ。黄金比に基づいた完璧な配置で焼けば、栄養価も効率よく摂取できるはずだわ。……まずは、殻の厚みをマイクロメーターで測定して……」

「……お前、バカだろ。勉強はできる癖に、生活能力は赤ん坊以下かよ!」


「あはは、湊くん、そんなに怒らなくても。……はい、あーん♪」


いつの間にか背後に密着していた不知火 結愛が、湊の口に何かを押し込もうとする。

「結愛……。それ、何だ?」

「ん? 昨日の残りのカップ麺の粉を、練り消しみたいに固めたものだよ? 栄養凝縮!」

「毒だろ!!」


湊は、キッチンの惨状を見渡した。

粉まみれの凛花、煙に巻かれる琴音、泥だらけの舞、計算に没頭する詩乃、毒を盛る結愛。


「……分かった。お前ら、全員そこをどけ。……一歩も動くな!」


管理人の「命令」が、屋敷のシステムを介さずとも、その場の空気を支配した。

湊はエプロンをひったくるように身につけると、コンロに火を入れ、包丁を握った。


「いいか、これが『普通の人間の食事』だ。……黙って見てろ!」


「……嘘。あんなにバラバラだった食材が、一瞬で整えられていくわ」


琴音が感嘆の声を漏らす。

湊の動きには一切の無駄がなかった。焦げ付いた鍋を瞬時に洗い流し、凛花がぶちまけた小麦粉を布巾一拭きで片付け、舞が握りつぶそうとしたジャガイモを奪い取って鮮やかに皮を剥く。


「……ふん。所詮は下民の嗜みね。効率的に動かなければ生きていけない境遇が、彼をあんな卑しいマシーンに変えたのよ」


凛花が腕を組んで強がるが、その視線は湊が刻むタマネギのリズミカルな音に釘付けだ。


「よし、お前ら。邪魔だから一列に並んで座ってろ。……詩乃、お前は卵を割るんだ。さっきみたいに定規で測るなよ、手首の力でコン、だ」

「……私に指図しないで。……コン、ね。……あっ」


詩乃が不器用に卵を割ると、殻がボウルの中に盛大にダイブした。

「ああもう、貸せ! ……ほら、こうだ」

湊が背後から詩乃の手を包み込むようにして、ボウルに卵を落とす。


「っ……!? ……な、ななな、何を……っ!」

詩乃の顔が、火を通す前のフライパンよりも熱く赤らむ。


「……あ、悪い。つい。……でも、これで混ざっただろ?」

「……ええ。……混ざったわ。驚くほど、スムーズに」


詩乃は自分の手を見つめ、微かに震える指先を隠すように握りしめた。


数分後。キッチンの殺伐とした空気は、バターと卵の芳醇な香りに塗り替えられていた。

湊は手際よく五人分のオムライスを皿に盛り、最後にボトルを手に取った。


「仕上げだ。……はいよ」


湊が無意識にケチャップでオムライスの上にさらさらと「何か」を描き、テーブルへ差し出す。


「「「「「…………!!」」」」」


皿を見下ろした五人の動きが、一斉に止まった。

湊が描いたのは、星でもハートでもない。

丸っこい体に、飛び出した目。なんとも不恰好で、けれど愛嬌のある「カエルのイラスト」だった。


「……ミナト。どうして、これ描いたの?」

舞がいつもの元気な声を潜め、真剣な目で湊を見上げる。


「え? ……ああ、いや。なんでだろ。昔、誰かにこれ描くと喜ぶって言われたような気がして……。変か? 下手くそだよな」


湊が頭を掻きながら自嘲気味に笑う。

しかし、その場を支配したのは、重苦しいほどの沈黙だった。


「……カエル。……いいえ、トード(ヒキガエル)ね。……懐かしいわ」

琴音が、その不恰好なイラストを愛おしそうに指先でなぞる。


「……最低。私の芸術的な感性には微塵も響かないわ。……でも、ケチャップの配分だけは完璧ね。……完璧すぎて、胸が痛いわよ」

凛花が顔を背け、強引に一口頬張った。


詩乃は、そのカエルをじっと見つめたまま動かない。


「……あ、あの。湊くん? 私のも描いて? 私には、カエルの隣に『スキ』って書いてくれないかな?」

結愛が湊の腕にすり寄り、空気を変えるように甘い声を出す。


「書くか! ……冷める前に食えよ。……俺、ちょっと片付けしてくるから」


逃げるようにキッチンを去る湊。

残された五人は、一言も発さないまま、ただ黙々とその「不恰好なカエルの署名」を口に運んだ。

それは、彼女たちが家を捨ててから初めて口にする、泣きたくなるほど優しい「家庭の味」だった。


「ふぅ……。アンタ、料理だけは認めてあげるわ。明日からも期待していいわよ」

「俺は専属シェフじゃないって言っただろ、凛花……」


食後のリビング。オムライスを完食した五人の令嬢たちは、思い思いの場所に陣取っていた。

凛花はソファーを独占してネイルを眺め、舞は床で漫画を読み耽り、琴音は窓辺で茶を啜っている。結愛はというと、片付けをする湊の背中を、獲物を狙う猫のような目で見つめていた。


そんな中、詩乃だけは食後すぐに「調べ物があるから」と図書室へ消えていった。


「(……みんな、少しは落ち着いたみたいだな)」


湊は山積みの食器を洗い終え、溢れそうなゴミ袋をまとめて勝手口から外へ出た。

雨上がりの冷たい空気が、火照った顔に心地よい。

指定のゴミ集積所に袋を置こうとしたその時、湊の足元に、濡れた紙切れが落ちているのが見えた。


「……? なんだ、これ」


それは、昨夜の嵐でゴミ箱から溢れ出した、屋敷の「古い間取り図」のようだった。

経年劣化で茶色く変色したその図面を、湊は何気なく広げてみる。

そこには、祖父の几帳面な筆致で各部屋の役割が書き込まれていた。


「リビング、図書室、応接間……。うん、今のままだな。……ん?」


湊の指が、ある一点で止まる。

二階の北側、詩乃に割り当てた部屋のちょうど真裏。

今の屋敷では「厚い壁」になっているはずの場所に、小さな正方形の空間が描かれていた。


「……隠し部屋? いや、でもそんな扉、どこにもなかったはずだぞ」


図面には、その空間に向けて矢印が引かれ、たった一言、走り書きがあった。


『アリスの温室アトリエ


「……アリスの、アトリエ……?」


背筋に電気が走る。

湊は吸い寄せられるように屋敷に戻り、二階の北側廊下へと急いだ。

薄暗い廊下。詩乃の部屋の扉の前を通り過ぎ、突き当たりの壁に手を触れる。

そこは、何の変哲もない、重厚な壁紙が貼られただけの行き止まりだ。


だが、湊が首にかけた「鍵穴のないペンダント」が、壁に近づけた瞬間、微かに熱を帯びた。


「(……磁石? いや、共鳴してるのか……?)」


壁の隙間に指をかけ、力を込める。

すると、古びた機械仕掛けの音と共に、壁の一部が数センチだけ、内側へと沈み込んだ。


「……っ、開くのかよ、ここ」


湊が息を呑んでさらに押し込もうとした、その時。


「……そこで何をしているのかしら、七海君」


氷のような声が、背後から突き刺さった。

振り返ると、いつの間にか図書室から戻ってきた詩乃が、冷ややかな瞳で湊を見下ろしていた。

その手には、彼女の『黄金の鍵』が握られている。


「あ、いや。掃除のついでに、壁の汚れが気になって……」

「そう。……管理人なら、屋敷の『死角』には深入りしないことね。……おやすみなさい」


詩乃はそれ以上何も言わず、自分の部屋へと入っていった。

カチャリ、と内側から鍵をかける音が響く。


湊は一人、暗い廊下に立ち尽くした。

壁の向こう側から、微かに「花の匂い」がしたような気がした。

それは十年前の夏、アリスの服から漂っていた、あの甘い香りと全く同じだった。


「……この屋敷、やっぱり何か隠してやがる」


管理人の初仕事は、まだ始まったばかりだった。

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