12、私の天使
翌日の十三時。華瑚巳鞠子はシオンに来ていた。お店の玄関には、『クローズ』の看板が掛けられた。今からは貸し切りである。鞠子は四人用テーブルのソファ側に座っていた。エプロン姿の柚海は、鞠子の横に立った。そしてニコリと笑い、アイスコーヒーを置いた。
「お待たせしました、アイスコーヒーでございます」
鞠子はウットリした笑顔で言った。
「うわぁ、本当にウエイターやっているんだ。いいね! 柚海君、似合っているよ」
「似合っているかな? エプロン着てるからだよ」
柚海はエプロンを取り、鞠子の前に座った。エプロンは横の座席に置いた。
鞠子はアイスコーヒーを飲もうとグラスを手にした。
グラスに挿してあるストローを見ながら言った。
「ここの飲み物って、最初からストローが挿してあるの?」
「いや、普段は封を切らずに添えておくけど。鞠子さんはストローを使うだろう?」
「うん」
鞠子はコーヒーを一口飲んだ。
「あれ? ほんのり甘いね。私、ブラックコーヒーを頼んだつもりだけど?」
「鞠子さんって、シロップをほんのちょっぴり入れるだろ? いけなかった?」
「フフ、変わらないね、柚海君は」
「そうかな?」
「柚海君に給仕してもらえるなんてイイな。このお店のお客さんは幸せ者だね」
「アハハ、それ鞠子さん言い過ぎ」
「ううん、幸せだよ。私もそういう感覚が残っていたら、良かったんだけどね」
「どういう事?」
「ううん、なんでもないよ」
一方、里桜と瑠季はカウンターの中にいた。二人から客席を見ると、鞠子は正面・柚海は後姿が見える。里桜と瑠季は頭を寄せ合い、小声で話し始めた。柚海達には聞こえない。
里桜は瑠季の脇腹に向かって、いきなり肘鉄を喰らわせた。
「痛いっ! なにするんですかぁ!」
「あの人、ニュースキャスターの華瑚巳鞠子じゃないの?」
「そうです」
「『そうです』じゃねぇよ! 事前に言ってよ! ビックリしたじゃない!」
「まぁ、『元』ですし。今は一般人だからいいじゃないですか」
「あの人に、柚海君はコンビニで口説かれたの?」
「そういう事です」
「柚海君って、つくづく恐ろしいわね…。あれっ? でもあの人、結婚して引退したんじゃなかったっけ? かなり話題になったよね?」
「引退はしましたけど、ちょい違います。結婚がダメになって、引退したんです」
「そうだっけ…? まぁいずれにせよ、あの人が柚海君の元・恋人なんだね」
鞠子は柚海越しに、里桜と瑠季の様子を見ながら小声で言った。
「フフッ、あのお二人さん。私の事で盛り上がってるんじゃない? 聞こえないけど」
「ごめんね、お客さんの話しちゃって」
「全然いいよ。こっちから見ていたら面白いもん。あのミディアムヘアーの人って、柚海君の恋人?」
「違うけど---」
「けど? 歯切れ悪いね」
「簡単に言い切れない人なんだよ。お世話になってるし、俺も思い入れがあるしね。
でも、なぜそう思ったの? 単に一緒に働いているウエイトレスって思わなかった?」
「最初はね。でも、すぐ分かったよ。柚海君とは深い関係があるなって。
だって、こっちを必死に見ないようにしてるのが、すごい伝わってくる。
もうハッキリ見た方がマシだよ」
「アハハ、そりゃあダメだ」
「あの人が、『鶴子さん』が言っていた『美人』さんか」
「つるこ…? なんの事を言っているの?」
「アハハ、なんでもないよ」
ここからは、二人は普通の声量で話し始めた。里桜と瑠季にも聞こえている。それは二人とも覚悟していたので、構わなかった。
里桜と瑠季の声は、肩を寄せ合って小声で喋っているので、柚海と鞠子には聞こえない。
カウンターの中で、瑠季は思っていた。
「(鞠子さん、舞台は用意したよ。ここからはあなた次第だよ。メールでも書いたけど、
絶対に大丈夫! 私は男の人の口説き方なんて知らない。でも、柚海さんの事なら分かる。『今でも大好きだ』という想いさえ伝えたら、絶対に柚海さんは堕ちるよ!
今度こそ結ばれて! 柚海さんを幸せにしてあげて!)」
「鞠子さん、今はどうしているの?」
「普通の会社で事務員をしているよ」
「へぇ~、想像つかないな。知り合った時は、アナウンサーだったもんね。騒がれない?」
「ぜんっぜん! 普通に仕事してるよ。タレントなんて忘れられるのも早いよ。当時はサインや握手とか求められて面倒だったけど、今はすごい快適。素通りされて嬉しいもん」
「俺も当時は、鞠子さんの出るニュースは絶対に見るようにしてた。
急に時事問題に詳しくなったよ」
「そうそう、せっかく会ったのに、経済政策について意見を言い合ったりしたよね」
「アハハッ! まったくなにやってたんだろうね、俺達」
「そうだ! 美味しいって有名な洋菓子店があってさ、そこの『シュークリームを食べに行きたい』って、私が言ったの覚えてる? 一個五百円ぐらいする、豪勢なやつ」
「覚えてる覚えてる! で、行ったんだけど、ものすごい混んでいてさ。『並ぶのは良いけど、絶対に見つかる』って話になって帰ったんだよね」
「そう! でも、二人とも『シュークリームを食べたい口』になっていたから、絶対に食べたいってなって。結局、コンビニで買って、イートインコーナーで食べたんだよね」
「『ここなら見つからない』とか言ってね。でも、それはそれで良かったよ。
コンビニだったら、飲み物を買っても、二人で六百円くらいじゃなかったかな?」
「柚海君、やっぱりそんな事考えてたの? ホントにもう…」
「さらに言えば、シュークリームの賞味期限も見たね。『あっ、明日買えば一割引きだったのか』って。コンビニ店員の性分だね」
「それは『コンビニ店員』じゃなくて、『穂紫柚海』の性分でしょう?」
「あっ、そっか。アハハッ!」
カウンターの奥で、里桜は青ざめていた。
「ナナちゃん、これはキツイね。想像以上だよ。
『この場にいる』なんてカッコつけて言ったけど、自信が無くなってきた」
「里桜さん、二階に行ってます? お店は私が見てますから」
「いや、いいよ。聞いていたい。元・恋人さん…鞠子さんだっけ? あの人の事は別にいいんだ。そうじゃなくて、柚海君の事。私と知り合う前の、柚海君を知りたいの」
「はい…」
瑠季は里桜の気持ちを受け止めた。そして次に鞠子の顔を見て、内心で思った。
「(鞠子さん、いいよ、そうだよ、順調だよ。メールで書いたよね。
『いきなり本題に入るな』って。お互いに緊張がほぐれてきたよね。その調子だよっ!)」
柚海は言った。
「鞠子さん、聞いていいかな?」
「ん?」
「なぜこのタイミングで、俺に会おうって思ったの?」
「あっ、そうだよね。いつまでもこうして話していたいけど、そうもいかないよね。
…私の心の中には、『また柚海君に会いたい』って気持ちが何処かに有ったの。ずっとね。
するとこの間、『私を柚海君に会わせてやる』って人から連絡があってさ。仮に『鶴子さん』としておくね」
「『鶴子さん』ね…」
柚海が後ろを振り向いて、チラリと瑠季を見た。瑠季はバツが悪そうに視線を逸らした。
「私は、『柚海君に会わない・会っちゃいけない』って、自分に言い聞かせてきたの。
頑張って感情を抑えていたの。そんな時、『会わせてやる』と言われて---」
「鶴子さんに言われたの?」
「そう。『柚海君に会える』っていうのは、私にとって最大の誘惑なんだよね。
例えるなら、飲まず食わずで砂漠を何日もさ迷っている人の、氷水みたいなものかな。
この誘惑には勝てなかった。ごめんね」
「そんな重く考えないでよ。鶴子さんを通さなくても、俺は普通に会うよ」
「いや、会わないよ。現にこの二年間、一度も連絡をくれなかったでしょう?」
「それは普通だろ? 別れた恋人に定期的に連絡なんて、しないんじゃないかな?」
「そうだよ、その通りだよ。全部柚海君の言う通り。あなたが正しい。私の連絡先も消しているよね。でも、思っちゃうんだ。家の電話が鳴ったり、玄関のインターホンが鳴ったり、スマホが震えたりする度に、『柚海君じゃないか』って思っちゃうんだ。
それがね、苦しいの」
「俺はどうすれば、その苦しみを取り除けるんだろう?」
「謝らせてほしい」
「えっ?」
「二年前の私の罪を、謝らせてほしい」
「罪って、それは大袈裟だよ。それに、もう二年前に謝ってもらったよ。十分だよ」
「お願いだから」
「それは俺に失礼だよ。『お前はまだ根に持ってんだろ?』って言ってるのと同じだよ」
「そんなの思ってないよ!」
「うん、じゃあそれで十分だよ。それに、鞠子さんは自分の誠実さを分かっていないね」
「誠実? 私が?」
「だって俺が家庭に入って、自分が働くって言ってくれただろう?」
「それが誠実なの?」
「五億円」
「えっ?」
「一般的な家庭が、最後まで家庭を維持するのに必要なお金だよ。つまり大黒柱になる人は、五億円分働かなくてはいけないんだ。鞠子さんは、俺の為にそれを背負うって言ってくれたんだ。そんなすごい決意をしてくれて、感謝しているんだ。そんなの、なかなか女性に言ってもらえないよ」
「そうかもしれないけど、結局は別の人を選んだ。しかもお金で」
「それと鞠子さんが悪いというのは、違う話だって」
「違う話?」
「そう、普通にありえるって事。あの当時、もし俺がすごいお金持ちの女性と知り合ったとしたら、なにもないとは言い切れない。俺も同じだよ。だからもう、気に病まないで」
「違う…」
「えっ?」
「柚海君は違うよ。私とは違う。仮にお金持ちの美人が現れても、絶対に私を選んでくれていた。柚海君はそういう人だよね。だから私は、あなたを好きなったんだから」
「…それでも、俺は言うよ。鞠子さんは間違っていないって」
「いや、だから---」
「愛情はお金では買えないと思う。でも、愛情を『育てる』にはお金が必要だよ。
俺にはそれが無かった。卑屈になって言ってるんじゃないよ。事実として無かった。
必要な物を必要と思って、なにが悪いの? だから、もう気に病まないでほしいんだ」
「…うん、分かったよ。もう気に病まない。ありがとうね柚海君」
瑠季は思っていた。
「(う~ん、『中盤はグイグイ行かないでよ』とはメールで書いたけど、ちょっと引きすぎな気がする。まあいいや。終盤で盛り上げるんだよ! 鞠子さん!)」
鞠子は、恐る恐る聞いた。
「柚海君、率直に聞くね。今、私の事をどう思ってるの?」
「好きだ。大好きだよ。付き合い始めた日から今日まで、気持ちに微塵の変化もないよ」
「じゃっ、じゃあ! 私達---」
「ただ、寄りは戻せないんだ」
「…なぜ?」
「俺の母親、婚約解消の後、二週間ほど入院したんだ」
「あ…うん。鶴子さんから聞いているよ。…本当に申し訳ないと思ってる」
「いや、責めるために言ったんじゃないんだ。もう本当の事を言うべきだと思ってね。
鶴子さんも知らないだろうから、鞠子さんに伝わってないんだろうし」
「本当の事…?」
「確かに入院はしたけど、体調不良じゃない。自殺未遂なんだ。高い所から飛び降りて」
「じっ、自殺?」
「婚約解消が全ての原因じゃないよ。母親も当時は働きづめで疲れていて、薬がないと眠れなくなっていたからね。心療内科に通うくらい、気持ちがとても不安定だったんだ。幸い命は助かったけど、左足に麻痺が残ってさ。二週間で退院して、リハビリ専門の病院に転院したんだ。一年ほどで退院できたよ」
鞠子の顔は青ざめ、下を向いた。顔を上げられなかった。
「鞠子さん、顔を上げて。あなたを責める為に言ったんじゃないよ。俺達がやり直せない理由を納得してもらう為には、言わざるを得なかったんだ。それに、母親は回復したよ。日常生活には不自由しないくらいにさ。今は姉夫婦と暮らしている。だから安心して」
これには、瑠季も青ざめていた。
「じっ、自殺未遂? オバサンが…!」
里桜は瑠季に聞いた。
「ナナちゃん、知っていたの?」
瑠季は激しく首を振った。
「そっか。どうもおかしいと思ってたんだ。柚海君は一生懸命働いているのに、借金の減りが遅すぎるもん。お母さんへ仕送りもしているんだよ、きっと」
鞠子は涙ぐんでいた。
「ごめん…ごめんなさい。知らなくて、本当に知らなくて…」
「いいんだよ、鞠子さんのせいじゃない。だから、もし俺達が結婚したとして---」
「…」
「鞠子さんと暮らし始めたとしたら、ふとした拍子に、あなたに黒い感情を持ってしまうかもしれない。逆恨みをしてしまうかもしれない。それが怖いんだ。自分が怖い」
「それは逆恨みじゃないよ。私、あなたに憎まれるべきだよ」
「信じてもらえないかもしれないけど、鞠子さんには感謝しかないんだ。本当だよ」
鞠子はしばらく泣いた後、静かに言った。
「今日はさ、柚海君とやり直すために来たんじゃないの。お別れを言う為に来たの」
鞠子はバックから、茶色い封筒を取り出し、柚海の前に置いた。
「これに五百万円入ってる。お願いだから受け取ってほしいの」
瑠季と里桜は、思わず顔を合わせた。まさか鞠子がお金を渡そうとするとは、二人とも予想外だった。こんな真似をすれば、柚海は怒りだす…いや、少なくとも
『これは受け取れない』という問答を、何度も繰り返すはずだと、二人は思った。
だが、現実は全く違った。
テーブルから、柚海の明るい声が聞こえてきた。
「えっ! 本当に? やったー!」
そう言うと、柚海は封筒をわしづかみにした。
「これで借金が返せるよ! お願いなんかしてくれなくても、もちろん受け取るよ!
お釣りがでちゃうよ。なにか贅沢しようかな? うわ~五百万円ってこんなに分厚くて重いんだ~。ちょっと感激しちゃうよ」
「…柚海君」
「なに? もしかしてまだくれるの?」
「うぅ…」
「あっ、さすがにそれは無理? ガハハッ!」
柚海の下品な笑い声が、店内に響いた。
ご機嫌で、あっさりとお金を受け取った柚海。そして、その言動。
瑠季はショックのあまり、体が震えていた。里桜は全身の力が抜けて立てなくなり、背後の食器棚にもたれかかった。
二人の知っている穂紫柚海は、そこにはいなかった。
鞠子は力ない様子で身支度を整えると立ち上がった。
「じゃあ、私行くね。もう会う事も無いと思うけど、元気でね」
「うん、無いだろうね。じゃあね~」
鞠子は、静かに出て行った。柚海も振り返る事はなかった。
瑠季と里桜は呆然とし、その場から動かなかった。柚海も座ったまま動かない。
二~三分経った頃、瑠季はふと我に返った。そして玄関を出て走り出した。
●
鞠子は駅に向かって歩いていると、後ろから瑠季の大きな声が聞こえてきた。鞠子が振り返ると、瑠季はすぐに到着した。瑠季は鞠子と向かい合い、息を切らせながら言った。
「はぁ、はぁ! まっ、待って! はぁ、待ってよ!」
「鶴子さん」
「まだ話し合いは終わっていないよ! 戻ってよ!」
「ごめんなさいね、あなたの指示通りにしなくて。勝手な事しちゃったね」
「もうそんなの、どうだっていいんだよ! とにかく戻って柚海さんと話をして!」
「私ね、鶴子さんに謝らないといけない事があるんだ」
「…なに?」
「今日は、柚海君とやり直す為に来たんじゃない。お別れをする為に来たんだ。
お母様の話はショックだったけど、それが無くても同じだったよ。ごめんね」
「そんな…そんなのないよっ!
『上手くやろうね』って、何度もメールで話し合ったのにっ! 嘘だったの?」
「…うん。柚海君とやり直す気が無いって言ったら、鶴子さんは柚海君に会わせてくれなかったでしょう? 仕方なかった。私は、とにかく会いたかった。会って形のある謝罪をしたかったの」
「それがお金って事?」
「お金『も』だね。ちゃんと頭を下げたかったのに、させてくれないんだからさ。困った人だね、柚海君は。それにあのお金は、婚約を解消した社長からもらった『慰謝料』の一部なの。DVを隠す為の『口止め料』とも言うけど。私に負担はないから大丈夫だよ」
「それじゃあダメなんだよ! 誰かが代わりに払ったんじゃあダメなんだって! ハッキリ言って柚海さんの借金は、私の貯金でも払えるんだ。でもそれじゃあ、彼の心に負い目が残るんだよ。払ってくれた人に、何としてでも恩を返そうとする。恩返しの為に生きていこうとする。そういう人なんだ。柚海さんに必要なのはお金じゃなくて、彼を愛情いっぱいに支えてくれる人なんだよ!」
「でも柚海君とご家族は、私にヒドく傷つけられたんだからさ。あのお金はその対価だと思ってほしいの」
「あの、あのさ。柚海さんのお金の受け取り方にショックを受けたと思う。私もゾッとするような笑い声だった。思い出しただけで背筋が震えるよ。でも、許してあげてほしい。柚海さんは本当にお金で苦労したんだ。小学生ぐらいまでは、夕食があるかどうか分からない日もあったらしいよ。だから、大金を目の前にしたら、気が動転してあんな---」
鞠子は、瑠季が話し終えるのを待たずに言った。
「あれ? 鶴子さん。あなたもしかして、分かっていないの?」
「えっ…?」
「あのお金は自分の為に受け取ったんじゃない。私の為だよ。私に『形のある謝罪』をさせてくれたんだ。私の『心に刺さった十字架』を、取り除いてくれたんだよ。ヘタな悪役までやっちゃってさ。似合わないよね、アハハ」
「そっ、そうなの…?」
「私だって、柚海君の事を分かってるんだよ。やった! 私の勝ちぃ~!」
「ふざけないで! とにかく戻ってよ!」
「それはできないよ」
「なにが気になってるの? 柚海さんをフッた事? お母さんの事? 時間をかければ、柚海さんなら絶対に分かってくれる。そんな事、鞠子さんが一番分かってるでしょう?」
「あっ、初めて名前で呼んでくれたね。嬉しいな」
「真面目に聞いてよっ!」
「…やり直せない理由を、ハッキリと言葉にするとしたら、
『私は罪を犯してしまった』から。だからもう、柚海君とは無理なんだよ」
「罪って…、大袈裟すぎるよ。経済力だって人間の魅力の一つだよ。お金持ちに惹かれたって、仕方ないじゃない。『貧乏な人』との恋愛しか、本当の愛は無いって言うの?」
「そうじゃなくてさ---」
「お母さんの件は、いつかきっと分かってくれる。柚海さんなら絶対だよ」
「そうじゃないんだよ。柚海君やお母様が許すかどうかっていう話だけじゃないんだ」
「…じゃあなんなの?」
「鶴子さんは、柚海君が手話を出来るのを知ってる?」
「えっ? うん。好きなドラマでやってたから、マネしているウチに憶えたんでしょ?」
「へぇ、そんな風に伝わっているんだ」
「…違うの?」
「私の母親って、聾者なんだよね。耳が聞こえないんだ」
「あっ、そうなんだ。…あれ? という事は---」
「うん。私の母親…いや、私達親子の為に、一生懸命に勉強して覚えてくれたんだよね。短期間で、普通に会話ができるくらいまで。ただでさえ昼夜関係無く働いて忙しいのに、大変だったと思う。英語もそうだと思うけど、英会話教室に少し通ったくらいで、アメリカ人とペラペラ喋れるようにならないでしょ? でも、彼は独学でやってのけた。それがどれ程の努力だったか・どれ程の愛情だったか…。もう言葉にできないよ。その愛情を、鶴子さんの言う通り、私は『無下に振り払った』んだよね」
「鞠子さん…」
「人間ってさ、失敗をする生き物だから罪を犯すよ。そして、きちんと償えば許されるんだと思う。でもね、『相手が許しても、自分が許してはいけない罪』ってあるんだよ。私はそれを、犯してしまったんだよね」
「そんな…」
「じゃあ、私行くから。色々とありがとうね、ルキちゃん」
「…え?」
「柚海君が時々嬉しそうに、あなたの話をしていたからね。名前だけは知っていたよ。
当時中学生って事は、今は高校生ぐらい? それで柚海君の事に熱心な人といえば、鶴子さんしかいないからね。会えて嬉しかった」
瑠季は、涙を流して懇願した。
「待って…待ってください! 行かないでください! 私、なんでもしますから! 今までのヒドイ態度を謝ります! お金もあるだけ差し上げます! だから柚海さんを見捨てないでください! もう、辛そうに生きる柚海さんを見たくないんです! 柚海さんを救えるのは、鞠子さんしかいないんです!」
瑠季はそう言うと、嗚咽をしながら泣きじゃくった。
見かねた鞠子はハンカチを取り出し、子供を慰める母親のように、優しく涙を拭いた。
「そんなに泣かないで」
「鞠子さん、ごめんなさい。私みたいな疫病神のせいで、二人を苦しめてしまって」
「それって、結婚延期の事?」
「…はい」
「それは全然関係が無いよ。私が乗り越えられなかっただけの事だから。
それにルキちゃん、あなたは一つ勘違いをしているよ」
「えっ?」
「あなたは疫病神なんかじゃない。可愛い天使。幸せを運んでくる天使だよ」
「違いますよ! なにを言っているんですか!」
「柚海君は、あなたと長い日々を一緒に過ごしたんでしょう? ルキちゃんから影響をたくさん受けたと思う。世の中を呪いたくなるような厳しい環境だったのに、彼があんなに良い人になったのは、あなたのおかげなの。そして私は、そんな柚海くんと恋愛ができた。本当に幸せだったよ。ありがとう、ルキちゃん」
「…」
「今度はその幸せを、柚海君に届けてほしい。お願いできる?」
「鞠子さん…」
鞠子は瑠季を抱きしめて、右手で瑠季の頭を優しく撫でた。
「ありがとう、私の可愛い天使。そして…さようなら」
●
お店で里桜は一人、ボーッとカウンター席で座っていた。柚海はいない。
すると、ゆっくりと玄関のドアが開いた。瑠季が戻ってきたのだ。
その顔は憔悴しきっていた。
里桜は心配そうに言った。
「ナナ…ちゃん?」
瑠季に返事はない。
里桜は静かに言った。
「柚海君なら出て行ったよ。借金を払ってくるって。一日でも早いほうが利子が少なくて済むからってさ。笑ってたよ。あんな上機嫌な柚海君、初めて見た。ハハハ…」
また瑠季は返事をしなかった。聞こえているかどうかも分からなかった。瑠季はトボトボと歩くと、店の中央辺りで立ち止まった。
誰もいない方を見て、ボソリと言った。
「行っちゃった…。柚海さんの幸せが去って行った…。もうダメだ…」
里桜もかなり落胆していたが、瑠季の状態が心配になり、そばに近寄って言った。
「ナナちゃん、大丈夫?」
里桜は瑠季の顔を見て戦慄した。まるで魚のような冷たい目。意識が無いかのような、焦点のあっていない視線。そして引きつった笑顔。もはや正気ではない。
瑠季は、里桜の視線に気が付くと言った。
「里桜さん…。里桜さん? そうだ! まだ私には里桜さんがいたんだっ!」
「えっ?」
「里桜さんやったね! 鞠子さんはいなくなったよ! これで柚海さんは里桜さんのモノだよ。良かったね! 二人で幸せになってね!」
「…鞠子さんがダメになったから、次は私って事?」
「そうだよ! 別にいいよね! もう借金も無いよ! 万々歳じゃん! やったぁ!」
「あんた…あんたねぇ!」
里桜は平手打ちをしようと、右手を振り上げた。瑠季は目を閉じ、身構えた。
それを見た里桜はゆっくりと右手を降ろした。
そして諭すように瑠季に語りかけた。
「私ね、二人の話し合いが決裂してほしいと思ってた。鞠子さんとの縁が壊れて、私を選んでほしいって。でも、あれは決裂じゃない。『円満に終わった』んだよね」
「はい…」
「柚海君の借金は、私が代わりに払ってもいいと思ってた。それで彼と結ばれるんなら、安いもんだって。でも、あんな形でお金を受け取っている柚海君を見た途端、そんな気持ちは無くなっちゃった。人間って不思議…って言うか、勝手だよね」
「それは違うんです! あのお金は自分の為に受け取ったんじゃあ---」
「鞠子さんの為でしょう? 分かっているよ、そんなの。さっき冷静になって考えたら、気付く事ができたから」
「えっ…?」
「問題はお金じゃなくて、鞠子さんに対する気持ちだよ。あんな悪役、誰がやりたがるの?みんなに軽蔑されてさ。でも柚海君はやったんだよね。鞠子さんの助けになるなら、自分はどう思われても構わない。それが柚海君の本心なんだ。柚海君の気持ちは、鞠子さんにしかないんだよ」
「でも、それじゃあ---」
「うん、私じゃあダメなんだろうね。というより、鞠子さんしかダメなんだよ」
「じゃあ柚海さんは、これから一人で生きていくんですか?」
「そうかもしれない。でも、それは本人が決める事だから。それで納得できる人生が歩めるなら、これ以上は私達にはなにも言えないよ」
「そんな! そんなの悲しすぎるよっ!」
「ナナちゃん、もういいんだよ。柚海君への贖罪の気持ちで頑張ってきたんだろうけど、もう十分すぎるくらいやったんだよ。これからは、自分の為に生きてね」
「そんな…。私のした事は、全部無駄だった。みんなを苦しめただけ…」
「そんな事ないよ。私はナナちゃんに出会えて嬉しかったよ。この数か月、本当に楽しかった。それに、鞠子さんと柚海君を会わせる機会を作ったじゃない。それはナナちゃんしかできたかった事だよ。柚海君もどんな形であれ、ナナちゃんと再会できた。嬉しかったろうな。ナナちゃんが止まっていた歯車を動かしたんだ。みんな感謝してるよ、きっと」
「里桜さん…」
「ナナちゃん、もうこの店は辞めた方がいい」
「えっ?」
「いても辛いだけでしょう? 無理しなくていいから」
「…いえ、います。約束通り、来年の三月まで務めます」
「なぜ?」
「私、本当は今日で辞めるつもりでいました。でも、里桜さん・鞠子さん・柚海さんを見て考えが変わりました。『居づらいから辞める』じゃあ、いけないと思うんです。そんな事をしたら、中学校の時の、甘ったれた私と変わりありません。アルバイトを頑張って、勉強を頑張って、海東大学へ入ります。大学でも頑張って、社会にでます。社会に出たら一生懸命働いて、色々な人の力になりたい。私が一生懸命に生きる事が、ご迷惑をかけた里桜さん・鞠子さん、そして柚海さんへの償いだと思うから」
「そう…分かったよ。でも、本当にあなたって、『小さな柚海くん』だよね。
柚海君があなたの立場だったら、同じような事を言った気がするよ」
「アハハ…そうですかね」
「今の話、柚海君に言ったら泣いて喜ぶと思うけど…」
「ダメ! ダメ! ダメ! 恥ずかしいから絶対にダメですよ!」
「うん、じゃあ内緒だね」
里桜は瑠季を抱きしめた。
「ナナちゃん。私達の為に、たくさん頑張ってくれてありがとう。
あなたは本当に、私の妹だよ」
「里桜さん…。私の大好きなお姉さん…」
●
それから三人は、お互いの関係が悪くなるという事もなく、淡々と日々を過ごした。
里桜は柚海に対して特別な感情は無くなっていた。デートをするという事も無かった。
瑠季も柚海に脅迫するような態度はやめた。ただ、仕事以外の会話は一切しなかった。
三人は、一連の騒動を話し合う事もしなかった。
そして翌年の二月。まずは柚海が退職した。今回は二年前のような失踪ではない。
商店街など、お世話になった人々へ挨拶へ回った。みんな別れを惜しんでくれたので、柚海は嬉しかった。里桜と二人で、お店で軽い打ち上げをした。
世間話しかしなかったが、柚海は円満にお店を去った。
三月。次に瑠季が退職した。柚海同様、お世話になった人々へ挨拶へ回り、
別れを惜しんだ。特に里桜には感謝しきりだった。
里桜は二人の後進を雇い、シオンの営業を通常通りに続けている。
そう、全ては元に戻ったのだった。




