8、里桜の献恋(けんれん)
今日も閉店の十八時を迎えた。カウンターの中から里桜は言った。
「お二人さん、お疲れ~。やっと終わったぁ。今日は忙しかったなー」
柚海は言った。
「お疲れ様です。商店街の店主の皆さんやら、高校生グループやら。目白押しでしたね」
柚海に続き、瑠季も言った。
「お疲れ様で~す。っていうか、私まだ三時間くらいしか働いてないから全然元気ですぅ」
里桜は瑠季に言った。
「アハハッ、そうだよね。頼りにしているよ。やっぱりナナちゃんがいると、若いお客さんが増えるよね。高校生なんて、以前はほとんど来なかったもん」
「偶然ですよ~」
柚海も話は聞いていたが、テーブルの片づけをしていた。
里桜は興味津々な感じで、瑠季に聞いた。
「ねぇねぇ! あの子達に、連絡先を聞かれたりしないの?」
「高校生に? しますねぇ」
「誰? どんな子が聞いてくるの?」
「うーん誰って言われても、大勢いますからねぇ…。『遊び慣れた感じのイケメン』や、意を決した感じの『真面目クン』まで、色々ですよぉ。断りますけど」
「そうなんだ。で、何て答えるの?」
「一言だけですよ。『ごめんなさい…お姉さんを許して』って」
「アハハッ! なるほどぉ~! 上手いね、見習おうっと」
柚海は里桜に聞いた。
「あの、俺には分からないです。どういう意味ですか?」
「つまりさ、どうとでも受け取れるって事だよ。『今、彼氏がいるからあなたと連絡先の交換はできません』とも取れるし、『今、恋愛をする心境ではない』とも取れる。
そして謝っているというのは、『あなたが不満だからではない』というメッセージなんだ。
強く突き放すと、もう来なくなるかもしれないし、怒りだすかもしれない。トラブル防止だよね? ナナちゃん」
「はいっ、そんなトコロです。さすが里桜さん」
「まあ客商売やっているとね、大なり小なりある事だからさ。上手く立ち回らないとね。ナナちゃんも本当に困った時は、絶対に相談してよ」
「ありがとうございます。今のところは大丈夫ですよ。楽しんでるぐらいですぅ。それにここのお客さんは良い人ばかりで、ストーカーみたいな人はいませんしね」
「うん、それは私も思ってるよ。気の良い人ばかりだもんね。
ユズミンはどう? もし連絡先を聞かれたら、なんて答えるの?」
「俺ですか? もし言うならハッキリ言いますね。言い回し考えたりするの苦手なんで。『お客様と外でお会いすることはできないんです。すみません。』って」
「ストレートだね。男なら、その方が逆に良いのか。ハッキリしてて」
「それに女性ではいませんよ、ウエイターの連絡先を聞こうとする人って。俺に声を掛けてくるのは、オバサンかお婆さんです。
『ウチの娘・孫と結婚しない?』って。笑っちゃいますけど。若い子なんていないです」
「結婚は重いねー。じゃあ、お客さんと会った事ないんだ」
「無いですよ。あっ、でも、明日会いますね。お客さんじゃあないですけど」
ここから急に、里桜の声に力強さが消えた。
「…えっ? 誰と?」
「ほら、商店街の手作りパン屋さん。ウチに食パンを降ろしてくれている店です。その店の店員さん…っていうか、オーナーの娘さんですね。明日、仕事終わりで食事します」
「…どうしてまた?」
「あそこのマスター、ウチの常連さんでしょう? もうすぐ、娘さんが婚活を始めるんですって。この前、お店にいらっしゃった時に言ってました。その娘さんと会うんです」
「あっ、九条さんね。娘は真理恵さんだっけ? 確か三十歳くらいだよね?」
「三十二ですって。マスターが言うには、『娘は男に全然免疫が無い』そうです。
あのお店の従業員の皆さんは、全員パートの女性でしょう? 男と接点が全然無い生活らしいんですよ。だから、男と目を合わせて話す事すら苦手なんですって。だから婚活をスタートさせる前に、俺に『会話の練習台になってやってくれ』と言われました」
「へぇ…」
「あの、いけなかったでしょうか?」
「別にいけなくはないよ。プライベートな時間はユズミンの自由だからね。ただ、一言くらい報告してほしかったな。一応は商店街の人が関係している事なんだから。
今後マスターと会った時、私がそれを知らなかったらカッコつかないじゃん」
「あ…すみませんでした」
「まあ、当人同士の自由なんだけどさ。でも、そこまでユズミンがしてあげる義理ってあるの?」
「うーん、義理と言うか…。ウチに食パンを安く卸してもらえるように、掛け合ってくれたのは真理恵さんなんですよね。お店同士って持ちつ持たれつじゃないですか? だからお礼みたいなものですよ」
里桜の口調が強まった。
「つまり、私の為に行くんだと言いたいの?」
「そんな言い方…、違いますよ。単純に、『お世話になっている人が困っているなら、手助けしようかな』って程度のものです。
真理恵さんとは数回立ち話しただけですけど、穏やかで良い人ですよ」
「『真理恵さん』ね…。確かユズミンって、女を名前で呼ぶのはハードルが高いんじゃなかったの?」
「いや、名字の『九条さん』って言ったら、マスターを想像しちゃうでしょう? だから名前で言っているだけで」
「…で! 人助けで食事に行く訳だ。私が何度誘っても、絶対に来ないくせに」
「それは、女性にご馳走になる訳にはいかないからですよ」
「それって性別関係あるの? 別にホテルのレストランへ行こうなんて言ってないよね? ファミレスとかなら、せいぜい二人で三千円くらいよね?
それぐらい私が払う事に、問題でもあるの?」
「問題じゃなくて、気持ちの話ですよ」
「私には奢ってもらいたくないけど、真理恵さんには奢ってもらうんだ」
「そうじゃないです。そもそも、別に外食する訳じゃないんです。あのパン屋さんって、イートインのカウンター席が少しあるじゃないですか? そこで余った総菜パンを食べながら、世間話をするだけです。『もちろんお金は要らない』って、マスター言ってました」
柚海がそう言うと、里桜は大声で怒鳴った。
「だから! お金の問題じゃあないんだよっ!」
里桜に圧倒された柚海は、表情がこわばった。
瑠季はお店の片づけをしながら話を聞いていて、動きが止まった。
二人の様子を見て我に返った里桜は言った。
「ごっ、ごめんなさいっ! 私、二階で事務処理しているから、後お願いねっ!」
里桜は逃げるように二階へ上がっていった。
その姿を見た柚海は、肩を落として言った。
「來々乃(ななの)さん、仕事を続けよう。
俺が洗い物するから、あなたはテーブル拭いた後に消毒をしてくれるか?」
「あっ…、ああ」
二人は無言で仕事を続けた。
しばらくして、洗い物を終えた柚海が言った。
「來々乃さん、後を頼む。食器を拭いて、棚に戻してくれ。それで終わりだから」
「分かった」
柚海はお店の奥にあるロッカールームに行った。
エプロンを脱いでカバンを持って出てくると、カウンターの奥にある扉の前に立った。
そして大きな声で、閉まっているドアに向かって叫んだ。
「西臣さーん、お先に失礼しますー!」
里桜から返事はない。
柚海がお店の入り口へ向かうと、出て行きながら小声で言った。
「お疲れ様」
「ああ、お疲れ」
柚海が帰ると、瑠季はカウンターの中に入った。食器を拭き、棚に戻していく。
食器を拭きながら言った。
「穂紫さんなら帰りましたよ」
瑠季の背中にあるドアが少し開き、困った様子の里桜が顔を覗かせた。
「アハハ…気が利くね、ナナちゃん」
「ふーっ、まったくもう…」
里桜は冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、カウンター席に座った。
瑠季はカウンター内で食器拭きを続けていたが中断し、里桜の前にグラスを置いた。
瑠季は里桜からカウンター越しに缶ビールを受け取り、グラスにビールをに注いだ。
「ありがとう、ナナちゃん。可愛い子のお酌なんて嬉しいよ」
「アハハ、ありがとうございます」
里桜はビールを一口飲むと、深くため息をついた後に言った。
「全部、ユズミンの言う通りだよ。彼は何も悪くない。真理恵さんに会うのは、お店の付き合いだし、お世話になっている人達の力になりたいって事だよね。
なにも問題は無いよ。ただ、たださ---」
「やきもちを焼いてしまったと」
「へっ?」
「可愛いですね、里桜さんって」
「あんたねぇ、本当に大人びているわね」
「他人の恋愛沙汰は、高見の見物をしていると面白いですから」
「楽しまないでっ! でも、ユズミンに文句はあるよ。
私の気持ちが分かってるのに、応えようとしないんだからさ」
「う~ん。里桜さんの事を大切に考えるなら、仕方ないんじゃないでしょうか?」
「どういう事よ?」
「踏み込めないんだと思います。借金があるんですよね? 穂紫さんって。
食事代を里桜さんに出してもらうのって、広い意味で考えたら、回りまわって、借金の返済を手伝ってもらっているように感じるんじゃないですか?」
「はぁ? じゃあ私がジュース一本奢ったら、あいつは『やった! この百円分は借金返済に回せる!』とか思うっての? おかしいよ! 好きな男に食事ぐらい奢ったっていいじゃない! そんなに負担に感じるわけ? プライドが許さないわけ?」
「まぁまぁ、落ち着いて。私にキレても仕方ないです」
「あっ、そうだよね。ごめん」
「里桜さんにしたら、自分の気持ちを知っているのに、
付き合おうとしない穂紫さんにイライラするのは分かりますけど」
「…え? そんな事ないよ。私は付き合いたいけど、ユズミンが嫌なら仕方ないよ」
「…あれ? もしかして私達、噛み合ってません?」
二人でクスリと笑った。そして里桜は言った。
「付き合う・付き合わないは、どっちでもいいんだよ。ユズミンにだって事情があるし、私の事がタイプじゃないかもしれない。そこは私がコントロールできる事じゃないから。そうじゃなくて、寂しいんだ。彼との距離がね」
「距離…ですか?」
「うん。私達さ、もう丸二年以上、一緒に仕事をしているんだよ。ユズミンは本当に真面目で、一生懸命にやってくれる。もう給料以上に働いてくれるの。その上、私の負担が増えないようにって、いつも考えてくれてるよ。例えば私が少しでも困っていたら、飛んでくるもんね」
「じゃあ良い関係なのでは?」
「仲は良いけど、それは会社の従業員として。つまりさ、ユズミンは私に甘えてくれないんだよね。生活で悩みを抱えているんだったら、愚痴の一つも聞かせてほしい。もっと頼ってほしい。そこが寂しいの」
「最初は、どんな印象だったんですか? 穂紫さんって」
「えーっと、二年前くらいに面接に来てから、それから一緒に働いているからね。
最初、このお店を開いた時は、従業員で苦労したんだよ」
「そうなんですか?」
「最初は、飲食店でかなり経験のある男性を選んだんだ。でも、仕事はすごくできるんだけど、プライドも高くてね。こっちの言う通りに動いてくれない。しかも自我まで目覚めてきて、自分の店みたいに振舞いだしてさ。さらにヒドくなって、私に手を出そうとしてきた。『おいオッサン、家に鏡無いのか』って言ってやった」
「あれ? 『言いそうになった』じゃなくて?」
「違うよ。堂々と怒鳴ってやった」
「さすが里桜さん! でも、それは寒気しますね。マジで最悪」
「…で、次は年の近い女性を選んだんだけど、最初は割と上手くいってたよ。でもさ、女同士って、仲が良い時はいいんだけどさ、悪くなっちゃったのに、ずっと同じお店で働いていたら…。女のナナちゃんなら分かるよね?」
「うわぁ…それも寒気しますね」
「また募集をかけるんだけど、何度か痛い目にあっているかね。『誰でも一緒だ。まずは一緒に働いてみないと分からない。もう誰でもいいや』って気分だった。
それで、次に現れたのがユズミンってわけ。前は製薬会社の工場勤務。スーツ着て面接に来てさ、めちゃくちゃカッコ良かったんだ。年上の男なのが気になったけど、趣味は料理だって言うし。即採用したよ」
「へぇ~。で、実際に一緒に仕事をしてみてどうでした?」
「もう働く! 働く! メニューは持ち帰って覚えるし、常連さんの顔・特徴・いつものオーダーをメモしてビッチリ覚えてさ。私にも仕事の質問の嵐。覚えは早いほうじゃなかったけど、努力は十倍する人だからね。あっという間に主力になったよ。ドリンク系なら私だけど、フード系なら、ぜんぜん太刀打ちできないもん」
「そうなんだ、すごいですね…エヘヘ」
「ん? どうしたのナナちゃん? なんか嬉しそうだね」
「いっ、いや! そんな事はないですよ」
「あと、意外とミーハーな部分もあって面白いんだ」
「ミーハーって?」
「彼ね、手話ができるんだよ。英会話で言ったらカタコトくらいらしいけど。
まあ、簡単な意思疎通をするには十分なぐらいはできるみたいね」
「えっ! そうなんですね。それはすごいかも。でも、手話が何故ミーハーなんですか?」
「ユズミンの好きな女優が出ているドラマがあってさ、それに彼はハマったらしいのね。タイトルは『みかん記念日』だったかな? 私は観ていないから知らないんだけど。
それは手話がテーマのドラマだったのね。…で、その女優が流暢に手話をしているのを見て、『自分もやってみたい』って思うようになったらしいよ」
「じゃあ、好きな女優さんが出ていなかったら?」
「『やってません!』って言ってた」
「アハハッ! 正直ですね。それはミーハーだぁ。まあ、サッカー漫画を好きになって、サッカー始めたのと同じようなモノでしょうか?」
「そうそう、そんな感じよ。真面目なのかミーハーなのか…」
「色々と穂紫さんの事を聞いていて思うんですけど、一つ分からないんです」
「なにが?」
「製薬会社の工場で働いていた人が、なぜ飲食店で働く気になったんですかね?」
「あっ、それは私も気になって、面接で聞いたんだ。そしたら言ってたよ。
『人と話す仕事がしてみたい』って」
「話す仕事?」
「『直接、人に何かをする仕事』って意味なのかもね」
「どういう意味でしょう?」
「面接では深く聞けなかったけど、一緒に働くようになったら少しづつ話してくれた。
彼の前の会社って、そうとうノルマとかキツかったみたい。他社はもちろん、同僚も出し抜け! みたいなギスギスした職場だったみたい。彼の性格上、それは合わなかったんだよ。でも借金があるでしょう? 給料はかなり良かったらしくて、なかなか辞めれなかった。だから、人と人が直接向き合えるような、人に直接触れ合えるような仕事をしてみたいと思うようになったんだって。料理も好きだし」
「だから飲食店、しかも喫茶店なんですね。
それからずっと、一緒に働いているんですね?」
「そう。この狭い店で、一日のほとんどを一緒に過ごしてる。二年間もね。そりゃあ情も移るよ。ユズミンは、そういうのないのかな? 恋人がいるんなら納得できるんだけど、いなさそうだもんね」
「はい、そんな感じです」
「私と付き合えないんだったら、それでいいよ。でもたまにはさ、『職場の上司』じゃなくて、『一人の女』として私を見てほしい。彼に望むのは、それだけなの」
里桜はグラスを持つと、残っていたビールを、勢いよく飲み干した。グラスにまたビールをつごうとして、缶に手を伸ばした。
すると瑠季に缶を取り上げられた。
「おぉーっと、そこまでですよ」
「いや、なにやってんの? 返してよ。今日は酔いたいんだから」
瑠季は里桜の言葉を無視して、缶ビールの残りを流しに台に捨てた。
里桜は泣きそうな声で叫んだ。
「えぇー? ちょっと! まだ半分も飲んでないのにぃー!」
瑠季は空き缶を里桜に渡した。
「はい」
そして缶の側面を指差して言った。
「ここ読んでもらえます?」
「はぁ? 『お酒は二十歳を超えてから』って、何を読ませてんの? 私二十六だよっ!」
「その次には何て書いてます?」
「えっと、『妊娠中の飲酒は胎児に悪影響を与える可能性が…』って、妊娠してないっての!」
「その次は?」
「『お酒は適量を飲んで楽しみましょう』」
「それです!」
「えっ?」
「ちゃんと注意書きがあるでしょう?
里桜さんは、注意書きの三つ目を、必ず守ってくださいね」
「お前はPTAかっ! バカ正直にこんな建前じみた注意書きを守ってられるかっての!」
里桜に怒鳴られた瑠季は、驚いた様子で目を丸くした。
里桜は、そんな瑠季を見て不思議に思った。
「あれっ? ナナちゃん、どうしたの? そんなに驚いて」
「今の里桜さんの言葉、昔の私が言ったのと同じです」
「昔って?」
「私、三年くらい前…中学三年の年末あたりだと思います。ふざけてビールを飲んだ事があるんです。気持ち悪くてすぐ止めましたけど。百ミリくらい飲んだかな?」
「まあ…ダメだけど、よくある話だよね。煙草を少し口先で吸ったりさ。早く大人になりたくて、背伸びしちゃうから」
「それが知られてしまって、めちゃくちゃ叱られた事があったんです。暴言や暴力は無かったんですけど、理論的にトコトン叱られました」
「ありゃ、ついてなかったね。でもまぁ、親としては心配になるし」
「あ、親じゃないです」
「じゃあ誰?」
「えーっと…、親戚のオジサンです。そのオジサンは、父親がDVの人だったそうです。しかも、お酒が入ると見境がなくなるらしくて、とても辛い目にあったんですって。
だから、お酒に厳しかった。バレた時も、怒鳴るんじゃなくて、延々とお説教です。
体の悪影響の話から法律の話まで、みっちりとね。その時に、何度も見せられたのが---」
里桜は空き缶の注意書きを指差した。
「もしかして、これ?」
「そうなんです!」
瑠季は男の声色に変えて言った。
「この注意書きを見ろ! 『未成年は飲むな』って書いてあるだろ!
これはな、建前だけじゃないんだ! 法律で決まっているんだ! 何より、体ができていない未成年の身体を守るためなんだぞ! 『法令順守』を忘れるなよ! …ってね。
その四文字が口癖みたいな人なんです」
里桜は大笑いした。
「アハハハハハッ! 『法令順守』が口癖? オジサンは固い人だね!」
「あれぇ? 里桜さんに、こんなにウケるなんて嬉しいな。」
「だってさ、今のナナちゃんの声色と喋り方って、ユズミンみたいだったもん。
内容も、いかにもユズミンが言いそう。頭固いからなー、あいつも」
内心『ギクリ!』とした瑠季は、上ずらせた声で言った。
「そ、そ、そ、そうですかね?」
「まぁそのオジサンに、こってり叱られたんだ」
「はい。当時はうっとおしいとしか思わなかったんです。だから怒鳴り返しました。
『こんな注意書き、建前だよっ! 守ってられるかぁ!』ってね。
でも今になると、その通りだなって思えるんです。極端な話ですけど、体ができていない子供がお酒飲んでフラフラして、階段から落ちて死ぬって事も、ありえますから」
「そうだね。未成年者がアルコールに体が耐えられなくてショック死…っていうのは、
本当にあるから。そのオジサンは、本当にナナちゃんが好きだから心配していたんだよ。
ナナちゃんは、そのオジサンとは仲が良かったの?」
「えーっと、当時は悪態ばかりついていたんですけど、今は好きかな? アハハ…」
「おーおー、照れちゃって」
「だからそれ以来、思ってるんです。私にとって身近に感じる人が、間違ったお酒の飲み方をしていたら止めたいなって。里桜さんには、そんな飲み方をしてほしくないんです」
「うん、分かったよ。心配してくれて、ありがとうね」
「エヘヘ…」
「ナナちゃん、さっきのケンカで、ユズミンが辞めちゃうって事ないかな?」
「まさか? さすがにそれは…」
「私達、あんな大きなケンカをしたのは、さっきのが初めて。どうしよう? もし辞めちゃったら…。もうどんな関係でもいいから、せめて近くにはいてほしいよ」
「里桜さん…」
●
時刻は二十一時過ぎ。瑠季は帰宅途中に、とある夜道で立ち止まっていた。中央公園の近くにある夜道。人気は無い。スマートフォンを片手に腕を組み、道の端で立っていた。すると、そこに柚海が走りながらやってきた。
かなり息が乱れ、大汗をかいている。
瑠季はそんな柚海に冷静に言った。
「意外と早いな」
「はぁ、はぁ、…なんの用だよ、こんな時刻に! はぁ、はぁ…」
瑠季はスマートフォンのラインで柚海を呼び出していた。柚海が宿泊している、瑠季の荷物置きのマンションから近いココを指定した。歩いて五分くらいの場所だ。
なのに何故こんなにも息を切らしているのか疑問だったが、それには触れなかった。
「お前に念を押しておこうと思ってな」
「念? なんのことだ」
「お前、店を辞めようなんて思ってないだろうな? 里桜さんとケンカしたのを口実に店を辞めるなんて、そうはいかないぞ。お前は逃げられないんだからな」
「辞めないよ。俺はあのお店は好きだし、西臣さんも尊敬しているんだ。
ちょっとケンカしたぐらいで辞めない」
「あっそ。おい、スマホを出せ」
「スマートフォン? …出したぞ」
「ラインを開け」
「ん? なんだこれ? お前のアカウントから、添付ファイルが来ているな」
「開けよ」
「あれ? これは映画館の電子チケット? しかも二回分だ。くれるのか?」
「勘違いすんなよ。友達に送ろうとしたら、間違えてお前のアカウントに送っちまったんだよ。あげたんじゃないからな」
「だろうね。で、どうすればいいんだよ。送り返せばいいのか?」
「それはできない。送信してしまったら、受信側で使うしかないんだ。
もうそのチケットは、私には関係ない。好きにしろ」
「俺が使っていいのか? へ~え。映画館なんて、何年振りだろう。楽しみだな。しかも二回も観れるなんて」
瑠季は、ガクッと肩を落とした。
「いやいや、二回分あるんだから、二人で行けよ! 誰かを誘えっての!」
「しかし映画は好みもあるしな。しかも、今やっている映画も知らないし」
「いいか、これから私が言うのは一般論だぞ。世間の流行を話すだけだぞ。
今、アニメの『推理少年コイズミくん』ってやってるぞ」
「ああ、毎年新作を作っている大人気のやつだろ? へーっ、今やっているんだ」
「お前の身近で、そのアニメが好きな奴がいないのか? そいつを誘えばいいだけの話だ」
「それだと、お前になっちまうよ」
「えっ…?」
「小学生の頃だっけ? 毎年観に行ったな」
「うん…」
「観に行くか?」
「いっ、行かない! 私の話じゃないんだよっ!
いないのかよ、身近にコイズミくん好きの奴がっ!」
「あっ、いた! 西臣さんが好きだったよ。テレビも毎週録って見てるらしいからな」
瑠季は内心思った。
「(ふーっ、やっと分かった? 手間のかかる人だ)」
「そうか! このスマートフォンを西臣さんに預けて、後日に返してもらえばいいんだ」
「どんな発想してんだよっ! お前も行けばいいだろっ!」
「えっ? それじゃあデートになってしまうんだけど」
「知らねーよ」
「…そうか、分かった。俺はもう行くぞ」
柚海が歩き出そうとすると、瑠季が止めた。
「何処行くんだよ? そっちはマンションとは逆だぞ」
「お店に行くんだよ、西臣さんに会いに。誘ってみるよ」
「こんな時間に? 迷惑だろう?」
「でも、今日言った方が良い気がする。ケンカした後だから、顔を見て直接さ」
「勝手にしろ」
瑠季はクルリと体の向きを変え、歩き出した。瑠季もそれを見届けると、柚海とは逆方向に歩き出した。
瑠季は大きくため息をついて、内心で思った。
「(やれやれ、世話が焼けるなぁ。これで柚海さんと里桜さんは映画館デートをするよね。柚海さんは働きづめなんだから、少しは気分転換してほしいな。里桜さんも、これで気持ちが落ち着くだろうしさ)」
そんな事を考えていると、後ろから離れた場所にいる柚海の声が聞こえた。
「おいっ、夜遅いんだから、気を付けて帰れよー!」
瑠季は振り返って怒鳴った。
「うるさいっ! サッサと行け!」
去って行く柚海の背中を見ながら、瑠季は寂しそうに言った。
「私の心配ばかりしないでよ…」
●
時刻は二十一時三十分。里桜はお店のカウンター席に座っていた。
店の窓のシャッターは降ろされ、後は玄関の戸締りをするだけだ。
里桜はテーブルに上半身を持たれかけて、ボーッとしていた。後は二階の住居で寝るだけなのだが、どうにも体が動かない。お酒は瑠季に止められたので、仕方なくペットボトルのお茶を飲んでいた。すると、玄関のドアが開き、『カランカラン』というベルの音が、店内に響いた。柚海が店に戻ってきたのだ。
柚海は里桜の近くまで来ると、笑顔で言った。
「あっ、西臣さん。まだ下にいらして良かったです」
「ユっ、ユズミン…」
里桜は、柚海が笑顔で帰ってきた事がとても嬉しかった。
しかし、思わず顔を逸らしてしまった。
そして素っ気なく言った。
「なっ、なに? なにか用事でもあるの?」
「西臣さん。明後日の定休日、お忙しいですか?」
「えっ?」
「俺と映画を観に行きません? いや、行ってもらえませんか? お願いします」
柚海はそう言うと、ペコリと頭を下げた。
「なにを観に行くのよ」
柚海は頭を上げて言った。
「推理少年コイズミくんです。西臣さん、お好きですよね?」
「あー、それね。もう観に行ったからいいわ。他の人を誘ったら?」
「あっ、そうなんですね…。じゃあ、他の作品にしましょう。今から一緒に検索しませんか?」
「やめとくよ、夜も遅いし。たった今、二階に上がろうとするトコロだったの。もう帰って」
「じゃあ、食事だけでも行きませんか?」
「思い出した。その日は用事があって無理だったわ」
「二時間だけ時間をもらえないですか? 午前中でも午後でも夜間でもいいですから」
「あー、無理。朝の六時から二十三時まで、用事があるの」
「そうですか…。じゃあ次の定休日の予定って、分かります?」
「しつこいよっ! もう帰って!」
柚海は右手で自分の後頭部を撫でながら、残念そうな笑顔で言った。
「あっ、そうですよね。夜遅くにすみませんでした。じゃあ、また明日。お休みなさい」
ムスッとしている里桜とは対照的に、柚海は笑顔で軽く右手を振った。そしてドアへ歩き出した。
柚海の背中を見た里桜は、慌てて駆け寄って止めた。
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
柚海が振り返り、向かい合わせになった。
「ごめん…、今のは意地悪だった」
「いえ、そんな」
「だってさ、私はいっぱい断られているのに、そっちから誘われたからって、あっさりとOKするのが癪だったの。ごめんね」
「謝る必要なんてないですよ。それといい機会だから、言いますね。俺、西臣さんに謝らなければいけない事があるんです」
「なに?」
「ここに来る途中、歩きながら考えていたんです。西臣さんを誘おうと決めたけど、なんと言ったら良いのかなって。『いつだったらいいのかな』とか『何処に行こうかな』とか、色々考えました。それに、言い方もありますよね? あまり強引に感じさせないようにしないと、困らせちゃいますし。つまり人を誘うのって、けっこう勇気と工夫がいるんですね。今更分かりました」
「…うん、そうだね」
「西臣さんは、その勇気を使って、何度も俺を誘ってくれましたよね。それがどれだけ優しい想いだったのか、さっきやっと分かりました。それなのに、いつもいつも断ってしまっていて…。本当に反省しています。ごめんなさい」
柚海が頭を下げると、里桜は慌てて右手を振った。
「そんな、反省なんてしないで! 私もユズミンの事情を、もっと考えるべきだった。こっちこそゴメンね」
「俺はとても嬉しかったんです。ここ数年は、遊びに行ったりできてないし、外食なんてしていません。プライベートは、ハッキリ言って苦しんでます。だから気を使ってくださったんでしょう?」
「まあ、それもあるんだけど…」
「違うんですか?」
「仲の良い仕事仲間を、慰労したいって気持ちはあるよ。でも、それだけじゃないから」
「他に何か?」
「まぁ、その…。君みたいな『カッコイイ男と遊びに行きたい』っていう気持ちもあるって事。下心はあるよ。真っすぐ私を見て謝るから、正直に言うしかないじゃない!」
「あっ、なんだ。じゃあ謝る必要はありません」
「どうして?」
「俺も一緒です。何度も誘われたからって、ブサイクなオバサンと出かけたいとか思いません。可愛い女の子とだから、出かけたいんです。俺、聖人君子じゃないんですよ」
「可愛い女の子って…、それ私に言ってるの?」
「ここには西臣さんしかいないでしょう? あなたは可愛いですよ。時折り、微笑みながら話してくれるところが可愛いです。どんな色の服も似合うのが素敵ですね。俺はオレンジ色のカッターシャツが可愛くて好きです。足が長いから、ミニスカートが似合いますね。可愛いと思います。『もう、軽蔑されてもいいやっ』って思いながら、後姿を見てました。
俺がお店で作る賄いを、いつも美味しそうに食べてくれますね。その時のほころんだ表情が、可愛いなって思ってます。業者と交渉に行く時、スーツ姿になりますよね。その姿が…パンツルックの西臣さんって可愛いなって思ってます。髪を切ったり・カラーを変えた時、俺は必ず気付いてますよ。可愛いなって、思って見てます。それと---」
黙って聞いていた里桜だが、段々と顔が赤くなっていく。
柚海の話に、耐え切れなくなった里桜は叫んだ。
「も、もう分かったから止めて! これ何? 新手の拷問なの? お世辞を連発してさ」
「俺はお世辞は言わないです。俺、西臣さんは、心底可愛いなって思ってますよ。
だから、一緒に映画を観に行ってください」
「分かった! 分かったわよっ! 行くからもう勘弁してっ!」
「はいっ! じゃあ、行きましょうね。楽しみです」
「もおっ…」
「あと、例の話なんですけど、提案があるんです」
「例のって…? ああ、真理恵さんの事かな?」
「はい、九条さんの件です」
「プッ! もういいよ、無理しなくて。真理恵さんでいいんじゃない?
ユズミンの言う通り、九条さんって言ったらマスターを想像しちゃうよ」
「アハハ、じゃあ真理恵さんで。その真理恵さんなんですけど、明日、パン屋さんで会う予定にしているんです。でも、変更しようかなと思って」
「変更?」
「はい、パン屋さんで二人で会うんじゃなくて、このお店で、西臣さんと三人で話したらどうかなと思って。真理恵さんにしたら、いきなり俺と二人だと大変かもしれません。
女性がいたら安心するだろうし。どうでしょう?」
「うーん…、それは却下」
「えっ?」
「確かに真理恵さんは安心するかもしれないけど、それじゃあ本人の為にならないよ。
もう婚活を始めるのなら、多少の荒療治は必要なんじゃないかな?
だから、会ってきなよ」
「はい、分かりました」
「ごめんね。私が嫉妬深いばかりに、気を使わせちゃって」
「いえ! そんな事はないです。俺こそ、デリカシーが無さすぎました」
「ユズミンさ、私が何を考えてるのか分からなかったら、絶対に聞いてね。
必ず答えるから」
「はい、分かりました。俺も話すようにします」
「あと、私がミニスカート履いている時は、堂々と見ていいからね」
「へっ?」
「明後日、履いてこようか?」
「うぅ…」
「『履かなくていいです』とは言わないんだ。アハハッ!」
柚海は顔を下に向けると、しばらく上げられなかった。
☆瑠季の日記☆
今日はビックリした! 里桜さんが怒ったところを初めて見た。
あの場に真理恵さんって人はいなかったけど、実質的には修羅場だったよね。お~こわ。
それにしても、今日は大切な事を知った。里桜さんは、ガチで柚海さんに惚れている。
柚海さんを気に入っているのは分かっていた。でも、本気かどうかは確信が無かったよ。
そうか、里桜さんは柚海さんにガチなんだ。
それが私の『Y・R・P』に、どう影響するのか…。まずは様子を見よう。
柚海さんが手話を覚えていたとは知らなかったな。しかも動機が『好きな女優さんがドラマでしてたから』だって。ドラマを楽しみに見たりするんだ。苦しい生活の中にも、普通に日常を楽しんだりするトコロがあるんだって知れて、嬉しかった。
しっかし分からないのが柚海さんだ。夜道に呼び出したけど、どうして息を切らして大急ぎで来たの? まさか夜道で待っている私が心配で、走って来たって事ないよね?
…いや、あり得る。というか、そうなんだろう。例え脅迫されている相手であろうと、
『女を夜道に一人で待たせていられない』と考えるのが柚海さん。
呆れる程のお人好しんだから。
明日は、真理恵さんって人と会うんだね。男性の免疫をつけるのに、柚海さんを練習台にするのは、ハッキリ言ってお勧めできない。
いきなり九十五点の男と会ったら、後から会う人が低く感じちゃうよ、きっと。
里桜さんが、お酒をガブ飲みするのを止める事ができたのは良かった。
私は成人しても、お酒は絶対に飲まないって決めているんだ。
『法令順守』だよね? 柚海さん。あの時は叱ってくれて、ありがとう。
里桜さんをちゃんと映画へ誘えたのかな? 誘えただろうなー。だって里桜さんは、何か文句を言ったかもしれないけど、絶対に嬉しいはずだから。なんか書いてて疲れてきた。もう寝よう。
今日は、柚海さんにお休みと言う気になれないな…。あ~あ。
●
二日後の夕方。柚海と里桜は一緒に映画を観た後、シオンへとやってきた。
定休日の為、営業はしていない。店内は二人だけだ。
柚海は白いカッターシャツに黒のスラックスと言う恰好。里桜はベージュ色のミニスカートを履いている。膝の上あたりまでのミドル丈だ。上半身は、半袖のブラウス。かなり薄めのピンク色だ。
二人はカウンター席に並んで座っている。
里桜が柚海に聞いた。
「ユズミン、映画面白かった?」
「はいっ! 面白かったです!」
「私のミニスカート姿はどうだった?」
「はいっ! 可愛かったです! あ…」
「アハハッ! どっちも楽しんでもらえて、良かったよ」
柚海は思わず、右手で頭をかいた。
「もう、意地悪だなぁ、西臣さんは」
「ユズミンが身構え過ぎだっての!」
「ところで夕食なんですけど、外食じゃなくていいんですか? 俺が支払っても大丈夫ですよ。映画もタダ券だったんですから」
「そうじゃないよ。外食より、ユズミンの料理の方が好きなの。美味しいからさ」
「それ言い過ぎですよ」
「ホントだって! リクエストも大丈夫だしね。和洋折衷、何でも作れるでしょ?」
「はい、じゃあ西臣さんの好きなモノを作りますね。
今、一番食べたいモノって何ですか?」
「柚海くん」
「食べ物の話をしてくださいよっ!」
「アハハッ! 冗談よ。じゃあ筑前煮がいいな。前にも作ってもらったけど、すっごい美味しかったし。また作ってよ。」
「はい、いいですよ。西臣さんって和食が好きですもんね」
「あっでも、そんな煮込み料理頼んじゃって大丈夫かな? 時間かかるんじゃない?」
「大丈夫です。そんなにはかかりません。まぁ、レンチンご飯とインスタント味噌汁の用意を含めても、三十分くらいかな」
「マジで!」
「マジで! です。三十分は要りますから、何か用事があれば、しておいてくださいね。着替えてもいいんじゃないですか?」
「着替えるって、家着に? ジャージとか? どうして?」
「だってここは西臣さんの自宅ですから、リラックスできるかなと思って」
「…いやだ」
「えっ?」
「今はまだデート中なんだよ。いやだよ、ジャージ着るなんて」
「あっ、そうなんですね。俺と出かけるの、デートと思ってくれて嬉しいです」
「そうだよっ! ちょっとは自覚してよね。じゃあ聞くけど、ジャージ姿の私と、ミニスカート姿の私。どっちが見たいの?」
「ミニスカートです」
「返事が早いっ! じゃあ着替えなんて勧めないでっ!」
「分かりました。もう食事の準備しますね」
「ホントにもう…」
三十分ぐらいが経った頃、食事の用意ができた。二人はテーブル席に、向かい合わせで座った。テーブルの席の後ろにある大きな窓には、白いブラインドが下ろされており、外から店内は見えない。
テーブルには里桜・柚海にそれぞれご飯・味噌汁が置いてある。そして美味しそうに出来た筑前煮が、鍋のまま『ドンッ』とテーブルの中心に置かれていた。
里桜は鍋の筑前煮を見て、目を丸くして言った。
「まっ、マジで三十分かからなかった! どうやったの?」
「食べながら説明しますよ。頂きます!」
「うん、頂きます。おっ、美味しい! 蓮根に味が沁み込んでる! これを三十分で?」
「はい。煮物料理の元、みたいな品があるんです。蓮根やゴボウの乱切りを真空パックにした商品がね。そこに焼き鳥の缶詰を入れて、めんつゆで味付けして煮込めば、まあまあの味に仕上がりますよ」
「鶏肉は缶詰なんだ。だからこんなに味が付いているんだね。美味しい~!」
「アハハッ、良かったです。たくさん食べてくださいね」
「これならいくらでも食べれるっ!」
約二十分後、二人は食べ終えた。
里桜が言った。
「ご馳走さまでした~。美味しかったよ、ユズミン。また作ってね」
「ありがとうございます。はい、是非また」
里桜は水を飲みつつ、さり気なく言った。
「前の彼女にも、こんな風に作ってあげてたの?」
柚海は表情を変える事は無かったが、返事に困っていた。
「ごっ、ごめんなさいっ! つまらない事を聞いたね」
「いえ、そんな事はないですよ。はい、作っていました」
里桜はコップをテーブルに置くと、肩を落として下を向いた。
「もう、マジで最悪。嫉妬深くて、自分でも嫌になる。せっかく楽しい時間を過ごせてたのに…。ホントにごめんね」
「大丈夫ですって! そんなの嫉妬じゃないです。可愛いヤキモチですよ。悪い気はしませんし、気にしないでくださいね」
「ごめんなさい…」
落ち込んでいる里桜を見かねた柚海は、場を和ませようと、冗談っぽい口調で言った。
「そうですね~。じゃあ、俺の言う事を聞いてくれたら、許してあげますよ」
里桜はそう言われると、すぐに顔を上げた。そして身を乗り出して言った。
「なになに? なんでも言って! なんでもしてあげるよ! 今すぐ二階に行く?」
「行きませんよっ! そんな爛々(らんらん)とした目で見ないでください!」
「チッ…」
「今、舌打ちしました?」
「いーえ!」
「あのねぇ西臣さん、女性からでもセクハラって成立するんですからね。
『法令順守』でお願いしますよ」
「その熟語好きだよね~。…で、本当に何をしたらいいの?」
「コーヒーを淹れてください。オヤツ食べましょう」
「なんだぁ~、そんな事かぁ。実質、無罪じゃないの」
「いや、西臣さんは犯罪者じゃないし…」
「でも分かったよ、コーヒー飲もうか。ユズミン、ありがとうね」
里桜はカウンターに入り、コーヒーを淹れ始めた。柚海はテーブルの片づけを始めた。
コーヒーを淹れながら、里桜は言った。
「ただオヤツがなぁー。今日、定休日だから何も無いんだよね。
さっきのスーパーで、何か買っておけばよかった」
「あ、大丈夫ですよ。西臣さん、みたらし団子お好きでしたよね?」
「うん、大好物だけど、そんなのないよ」
「そう思って、作っておきました。『団子』じゃあないんですけどね」
柚海もカウンターに入り、冷蔵庫の中から白いお皿を取り出した。
里桜は少し驚いた様子で皿を見た。
「なにそれ? パッと見た感じ、みたらし団子だね。でも正方形だ」
「余ってるパックのお餅があったでしょ? それを使って、電子レンジで作ったんです」
「そんなのいつ作ったの?」
「筑前煮を煮ている間が暇だったので」
「恐ろしい手際の良さ…。で、そのみたらしのタレはどうしたの?」
「醤油・みりん・砂糖・片栗粉を使って作ったんです。全部お店にあったんで、拝借しましたよ」
「それはいいんだけどさ…」
「あっ、味を疑っていますね?」
「うん」
「正直だなぁ。まっ、食べましょう」
二人はテーブルにみたらしとコーヒーを並べると、椅子に座った。
柚海は言った。
「みたらし『団子』ならぬ、みたらし『餅』です。どーぞ!」
「う、うん」
里桜は茶色いタレのかかった『みたらし餅』をお箸でつかみ、
ゆっくりと口に運んで咀嚼した。
「美味しいっ! どうして?」
「『どうして』とはどうして? という気もしますが。
みたらしのタレって、そんなに複雑な作りじゃないんです。和菓子職人さんには遠く及びませんが、スーパーの大量生産品には負けないかな? それに作りたては、やっぱり美味しいですよ」
「なるほど、そういう事ね。美味しいよ!」
「あのー、それお餅なんで、しっかり咀嚼してくださいよ」
「子供じゃねーっての! うっ---」
里桜はお箸とお皿をテーブルに置くと、右手で胸を押さえた。眉間にはシワが寄った。
柚海は心配して言った。
「もう、だから言わない事じゃない」
柚海は慌ててカウンターに行って水をコップに汲んだ。そして里桜の隣に座ると、
口元へコップを向けた。
「大丈夫ですか? ゆっくり飲んでくださいね」
柚海がそう言った瞬間、里桜は右手を柚海の腰に回し、自分にグっと引き寄せた。コップの水が乱雑にこぼれて、里桜の衣服にかかった。だが、まったく気にかける様子はない。
「あの、苦しいんじゃあ…?」
里桜の表情から、先程までの柔らかい笑顔は消えていた。
目が座っている。まるで脅しているかのような、鋭い目つきに変わっていた。
里桜は、低い声で言った。
「まずは、コップを置こうか」
里桜は柚海からコップをそっと取り上げると、テーブルの上に置いた。
そして自分の体を、さらに柚海へ近づけた。右手は柚海の腰に巻いたままだ。
二人の顔の距離は三十センチ程度しかない。
里桜はまた低い声で言った。
「柚海くん」
「はい…」
「私、いつまでもニコニコしていないよ。そんなに甘くない。それは分かるよね?」
「はっ、はい」
「柚海くん。私はもう、君に堕ちているの。それも分かるよね?」
柚海は声が震えた。
「はい」
里桜は子供を諭すような、穏やかな口調になって言った。
「だからさ、手を出して。手を出していいよ。そんなに身構えないでよ。手を出されたからって、付き合えとか結婚とか言って、騒ぐ気はないよ。ただ、好きな男に抱かれたい。それだけなの。それもダメなの?」
「西臣さん…」
柚海はそう言うと、体を横にずらし、里桜から離れた。
里桜は悲しそうに言った。
「私って、そんなに魅力ない?」
柚海はゆっくりと首を左右に振った。
「違います。ただ一つだけ、分かってほしい事があるんです。俺は今、全ての力を理性に変えて、死力を尽くして正気を保っています。それは分かってくださいね」
「保たなくていいのに」
柚海は呆れ顔で言った。
「あのねぇ…、本当に大変なんですからね」
「アハハ…。でもユズミンは、損な性格をしているよね。せっかく頑張ってるのに、報われないからさ」
「えっ? 意味が分からないんですけど」
「そんな健気で真面目な姿を見たら、ますます惚れちゃった。『絶対にユズミンを私のモノにしたいっ!』って思い始めたよ。ユズミンは前途多難だね」
「それは西臣さん次第じゃないですかっ!」
「いーや! ユズミンのせいだよ」
「ムチャクチャな理屈ですよ、それ」
「しょーがない、分かったよ。もう実力行使は止めるから安心して。その代わり、一つだけ教えてほしいの。それが交換条件だよ」
「なんでしょうか?」
「私と付き合えない理由って何? 借金? それとも私に不満があるの?
遠慮なく正直に教えてほしいの。そうでないと納得できない。もし誤魔化したら、今度こそ強姦しちゃうからね」
「堂々と言わないでください! でも、分かりました。ちゃんとお話しますね」
二人は姿勢を正し、普通の隣り合わせの距離に座り直した。
「理由は借金です。借りているのは、闇金とかではありません。普通の金融機関です。
金額が大きいので、利子は結構な額なんです。ノロノロ返していたら、終わりません。
できるだけ早く支払って利子を減らしたいので、かなり強引な返済プランを選びました。
だから月々の支払いも高額です。
なので、恋人をつくって交際するなんて、金銭的にも時間的にも無理なんです。
本当にそれだけですよ。西臣さんに不満なんて、一片もありません」
「本当に? 性格や顔が好みじゃないとか? 元キャバ嬢なのが嫌とか?」
「そんな事ないです! 西臣さんは美人です! それに、『元キャバ嬢でずっとベスト三だった』なんて聞いたら、クラッとしてしまいます…というか、しました。
ミスコンの優勝経験者みたいな感じがして」
「アハハ、クラッとしたんだ」
「美人で・優しくて・仕事に一生懸命で・俺にハッキリと愛情を示してくれる。
とても素敵な女性だと思っています」
「…ありがとうユズミン、嬉しいよ」
「はい、だから理由は借金だけです。誤解しないでくださいね」
「それって、あといくら必要なの?」
「四百万円です」
「四百か…」
里桜は数秒だけ考え込んだ。そして、意を決したかの口調で言った。
「あの、あのさ! 例えばだよ。例えばの話だよ! 私が---」
里桜がそこまで言うと、柚海は話をバッサリと止めた。
「ダメです」
「いや、私まだ、なにも言っていないよ?」
「もう分かりますよ。それはダメです。絶対にね」
「いや、私が借金を引き受けるんじゃないよ。まず、私が立て替えるだけ。
それから、無理のないペースで私に返してくれたらいいんだから。
そうすれば、利子はつかないよ。いいアイデアじゃない?」
「ダメです」
「だからさ! さっきの話と同じだよ。
『付き合う』とか『結婚』とかっていう話じゃないんだから」
「ダメです」
「…どうして?」
「ダメです」
「今すぐは無理でも、時間をくれたら大丈夫。キャバ嬢に復帰したらさ、四百万なら---」
柚海はたまらず叫んだ。
「やめてくださいっ!」
「どうしてそこまで拒否するの? 後から返してもらうって言ってるじゃない。
お金じゃなくて、私を拒否しているって事なの?」
柚海は悲しそうに言った。
「そうじゃありません。理由は、あなたが女だからです。それだけです」
「女? 意味が分かんない…。なにそれ?」
「この提案、親密な親戚の男からだったら、乗ったかもしれません。あるいは昔からの大親友の男だったら、少しは考えたでしょうね。でも、あなたは女なんです。できません」
「女をバカにしてんの? 『どうせ無理だろ?』とでも言いたいの?」
「そうじゃありません。俺、思うんです。『女だからお茶を淹れろ』とか、『男のくせに根性が無い』とか言われる事ってありますよね? そういうのは理不尽ですし、辛いです。
ただ、『男が絶対にしてはいけない事』ってありますよ」
「いけない事って?」
「男が歯を喰いしばらないと持てない重荷を、『女に持て』と言うのは最低です。
そんな男に俺はなりなくない。絶対に許せない」
「いや違うよ! ユズミンは『持て』なんて言ってない。私が『持たせてほしい』って言ってるの! 『一緒に頑張ろうね』って話なんだよ!」
「違いますよ。これは、『夫婦で家のローンを組む』みたいな話とは、全然次元が違う。
これは俺の重荷で、俺が…男が背負うべきなんです」
「そんな…」
「あの、お願いがあるんですけど」
「なに?」
「手を握ってもいいですか?」
「手…? うん」
里桜は両手を柚海に向けて差し出した。
柚海は両手を包み込むようにして、優しく握った。
里桜の手を見ながら、悲しそうに柚海は言った。
「小さくて、細い手だ…。この手で、あなたは毎日毎日、仕事を頑張っているんですね。やはり、俺にはできません。この手に、これ以上の荷物は持たせられない。そんな事をしてもらっても、全然嬉しくありません」
そういうと、柚海は手を離した。
「じゃあ、私が君にしてあげられる事ってないの?」
「ありますよ。俺が一番辛いのは、返済じゃないんです。
『この人は、借金返済で大変なんだな』と、思われるのが辛いんです」
「うん」
「だから、もうその事は忘れてください。いつも通りに俺と接してください。俺は西臣さんと過ごす時間が楽しいんです。仕事中も含めてね。それで十分なんです。本当です」
「ひどい…。『お前にはなにもできない』って言ってるのと同じだよ」
「違いますよ。なんと言ったら分かってもらえるんだろう? 西臣さんは、自分の素晴らしさが分かっていないですよね。そこだけが短所かな」
『自分の素晴らしさが分かっていない』という言葉に反応したのか、里桜はプッツンした。
「それはお前だよっ! いつもその顔で私に微笑みやがって! どれだけ破壊力があるか分かってんの! 鏡を見て反省しろっ! しかも性格が良いってどういう事だ! その顔らしく少しは傲慢に生きろっ! 料理が美味しいんだよっ! 手早くみたらし餅なんて作ってんじゃないよっ! 心配ぐらいさせろっ! 女のお客さんとニコニコ話すなっ! せっかく手を握ったのに離すのが早いんだよっ! たまにはハグぐらいさせろっ! もっとデートしろっ! 少しは私にドキドキしろっ!」
息を切らせ始めた里桜に、柚海は言った。
「あのー、西臣さん」
「なっ、なによ! はぁ、はぁ…」
「後半はキレてるというより、要求になってます」
「そ、そうだけっけ?」
「でも最後の一つは、改めて言われなくても大丈夫です」
「えっと…なんて言ったっけ?」
「アハハッ! なんでもないですよ。さっ、お餅食べましょう」
「…うん」
「俺、西臣さんに出会えて良かったです」
「なんか別れ話みたいになってるし!」
「違いますよ。嬉しいなって言っているんです。感謝しているんです」
「感謝しなくていいからさ、また出かけようよ」
「えっと…」
「…だよね。デート代ぐらい出させてよ」
「それなんですけどね、よいしょっと!」
柚海は向かい側の椅子に置いてある、自分のカバンを取った。そして、小さな長財布を取り出した。ブランド物でもなんでもない、ビニール製の安い財布だ。
「これはね、百均で買った財布です。中を見てもらえますか?」
そう言うと、長財布を里桜に渡した。里桜は受け取ると中を見た。
五千円札が一枚入っている。
「これは?」
「西臣さんも、そこに五千円を入れてもらえませんか? 二人で出かける時は、この財布で支払いましょう。そうすれば、割り勘になります。俺にも支払わせてほしいんです。だから---」
「だから?」
柚海は深く頭を下げた。
「また、俺とデートしてください。お願いします」
「…やだ」
「この流れで! どうしてですか?」
「八対二なら許してもいい。私が八千円を財布に入れる。ユズミンが二千円。それが絶対条件だよ」
「でもそれじゃあ---」
柚海は里桜の目を見て、彼女の本気度を悟った。
「分かりました、ありがとうございます。甘えさせてもらいますね」
里桜はニッコリと笑って言った。
「分かればよろしい。また行こうね」
里桜の言葉に喜んだ柚海も、満面の笑顔で言った。
「はいっ! 是非っ! 楽しみです!」
「うぅ…君ねぇ! その笑顔、どうにかならないの! 反省してよ!」
「あ、はい。善処します」
「お前は政治家かっ!」
柚海がふとお店の玄関を見た。玄関はのドアは磨りガラスになっているので、外の様子は大まかに分かる。もうすっかり暗くなっていた。
柚海は立ち上がって言った。
「玄関のシャッター、半分閉めてきますね」
「うん、お願い」
柚海が外に出ると、偶然に常連のお爺さんと出くわした。
柚海と話が合うお爺さんで、なにやら雑談を始めた。
里桜は店内で一人になった。さっき柚海から受け取った長財布を、両手で大切に持って見つめていた。
「『二人の財布』ってトコロかな? フフッ」
里桜は、隣の椅子に置いてある柚海のカバンが目に入った。
少し覗き込むと、スマートフォンが見えた。
「ユズミンのスマホだ…」
里桜は、柚海のスマートフォンを手に取ってしまった。いけない事とは分かっていたが、どうしても止まらなかった。外にいる柚海をチラリと見ると、常連のお爺さんと話し込んでいる。笑い声が聞こえてくるので、どうやら盛り上がっているようだ。
「ユズミン、ごめんね。嫉妬深い私が悪いの」
里桜は思った。柚海は美男子だ。しかも性格も良い。『他にも女がいるのではないか』という疑惑が、どうしても拭えなかった。
スマートフォンは、パスコードを入力しないと使えない。だが、里桜は柚海のスマートフォンの先生だ。柚海のパスコードは、もちろん知っていた。手早く入力すると、次にラインのアプリを開いた。アカウントは四件しかなかった。
「すっ、少ないっ! まあ、まだスマホを買って日が浅いし、友達付き合いができる生活環境じゃないだろうから、自然とそうなるのかな」
里桜は少し安心した。そしてアカウント名から、柚海との関係を推測した。
「えーっと、これはお母さんかな? こっちがお姉さん。これが私。これが分かんないな」
イラストも写真も無いアカウント。名前は「turu」だ。
「『つる』でいいのかな?」
里桜は、恐る恐る「turu」のメッセージを開いた。
そして、そのメッセージ内容に戦慄した。
《二年前の恨みを、忘れたとは言わせない》
《私のメッセージには手早く返信しろ。遅れた時は、分かっているな?》
《返信が遅い。二度目は無いぞ》
《舐めた口をきくな。許さねぇ》
《マンションの掃除がなっていない。ふざけているのか?》
「これって…、ユズミンは脅迫されているの?」
里桜はたくさんあるメッセージをザーッと急いで読んだ。
「『恨み』とか『許さねぇ』とか、これは普通じゃないよ! 相手は『私』って言ってる。女なのかな? この偉そうな文章。なにか高い地位にいる、年上の女って事? マンションの掃除って、まさか愛人みたいなマネをさせられているんじゃあ…」
里桜の悪い憶測は止まらなかった。そして驚いたのは、次に目に入った文章だ。
《中央公園の近くに来い、今すぐだ》
「中央公園って、この辺りじゃない! 日付は…二日前?」
さらにメッセージを見た。添付ファイルがある事に気付き、内容を確認した。
「これは映画の電子チケットを受け取っているのね。使ったのは…今日? さっきじゃない! 私と見た映画だ! 脅迫相手から受け取ったチケットで映画を見たって事?」
混乱していた里桜だったが、玄関からシャッターの降りる音が聞こえた。柚海はお爺さんとの会話を終え、中に入ってこようとしている。里桜は慌てて、スマートフォンを柚海のカバンにしまった。
「いやぁ、長話になっちゃいました」
柚海はそう言うと、里桜の向かい側に座った。里桜の表情はこわばっていた。
「どうかしました?」
「うっ、ううん! なんでもないよ」
「あっ、そうだ! 西臣さんに言っておきたい事があるです。言おう言おうとして、いつも忘れてしまって。やっと今日言えます」
「なにかな?」
「タッパの件、ありがとうございます。おかげで助かってます」
「余った食材を入れておくタッパだよね。それがどうかしたの?」
「ほら、最近は食材の量を多くしてくれているでしょう? パンの耳を大きくカットしてくれてますよね? 他には、カツサンド用のトンカツの端も、以前の倍くらいの幅がありましたよ。おかげで、カツ丼を作れちゃいました。久しぶりで美味しかったな」
「そう…だね」
「あと、チーズケーキがラップにくるまって入っていたのは、びっくりしました」
「チーズケーキ?」
「はい。しかも俺の好きな硬めのベイクドチーズケーキ。賞味期限が間近だったとか?」
「あ…えーっと。ユズミンが、チーズケーキが好きなのは知ってるよ」
「言った事ありましたっけ? 俺、中でもベイクドが大好物だって」
「うっ…うん! きっ、聞いた事あるよ。そうだよね、ベイクドが好きだもんね」
「夕食後に好物のスイーツ食べれるなんて、本当に久しぶりでした。嬉しかったです」
「そう、良かった。アハハ…」
里桜は引きつって笑った後、強引に話を逸らした。
「ところでさ、ユズミン。私、最近君にコンシーラー塗ってないよね?」
「はい、そういえばそうですね」
「どうしてだと思う?」
「どうして? 目の下がくすんでいないからでしょうか?」
「そうだよ。綺麗に見えるから、塗ってないの。最近、簡易宿泊所とかで寝てないの? しっかり睡眠がとれているんじゃない?」
「はい、そうですね。普通に屋内で寝れていますから」
「どうして?」
「簡単に言うと、マンションの一室の管理みたいな仕事を任されたんです。最近は、そこで普通に布団を敷いて寝ています。家主の許可は得てないんですけど、
たぶん大丈夫です」
「(借金をカタに取られてマンションに住まわされ、愛人をさせられている…?)」
「どうしました?」
「あのさ、もう一度聞いていい? 君の借金は、闇金とかで借りているんじゃないよね? 脅されたりしてないよね?」
柚海は驚いた顔で言った。
「闇金じゃないですって! ヤクザでもありません! 借りてる先は、誰でも知っている大手銀行の系列会社です。今度、借用書を持ってきましょうか? 俺は法令順守ですよ」
「そうだそうだ! ユズミンは法令順守だもんね。安心だ」
里桜は納得した表情をしたが、『法令順守』という言葉が引っ掛かっていた。
今日という日は、西臣里桜にとって良い一日だった。交際まではいかないにしろ、柚海と気持ちをぶつけ合い、自分に対する気持ちを確認できた。それがなにより嬉しかった。
同時に、言いようのない不安も生まれていた。
タッパの具材の増量。
スマートフォンのメッセージ。
添付ファイルの映画のチケット。
マンション管理の仕事。
聞きなじみのある言葉「法令順守」。
これらを結びつけると、里桜は『ある人物』にたどり着くのであった。




