2、恐怖は雨の日に
一週間が過ぎた。時刻はまだ十五時三十分だというのに、薄暗い。空が雲に覆われ、大雨が降っているからだった。その為か今日は客足が鈍い。十四時以降は完全に客足が止まった。
里桜は、「客が来ないから、その間に事務処理をしたい」と言って、お店の二階にある住居用の部屋に行ってしまった。この店は里桜の職場兼自宅だ。
洗い物や清掃、飲み物・食べ物の仕込みも、全てやり切ってしまった。
柚海は窓越しに大雨を眺めながら思っていた。
「仕事をしていないと、時間が経たないな…」
すると、『カランカラン』という、ドアのベルの音が店内に響いた。
お店のドアが開かれ、お客が入ってきた合図だ。
「いっ、いらっしゃいませ!」
気の抜けていた柚海は、慌ててカウンターの中に入り、お冷を用意する。
入ってきた客は、すでにお客が座っていた。一人のようだ。
この時、柚海は少し違和感を感じていた。一人客なのにカウンターではなく、テーブル席に座っている。しかも窓側のソファ席ではなく、通路側の椅子だ。
セーラー服の夏服を着ているから、女子高校生だろう。髪の色は黒で、椅子の背もたれで毛先が見えないのだから、かなり長い。スマートフォンを見るでもなく、メニューを見るのでもない。前方の窓ガラス越しに、外の景色を見ているようだ。
柚海はお冷の入ったグラスを右手で持ち、女子高生の左横に立った。
女子高生は柚海をチラリとも見ない。
「いらっしゃいま---」
柚海の挨拶を言い終えるのも待たず、女子高生は正面の雨を見ながら言った。
「今日はひどい雨」
柚海はお冷を置くタイミングを逃してしまい、手に持ったままだ。上から見た横顔だと、顔はあまり見えない。常連客ではなさそうだ。とりあえず、話を合わせた。
「そうですね、雨は嫌ですよね」
女子高生は抑揚のない淡々とした話し方だ。視線は、ずっと外の雨を見たままだ。
「なぜ?」
「えっ?」
「雨が嫌な理由。言ってみて」
「えっと…濡れますし、傘が要るので荷物が増えますから」
「くだらないね。そんな理由なの」
柚海はキツイ物言いにムッとしたが、気持ちを飲み込んで普通の口調で聞いた。
「じゃあ、お客さんの理由って何ですか?」
「湿気が多くなるから」
柚海は、『なんだ、普通の理由なんだ』と思った。
「そうですね、ジメジメして嫌ですよね」
「違うの。古傷が痛むからなの。湿気が多いと痛むの」
「はぁ…」
女子高生は急に低い声に変え、怒気を含んだ怖い口調で言った。
「お前には分からないだろうな。そんな傷ないんだろう? 人へ付けた事はあってもな」
柚海は急に態度が変貌した女子高生に、驚きと恐怖を感じた。
女子高生はゆっくりと左手を自分の左頬に当てた。正面を向けていた顔を左上に向け、柚海と視線を合わせた。そして、嫌味ったらしい口調で言った。
「お久しぶり、穂紫 柚海」
その瞬間、柚海は相手が誰かを理解した。そして震える声で言った。
「おっ、お前は…!」
柚海はお冷のコップを落としてしまい、床に水が散った。
女子高生と視線を合わせたまま、二~三歩後ずさりした。女子高生は立ち上がり、
柚海の正面に立った。左手は、左頬に当てたままだ。冷たい視線で柚海を見ている。
柚海は怯えながら言った。
「お前は…來々乃 瑠季!」
夏用のセーラー服の少女。身長は百五十二センチ。肌の色は真っ白だ。
髪は真っ黒で長く、背中に垂らしており、腰の上まである。
瑠季は低い声で言った。
「お前…? 偉そうに言ってんじゃねぇよ」
左頬をゆっくりとさすりながら、さらに言った。
「雨の日はな、この古傷が痛むんだよ。ズキズキと虫歯みたいにね」
瑠季は手を降ろして顔を見せた。
「私の顔を見ろ」
「はっ?」
「よく見ろと言ってんだよ。頬をな。左右を比べてみろ」
柚海は意味が分からなかったが、ともかく瑠季の頬を見た。
右頬と左頬を、交互に何度も繰り返し見た。そして、ふと気付いた。
「あっ…!」
「やっと気付いたか。鈍感な奴」
ごくごくわずかだが、左頬の方が少し膨らんでいた。言われなければ気付かないだろう。
「お前に殴られたせいでな、これ以上腫れが引かないんだよ」
柚海は頬から視線を逸らした。
「うぅ…」
「触ってみろ」
「なんだって?」
「触ってみろって言ったんだよ! 繰り返させるな!」
柚海は恐る恐る右手を伸ばし、瑠季の左頬に指先を添えた。
そしてすぐに気付き、慌てて右手を離した。
「そうだよ、硬いだろ? 頬の周りの骨が折れてさ。どうしても元の形に戻らない部分ができた。そこが硬く感じるんだよ。だから腫れて見える」
瑠季に言われ、柚海はうなだれた。
「わ、悪かった」
「何? 聞こえないんだけど」
「すみませんでした」
「その一言は、二年前に言うべきじゃねぇの?」
柚海はそう言われ、肩をピクリとさせた。全身が、小刻みに震えている。
瑠季は言った。
「形だけ謝って、スッキリしようとしてるんじゃねぇよ」
「…どうしろと言うんだ?」
「形だけ謝られてもムカつくだけだし、別に金も欲しくない。顔の形が変わるほど、思い切り殴られた私の望みは---」
柚海はゴクリと唾を飲んだ。
「お前の苦しむ姿が見たい。それだけだ。とことん追い詰めてやるからな」
「何言ってんだ? そんな事に俺が『ハイ』と従うとでも思ってるのか? 殴り合いとなれば、俺は負けない。なんなら、今日にでも夜逃げしたっていいんだからな」
瑠季はフッと鼻で笑い、ポケットからスマートフォンを取り出した。操作すると、右手を伸ばして柚海の前に画面を突き付けた。そこに表示された画面を見て、柚海は戦慄した。
証明写真のような瑠季の画像だ。髪の色は金髪で、肩から上を正面から撮ってある。
目は虚ろで、左頬は青く腫れていた。
二年前のあの日。柚海が殴った後の、瑠季の画像が写っていた。
瑠季は言った。
「この画像を見てどう思う?」
柚海は顔を逸らした。
「くっ…」
「お前は、この画像に逆らう事はできない」
「どういう意味だよ?」
「もし、お前が少しでも私に逆らえば、この画像をネットにアップする。そしてお前の名前・住所・経歴・家族全員の職業や名前・個人番号・写真に至るまで、ありとあらゆる個人情報を全て添えて、晒してやる。さぞかし炎上するだろうな。
『女をアザが出来るぐらい殴った卑怯者と、その家族』として」
「いや、意味が分からない。そんな事をしたら、困るのはお前だろう?
『この大ケガをしている、金髪の女は誰だ?』となって、お前もネットで叩かれるぞ」
「構わないね。私はお前を苦しませる為なら、自分を晒して中傷されるぐらい平気だからな。暇人達は、特に加害者であるお前を叩き続ける。ヘタをすると、暴力沙汰が起きるかもよ? お前はもちろん、親兄弟も同様だ。お前には姉がいるだろう?」
「だからなんだよ」
「もうすぐ子供が産まれる」
「おい! 何故それを知っている?」
瑠季はスマートフォンを持つ右手を降ろして言った。
「まさかゼロ歳でデジタルタトゥーを彫られるなんてな。ひどい叔父だ、お前は」
柚海は両手の拳を握りしめ、震え始めた。
「お前は! お前という奴は!」
「ほぉ~、どうする? また殴るのか?」
柚海は悔しくて、歯を食いしばった。
そんな柚海を、瑠季は鼻で笑って言った。
「お前は、自分の苦しみは耐えられるかもしれない。
だが自分のせいで、他の人間が苦しむのには耐えられない。お前はそういう人間だよな」
柚海は瑠季をにらんで言った。
「それは少し違うな」
「どこがだよ?」
「確かに親兄弟が晒されて中傷されたら、俺は苦しむだろう。
だが、お前が道連れになったって、俺は苦しまない」
「へぇ~、じゃあ試してみるか? もう用意はしてあるんだ」
瑠季は再び、スマートフォンの画像を見せた。
よく見ると、画像の下部に『アップロード』と書かれたボタンが表示されている。
「このSNSボタンに、少しでも私の指が触れたら---」
瑠季の左手の人差し指が、ボタンまであと数ミリという所まで近づいてきた。
慌てて柚海は言った。
「まっ、待て!」
直後、カウンターの奥から、ドアを開ける音がした。
バタン!
カウンターの奥には、二階の居住スペースへ向かう為の階段がある。
そこへ出入りする為のドアが開いたのだ。
里桜の声が店内に響いた。
「ユズミン、ごめん! お客さん来てた?」
里桜が店内を見渡すと、特に異常は無い。高校生と思われるお客はテーブル席に座り、視線は雨の降る店外へ向けていた。その左横に柚海が立っていた。
里桜の階段を降りる音に気付いた瑠季が、素早く柚海をテーブルの横に引っ張り、自分は椅子に座ったのだ。
里桜はカウンター越しに、柚海の足元を見て言った。
「ちょっと! コップ落としてるよ! 水浸しじゃない!」
「はっ、はい! すみません」
柚海は慌てて雑巾を取りに走った。
里桜は瑠季の横に行き、謝った。
「ごめんなさいねー、お客さん。あら…?」
里桜は、瑠季の服装を見て気が付いた。
「あなた、もしかして來々乃さん?」
雑巾を持って、テーブルの横に行こうとしていた柚海は氷ついた。
そして思った。
なぜ『西臣さんが、來々乃瑠季を知っているんだ?』と。




