7、先生と呼ばれて
例の「ニラレバ事件」から一週間が過ぎた。
シオンで働く三人は、いつも通り仕事をしていた。
十六時を超え、お客がいなくなったタイミングを見計らい、柚海は言った。
「あのー、西臣さん。おねが---」
里桜は即答した。
「いいよ」
「いや、まだ俺は何も言ってませんが」
「私がユズミンの頼みを断れないの知ってるクセに。で、お願いってなに?」
「商店街に『山玉餡』っていう、和菓子屋さんあるじゃないですか?」
「うん、知ってるよ。私もたまに買うし。美味しいよね。
あそこでみたらし団子を買って以来、みたらしが好物になったぐらいだからね」
「明日の十四~十六時の間、そこに行かせてもらえませんか?」
「ん? どういう事?」
「あそこの娘さんが出産を控えているらしく、奥さんが一週間程お休みするんですって」
「えっ、そうなの! あそこって、六十代のご夫婦二人で経営なさってるよね? 奥さんがいなくなって、お店は大丈夫なの?」
「お店はなんとかなるそうなんですけど、近所の子供達が困った事になりそうなんです」
「子供? どうして子供が困るの?」
「あのお店って、座敷タイプの広いイートインコーナーがあるでしょう? そこが小学生の放課後の居場所になってるんですよね。ちょっとした学童保育みたな感じかな。そこをご夫婦のご厚意で解放していたんです。それが今、ご主人一人だから閉鎖状態なんです。
子供だけだと、大人の目が行き届かなくて危険でしょう? だから---」
「明日、山玉餡に行かしてくれと」
「…はい」
里桜はため息をつきながらも、少し笑顔で言った。
「ふーっ、まったくお人好しだねぇ、ユズミンは。まぁ、そんなトコロが好きなんだけど」
「そ、そんなハッキリ言わなくてもっ!」
「へへっ、照れてる照れてる! いーよ、行っておいでよ。商店街の人が困ってるなら、力にならないとね。明日は商店街のお店、お休みのトコが多いから、客足も鈍いからね」
「ありがとうございます! じゃあ明日。終わり次第、すぐに帰ってきますから」
「子供達は普段、山玉餡で何をしているの?」
「宿題とか、勉強が多いみたいです。山玉餡の奥さんが、元・小学校教師だそうですから」
「そっか。ユズミンは勉強はできたっけ?」
「いえ、全然です。伊達に中卒をやっていません」
「なにが『伊達』なのか分かんないけど。あっ、そうだ! ナナちゃん!」
「はい?」
「明日、ユズミンと一緒に行っておいでよ。
秀優高校の現役学生に教えてもらえたら、子供達も喜ぶんじゃない?」
「えっ…? 私はちょっと、遠慮しておきます」
「あら? 意外だね。てっきりノリノリで参加すると思ったのに」
「子供は苦手なんですよ、すみません」
●
翌日の十四時過ぎ。柚海は山玉餡の座敷コーナーにいた。畳敷きの部屋で、テーブルが四つ置いてある。各テーブルに二~三人、小学生が座っていた。宿題をする子、カードゲームで遊ぶ子、お喋りに夢中な子など、様々だった。
柚海はテーブルの間に座り、全体の子供たちの様子を見つつ、一緒にお喋りをしていた。すると、宿題をしているテーブルから呼ばれた。
小学五年生の三人組。女の子二人と、男の子一人のテーブルだ。
女の子の一人が言った。
「おじさん、算数のここが分かんない。分かる?」
「おっ、おじさん? まぁいいけど。どれ?」
柚海は算数の教科書を渡され、分数の計算を指差された。それを見て目まいがした。
「う~ん、難しいな…」
「分かんないの?」
「ごめんね、これ分母が違う同士だから、難しいんだよな」
その時、背後から聞き覚えのある声がした。
「へーえ。じゃあ『分母同士が一緒なら、簡単にできた』とでも言うの?」
声の主は、制服姿の瑠季だった。柚海は目をむいて驚いた。
「なっ、なぜここに?」
「どうでもいいでしょ、そんな事」
瑠季は柚海を一瞥もせず、教科書を取り上げて子供に見せた。
「まずね、分母をしっかりと通分するんだよ。どうするかと言うと---」
瑠季が解説を始めると、解り易いからなのか、子供達はしっかりと聞き始めた。
瑠季のいるテーブルは勉強に集中しだした。それに釣られたのか、他のテーブルの子供達も遊ぶ手を止め、勉強を始めた。瑠季はあちこちのテーブルから呼ばれ、大人気だ。
最初は固かった瑠季の表情も、和らいでいく。笑顔も見え始めた程だ。
お喋りや遊び相手なら人気のある柚海だが、勉強となると、まるで人気が無い。
壁にもたれて座り、瑠季と子供たちの様子をのんびり眺めていた。そして思った。
「(そういえば、瑠季とよく宿題をしたな…)」
●
柚海は昔の出来事を思い出していた。八年前。瑠季十歳。柚海二十歳。
二人は瑠季の家の和室で、テーブルが置かれている畳に座って宿題をしていた。
柚海は算数の教科書を見て、首をひねっていた。
「小学五年生って、こんなに難しいのか?」
「こんなにって、ただの分数の足し算だよ」
「いやいや、そんな簡単に言わないでくれ」
「まずはさ、分母を通分するんだよ。柚海さんは、そこから間違ってるの」
「そうなんだ! やるな、瑠季。流石だよ」
「頼りにならないなぁ~。もう教科書を返して!」
瑠季は、柚海が読んでいた算数の教科書を取り上げた。
「アハハ…、四年生ぐらいまでなら何とかなっていたんだがな」
「もう! ちょっと前までは、柚海さんは私の先生とコックさんをしてくれていたのに、今じゃあコックさんだけになっちゃった」
「まぁ、先生って柄じゃないしね。なぁ瑠季、この分数の足し算、教えてくれないか? このまま分からずにいるのって、なんか気持ち悪いしさ」
「ん? いいけど」
瑠季も人に教える事に慣れていないが、懸命に教えた。柚海は部屋にあったメモ用紙を二~三枚使って、教科書の分数の問題をいくつか解いた。瑠季が答え合わせをしてみると、全問正解だった。
「柚海さんすごいっ! 全問正解だよっ!」
「ホント? 嬉しいな。瑠季の教え方が良かったんだよ。ありがとう、先生」
『先生』という言葉に、瑠季は照れた。
「『先生』か…。なんか恥ずかしいな。嬉しい気もするけど」
「まさかお前の事を、先生なんて呼ぶ日がくるなんてな。初めて会った時には想像もしていなかったよ」
「えーっと、初めて会ったのは、私は一年生だったよね?」
「そうだな。瑠季の成長って、本当に早くてすごいよ。お前は俺にとって------」
「俺にとって…、何?」
「…いや、なんでもない」
「もうっ、言ってよ! 気になるから!」
「アハハ、大人になったら言うよ。待っててくれよな」
「変な柚海さん」
「宿題の邪魔しちゃったな、頑張ってくれよ。終わったら、お前の好物のオヤツを用意しているんだから」
「好物って言われても、柚海さんが作ってくれるオヤツはたくさんあるし、全部好物だもん。何だろう?」
「ヒントはクッキーだよ」
「だから! 柚海さんの作るクッキーも、たくさんあるじゃん。どれなんだろう?」
「ヒントは生姜だよ」
「しょうが? って事はまさか? やったー!」
●
柚海が昔の出来事を思い出していると、瑠季の嫌味な声で我に返った。
「呑気なもんね、何もしないでさ」
子供と同じテーブルに座っている瑠季が冷たく言った。
瑠季の横では、子供達が懸命に算数の問題を解いている。柚海はその光景を見て、昔の自分と瑠季。二人の姿を思い浮かべていたのだった。
誰にも聞こえない小声で言った。
「懐かしいな、『先生』」
「なに? なにか言った?」
「なんでもないよ。勉強は俺じゃあ出番が無いもんでな。ガンバレよ、『先生』」
「せっ、先生だぁ?」
瑠季が反論しようとしたら、隣の男の子が瑠季の袖を引っ張った。
男の子は言った。
「先生、ここが分かんない」
瑠季はハッとなって子供の方を向いた。
子供が柚海の真似をして、瑠季を『先生』と呼んだのだ。
「私? 先生って私の事?」
「違うの?」
「いや、その…」
瑠季は照れながらも、懸命に勉強を教えた。
瑠季を中心として勉強をしていると、時刻は十五時を過ぎた。
宿題が終えたのか、集中力が消えたのかは分からないが、子供たちはお喋りを始めたり遊んだりで、すっかり勉強モードは終えた。
そんな子供たちを見て、柚海は言った。
「じゃあ、おやつにしようか」
各テーブルに大きめの皿を置いた。お店から借りた物だ。次に持参した二つの大きいタッパをカバンから取り出した。大量のクッキーが入っている。直径三センチ程の、普通の茶色のクッキー。瑠季はクッキーを凝視してしまった。
そして次の瞬間、かすかに音がした。
ゴクリッ…
柚海は周囲を見渡して言った。
「あれ? 今、唾を飲み込む音がしなかった?」
子供達も不思議そうに言った。
「したよねー、誰かなぁ?」
瑠季は慌てた様子で柚海に言った。
「そっ、そんな事より、あれを見ろ!」
瑠季が指差したのは、部屋の隅だ。柚海が近寄って見てみると、大きい紙袋があった。
柚海は紙袋の中を見た。二リットルのペットボトル三本と、紙コップが入っていた。
二人は部屋の隅で、小声で話し始めた。
「これは里桜さんからの差し入れだってさ。私が預かったんだよ」
「そうなんだ、ありがたいな。お茶とブドウジュースとオレンジジュースだ。あれ?」
二リットルのペットボトル三本に見えていたが、一本だけ五百ミリリットルのペットボトルが入っている事に気が付いた。
柚海は手に取って言った。
「紅茶のペットボトルだ。しかも俺の好きなメーカーの。う~ん…」
「なんだよ? 何が疑問なんだよ?」
「里桜さんに、話した事あったかなと思ってさ。俺がこの『午前の紅茶』が好きだって。偶然かな?」
「そっ、そんなの、どっちでもいいだろっ! そんな事より里桜さんから伝言があるぞ」
「伝言? なんだよ?」
「『差し入れの件は、私に会ってもお礼を言わなくていい。恥ずかしいから』だってさ」
「ああ、分かった」
「絶対に言うなよ! 私が伝言を言い忘れたと思われるから! 絶対に言うなよ!」
「分かったって! 言わないよ」
瑠季は紙コップを使って、飲み物を子供達に配っていった。柚海はクッキーを、各テーブルのお皿に置いて回った。
クッキーはたくさん置いたのだが、それでもかなり余ってしまった。
柚海は瑠季に聞いた。
「作り過ぎたか~。まぁいいや。残りはお前が持って帰るか?」
「いっ、要らない! そんなモノ食べるかっ!」
「あっそ。ちょっと子供たちを頼むよ。お手洗いに行ってくるから」
柚海は瑠季にそう言うと、座敷を離れた。
五分ほどで座敷コーナーに柚海が帰ってくると、こんな音がした。
ゲフッ!
大きなゲップの音。柚海は辺りを見渡した。子供達も同様に見渡した。
見渡し終えると、柚海と子供達は思った。
『今のゲップは私達じゃあない』と。という事は…
そして、皆が瑠季に目をやった。
それに気付いた瑠季は、子供達に向けて両手を激しく振った。
「違う! 違うよ! 私じゃないよ!」
柚海は不思議そうに言った。
「いや、明らかにお前だ。っていうか別にいいんじゃない? ゲップくらい普通だろ?」
「ううぅ…! もう知らないっ! 帰るっ!」
瑠季は自分のカバンをつかむと、飛び出していった。
☆瑠季の日記☆
まったく柚海さんの心配症にも困ったもんだ。子供を放っておけない性分は、変わらないんだね、昔からさ。そんなトコロが、そんなトコロが…まあ、それはいいや。
差し入れたペットボトルの紅茶は、昔からよく飲んでいたのを覚えてた。
今でも好きなんだね。買っておいてよかった。
私は子供が苦手だ。特に小学生くらいの子を見ていると、どうしても孤独だった自分と重ねて見てしまって、思い出しちゃう。柚海さんの事だけを思い出せたら良いんだけど、
そうもいかないから。
だから、里桜さんに山玉餡へ行く事を勧められた時も、断ってしまった。
けど、勉強会するんなら柚海さん一人じゃあ困るだろうし。仕方なく行っちゃった。
里桜さんには内緒。
でも、意外なのは柚海さんだ。柚海さんにはキツく言ったけど、わりと小学生時代の算数を覚えているみたいで驚いちゃった。
『学校を卒業して十年経つと、科目のほとんどを忘れる』なんて言うよね?
柚海さんは十二~三年経つハズだけど、少しはできる感じだった。
最近、勉強を始めたとか? 分からないな…。
それにしても、あのクッキーは懐かしかった! あれは柚海さんお得意の『ジンジャークッキー』だぁっ! クッキー生地に、下ろしたショウガが入れてあるんだ。
それがシナモンみたいな味がして、メチャクチャ美味しい! 隠し味の蜂蜜も最高!
子供の頃、何回もリクエストして作ってもらったなぁ。思わず生唾を飲んでしまった。
…で、柚海さんがいなくなった瞬間を見計らって盗み食いしちゃったけど、やっぱりメチャクチャ美味しかった! …食べ過ぎたけどね。
今日、一番驚いたのは、子供達が私の事を『先生』と呼んだ事だ。
柚海さんが余計な事を言うから、子供たちが釣られちゃったんだよ。まったくもう!
私は、『來々乃』『瑠季(るき)』『ナナちゃん』など、色々な呼ばれ方を経験してきた。
でも、『先生』は特別な響きがあるよね。
『先生』か…。悪い気しなかったな。いや、嬉しかった。
子供達に頼られている気がするもんね。
やっぱり子供は苦手。でも、困っている子供がいるなら、力になりたいとも思えるようになったかも。
この『Y・R・P』が無事に終えたら、将来の目標を考えよう。
何か子供の力になれるような仕事を目指そうかな? しっかり考えよう。
「柚海さん。私がどんな仕事に就いたら、喜んでくれますか?」
…なんて聞けないけどね。
じゃあ、今日はこの辺で。
お休みなさい、柚海さん。




