第1話:『五つの鍵と、ずぶ濡れの逃亡者たち』
降り注ぐ光。ステンドグラスを透過した七色の色彩が、大理石のバージンロードを彩っている。
遠くで鳴り響くパイプオルガンの重厚な音色が、厳かな空気を作り出していた。
タキシードに身を包んだ七海 湊は、極度の緊張で指先を震わせていた。
隣には、純白のウェディングドレスを纏った「彼女」が立っている。
ベールの向こう側、逆光で顔ははっきりと見えない。
けれど、彼女の手がそっと湊の手に重ねられた。その温もりだけは、十年前のあの夏の日と全く同じだった。
「……ねえ、湊くん。覚えている?」
彼女の声が、静かなチャペルに溶けるように響く。
「あのボロい洋館で、嵐の夜に私を見つけてくれたこと。……そして、私が『黄金の鍵』をあなたに預けた日のこと」
湊は、首元に手をやった。
そこには、十数年使い込まれて傷だらけになった、しかし大切に磨き上げられた「鍵穴のないペンダント」が下がっている。
「……忘れるわけないだろ。あの日から、俺の人生はめちゃくちゃになったんだからな」
湊が苦笑混じりに答えると、彼女は愛おしそうにクスクスと笑った。
「ふふっ、そうね。……でも、楽しかったでしょう? あの五人との、騒がしくて、嘘つきで、最高に愛おしかった一年間」
彼女がゆっくりとベールに手をかける。
湊の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
「……さあ、開けて。湊くん。あなたが守り抜いた、私たちの『聖域』の、最後の扉を」
ベールが上げられる瞬間――光が画面を白く染め上げる。
「――誰が本物かなんて、もう、どうでもいいくらい……愛してるよ」
激しい雷鳴が、古びた洋館「セブンス・ヘイヴン」のシルエットを白く浮き上がらせる。
叩きつけるような豪雨の中、高校生の七海 湊は、泥跳ねを気にしながら重厚な鉄門の前に立っていた。
「……じいちゃん、正気かよ。遺産相続の条件が、こんなお化け屋敷の『管理人』を1年務めることなんて……」
湊の手には、黄ばんだ封筒に入った遺言書と、首にかけた奇妙な「鍵穴のないペンダント」。
門を抜け、伸び放題の庭を横切り、玄関の重い木製ドアを押し開ける。
「……お邪魔します。……って、自分の家になる予定なんだから、お邪魔しますはおかしいか」
館内はひんやりとしていて、カビと埃の匂いが鼻をつく。
湊が壁の手探りでスイッチを見つけ、パチリと照明を入れた。
シャンデリアが瞬き、巨大なリビングが姿を現す。
しかし、そこで湊の目に飛び込んできたのは、埃を被ったアンティーク家具……ではなく、「真っ白なドレスを着て、床に四つん這いになっている女」の背中だった。
「ひぃっ……!?」
湊の喉が引き攣る。
長い黒髪が床に広がり、その女はガサゴソと何かを探している。
「じ、じいちゃん……除霊、除霊の方法なんて聞いてないぞ……! 臨兵闘者皆陣列在前ッ!!」
「……うるさいわね。さっきから何をブツブツと……」
女がゆっくりと顔を上げた。
幽霊ではない。この世のものとは思えないほど整った顔立ちをした、同年代の少女だ。
しかし、その瞳には凍てつくような冷徹さが宿っている。
彼女の名は、九条 詩乃。
「な、なんだ、人間か……。びっくりさせるなよ」
「それはこちらのセリフよ、不審者。私は今、大切な探し物をしているの。邪魔をするなら、そこの暖炉の火かき棒であなたの頭蓋をカチ割らなければならなくなるわ」
詩乃は平然と物騒なことを言いながら、再び床に視線を落とした。
よく見ると、彼女の純白のドレスは雨でずぶ濡れになり、泥で汚れている。
「探し物って……何を探してるんだよ。手伝うか?」
「『黄金の鍵』よ。この屋敷のどこかにある、私の居場所を開けるための鍵。それがないと……私は、あの家に戻らなきゃいけなくなる」
詩乃の声が、微かに震えた。
湊はその瞬間、彼女の瞳の奥にある「恐怖」を見て取った。
ただのわがままな令嬢じゃない。何かに追い詰められている。
「鍵……? もしかして、これのことか?」
湊が足元に落ちていた、不思議な意匠の鍵を拾い上げる。
詩乃の顔にパッと光が差し、彼女はひったくるように鍵を奪い取った。
「それよ! ……よかった、これで私は……」
安堵の溜息を漏らす詩乃。しかし、すぐに彼女は眉をひそめ、湊を指差した。
「ところで、改めて聞くけれど……あなたは誰? 九条家の追手には見えないけれど。まさか、この屋敷に勝手に住み着いている不潔な地縛霊の類かしら?」
「地縛霊じゃねえよ! 俺は今日からここの管理人になる七海湊だ! ほら、これがじいちゃんの遺言書……」
湊が差し出した書類を、詩乃は奪い取って一瞥する。
「『七海宗助』……。あのおじい様の孫なのね、あなた」
「じいちゃんを知ってるのか?」
「ええ。私がここへ逃げてくるように言ったのは、あのおじい様よ。……でも、まさか管理人がこんな、頼りなさそうな、ボロ雑巾みたいな少年だとは思わなかったけれど」
「ボロ雑巾って……! こっちだって、初日に幽霊みたいな格好した女子と会うなんて思ってなかったよ!」
火花を散らす二人。
しかし、その最悪の初対面を打ち消すように、屋敷全体を揺らすほどの激しい衝撃音が玄関から響き渡った。
「……ッ!? 何だ、今のは!」
「……来たわね。思ったより早かったわ」
詩乃の顔から血の気が引く。
玄関の方からは、ドカドカと土足で上がり込んでくる複数の足音が聞こえてくる。
「九条詩乃お嬢様! いらっしゃるのは分かっております! さあ、大人しくお戻りください!」
図太い声が館内に響き渡る。
「九条のお嬢様! 無駄な抵抗はやめて、大人しく九条の家へ戻りなさい!」
玄関ホールから響く怒声と、土足で絨毯を汚す荒々しい足音。詩乃は微かに肩を震わせ、手にした『黄金の鍵』をぎゅっと握りしめた。
「……私の平穏が、たった数分で崩れるなんて。最悪の夜だわ」
「おい、詩乃……。アイツら、マジで入ってきたぞ。どうすんだよ!」
湊が慌ててリビングの重厚な扉を閉めようとした、その時だった。
「おーっと! 通りまーす! ストップ、ストップーッ!」
場違いなほど明るい声と共に、リビングの掃き出し窓のガラスがガタガタと悲鳴を上げた。
次の瞬間、鍵がかかっていたはずの窓を強引にこじ開けて、オレンジ色のショートヘアをなびかせた少女が滑り込んできた。
「セーフッ! あはは、追っ手を巻くのに庭の噴水、一周しちゃった!」
「……はあ!? お前、誰だよ! 窓から入ってくんな!」
湊が叫ぶが、少女――羽衣 舞は気にした様子もなく、濡れたジャージの裾を絞りながら湊に顔を近づけた。
「あ、君が管理人さん? じいちゃんから聞いてた通り、なんか優しそうだね! 私、舞! お腹空いたから、後で何か食べさせて!」
「食わせるか! 今、玄関からヤバい奴らが来てるんだぞ!」
「あら、そのヤツらなら、私が少しばかり足止めしておきましたわ」
落ち着いた、鈴の鳴るような声が背後から響く。
いつの間にかリビングの影に立っていたのは、濡れた髪を上品にまとめ、乱れた着物をしとやかに整えた少女、神楽坂 琴音だった。
「お初にお目にかかります。神楽坂と申します……。玄関の殿方たちには、『お嬢様は裏庭の森へ消えましたわ』と嘘を教えておきました」
「琴音……あなたまで。神楽坂の家を捨ててきたの?」
詩乃の問いに、琴音は寂しげに、けれど決然と微笑んだ。
「ええ。あそこはもう、私の居場所ではありませんから……」
感動的な再会……を演出する暇もなく、今度は玄関のドアが文字通り「蹴り」飛ばされた。
「ちょっとぉ! この屋敷、どうなってるのよ! 街灯も少なすぎるし、電波も一本しか立ってないじゃない!」
ブランドロゴの入った派手なライダースジャケットを羽織り、不機嫌を絵に描いたような美少女、西園寺 凛花が、玄関のスーツ男たちを「邪魔よ、どきなさい!」と突き飛ばして入ってきた。
「西園寺まで……。あなた、実家の跡継ぎ争いはどうしたのよ」
「あんな泥仕合、降りたわよ! それより管理人! アンタ、私の荷物を部屋まで運びなさい! 腰が痛いわ!」
「俺は運び屋じゃねえ! ……っていうか、お前ら全員、知り合いなのか!?」
湊の頭痛は限界に達しようとしていた。
しかし、トドメの一撃はまだ残っていた。
「……ねえ、みんな。そんなに大声出さなくても、湊くんは逃げないよ?」
湊の耳元で、甘ったるい吐息がした。
「ひぇっ!?」
飛び退くと、そこにはいつの間にか湊の背後に回り込み、彼の首筋を指先でなぞる不知火 結愛が立っていた。
彼女は濡れて透けたブラウスを隠そうともせず、小悪魔的な笑みを浮かべる。
「初めまして、湊くん。私、結愛。おじいちゃんから聞いてたよ。……『孫の湊はチョロいから、すぐ落とせるぞ』って」
「じいちゃん、死後に名誉毀損で訴えてやる……!」
こうして、リビングには5人の令嬢が集結した。
あまりにも濃すぎるメンツが揃った瞬間、玄関を突破したスーツ男たちがついにリビングへと乱入してきた。
「いたぞ! お嬢様方、まとめて連れ戻せ!」
5人の視線が、一斉に湊へと注がれる。
「ねえ、管理人さん。どうするの?」
舞がニヤリと笑い、詩乃が冷たく見つめ、凛花が顎で指示を出す。
「……あー、もう! 分かったよ! やればいいんだろ、やれば!」
湊は自棄気味に、首にかけた鍵穴のないペンダントを握りしめた。
リビングに踏み込んできた黒服のスーツ男たちは、総勢八名。訓練された身のこなしで、瞬く間に五人の令嬢を取り囲んだ。
「お嬢様方、遊びは終わりです。各ご実家からの厳命により、力ずくでも連れ戻させていただきます」
先頭に立つ男が、無機質な声で告げる。舞が身構え、凛花が舌打ちをし、琴音がそっと詩乃の背後に隠れる。結愛だけは、湊の袖を掴んで「ねえ、湊くん、どうにかして?」と上目遣いで囁いた。
「……おい、お前ら。ここは不法侵入禁止だぞ。一歩下がれ」
湊が震える声を絞り出す。しかし、男たちは鼻で笑った。
「小僧、どけ。管理人のガキごときが、名家相手に何ができる」
男の一人が湊の肩を掴み、乱暴に突き飛ばそうとした――その瞬間。
湊の首にかかった「鍵穴のないペンダント」が、リビングの壁に設置された古いクレスト(紋章)と共鳴するようにカチリと音を立て、青白く発光した。
「……じいちゃんの遺言、思い出した。『管理人の言葉は、この屋敷の法だ』ってな」
湊はペンダントを握りしめ、リビング中央にある重厚な大理石の柱を叩いた。
「セブンス・ヘイヴン、システム起動! ――『不速の客』を排除しろ!」
地響きのような音が鳴り響き、屋敷全体が生き物のように震え出した。
次の瞬間、リビングの窓という窓に、厚さ数センチはあろうかという超合金製のシャッターが爆音と共に降り注いだ。
「なっ、何だ!? 脱出経路を塞ぐ気か!」
慌てる男たち。だが、それは始まりに過ぎなかった。
床のタイルがスライドし、そこから高電圧のレーザーフェンス……ではなく、超高性能の「全方位自動放水ノズル」が突き出した。
「くらえ! じいちゃん特製、泥棒撃退用・高圧ケルヒャーシャワーだ!」
ドシュッ!! という凄まじい水圧の音が響き渡り、リビングの入り口に向けて猛烈な放水が開始された。
「ぐわぁぁっ!? 目が、目がぁぁ!」
「なんだこの水圧は! 息ができん!」
訓練されたはずのスーツ男たちが、まるで洗濯機に入れられた猫のようにバラバラに押し流されていく。湊はさらに、壁の隠しレバーを引いた。
「仕上げだ! 玄関ホールへ直通エスカレーター、逆回転!」
男たちが逃げ込もうとした廊下の床がベルトコンベアのように高速で逆回転を始め、彼らをまとめて玄関の外へと「射出」していく。
バタン!!
最後は、巨大なオーク材の玄関ドアが、まるで巨人の手によって閉められたかのような重低音と共に閉じ、五重の電子ロックが「ガチン!」と完璧な封印を告げた。
「……ふぅ。……これでよし」
湊が肩で息をしながら振り返ると、そこには口をあんぐりと開けた五人の令嬢たちがいた。
「……すごーい! ミナト、今の何!? 忍者屋敷みたい!」
舞が目を輝かせて湊の肩を叩く。
「……まあ、最低限の仕事は認めてあげてもいいわ。でも、服が少し濡れたじゃない。クリーニング代、請求するわよ」
凛花が髪を整えながら強気に言い放つが、その頬は微かに上気している。
「管理人の特権……。本当だったのですね。七海様、感謝いたします」
琴音が深々と頭を下げた。
「……悪くないわね。地縛霊のくせに、少しは頼りになるじゃない」
詩乃がそっぽを向いて呟く。その手はまだ、自分自身の「黄金の鍵」を強く握りしめたままだった。
湊は、静まり返ったリビングを見渡し、改めて自分に言い聞かせるように呟いた。
「……今日から、ここが君たちの聖域だ。……ただし、掃除と洗濯は交代制だからな!」
嵐のような騒動が去り、洋館「セブンス・ヘイヴン」に静寂が戻った。
五人の令嬢たちは、湊が渋々差し出したカップ麺(凛花には「信じられない!」と罵倒されたが、結局完食していた)を平らげると、それぞれの部屋へと散っていった。
湊は一人、リビングのソファに深く沈み込み、天井のシャンデリアを見上げていた。
「……一晩で五人。しかも全員、どっかの名家の令嬢。じいちゃん、これ本当に『管理人』の仕事かよ……」
疲労困憊の湊がふとテーブルに目をやると、詩乃が置き忘れたらしい一冊の革張りの手帳が目に入った。
「あいつ、あんなに大事そうにしてたのに。……中身を見る趣味はないけど、名前くらい確認しとかないと、また地縛霊扱いされるしな」
湊はためらいながらも、手帳の表紙をめくった。
だが、そこには名前の代わりに、見覚えのある繊細な筆致でこう記されていた。
『宿泊予約名:アリス』
「……っ!?」
湊の指先が、目に見えて震え出した。
アリス。
それは、十年前の夏休み、一度だけこの屋敷の庭で出会った少女の名前。
湊が今も首にかけている「鍵穴のないペンダント」をくれた、彼の初恋の相手。
「詩乃が……アリスなのか? でも、あいつは俺のことなんて……」
慌てて手帳の他のページをめくるが、そこは奇妙なほど真っ白だった。
動揺を隠せない湊は、立ち上がってリビングに残された彼女たちの「痕跡」を追い始める。
ふと、舞が脱ぎ捨てたジャージのタグが目に入った。そこには手書きのネームマジックで、小さな「青い蝶」のマークが描かれていた。
「青い蝶……。アリスが一番好きだったモチーフだ」
次に、琴音が丁寧に畳んで置いていったハンカチに目を落とす。そこには、アリスがよく口ずさんでいた「マザーグースの変な替え歌」の歌詞が、刺繍で一節だけ刻まれていた。
「……嘘だろ。凛花のスマホケースの裏……このシールの貼り方、アリスが俺の宝箱に貼ったのと全く同じ配置だ。結愛の言ってた『チョロい』って言葉だって、十年前のあの日、アリスが俺をからかう時に使った……」
湊は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……誰だ。誰が本物なんだ?」
五人全員が、断片的に「アリス」の記憶を持っている。
あるいは、五人全員が、アリスという一人の少女を演じているのか。
「……じいちゃん。俺、とんでもないものを預かっちまったのかもな」
湊はペンダントをぎゅっと握りしめる。
閉ざされた屋敷、五つの鍵。
そして、たった一つの、隠された真実。
二階の廊下からは、誰かが鼻歌を歌う声が聞こえてくる。
それは、十年前の夏の日、湊が最後に聞いた別れのメロディと同じだった。




