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12、私の天使

 翌日の十三時。華瑚巳かこみ鞠子まりこはシオンに来ていた。お店の玄関には、『クローズ』の看板が掛けられた。今からは貸し切りである。鞠子まりこは四人用テーブルのソファ側に座っていた。エプロン姿の柚海ゆずみは、鞠子まりこの横に立った。そしてニコリと笑い、アイスコーヒーを置いた。

「お待たせしました、アイスコーヒーでございます」

鞠子まりこはウットリした笑顔で言った。

「うわぁ、本当にウエイターやっているんだ。いいね! 柚海ゆずみ君、似合っているよ」

「似合っているかな? エプロン着てるからだよ」

柚海ゆずみはエプロンを取り、鞠子まりこの前に座った。エプロンは横の座席に置いた。

鞠子まりこはアイスコーヒーを飲もうとグラスを手にした。

グラスに挿してあるストローを見ながら言った。

「ここの飲み物って、最初からストローが挿してあるの?」

「いや、普段は封を切らずに添えておくけど。鞠子まりこさんはストローを使うだろう?」

「うん」

鞠子まりこはコーヒーを一口飲んだ。

「あれ? ほんのり甘いね。私、ブラックコーヒーを頼んだつもりだけど?」

鞠子まりこさんって、シロップをほんのちょっぴり入れるだろ? いけなかった?」

「フフ、変わらないね、柚海ゆずみ君は」

「そうかな?」

柚海ゆずみ君に給仕してもらえるなんてイイな。このお店のお客さんは幸せ者だね」

「アハハ、それ鞠子まりこさん言い過ぎ」

「ううん、幸せだよ。私もそういう感覚が残っていたら、良かったんだけどね」

「どういう事?」

「ううん、なんでもないよ」


一方、里桜りお瑠季るきはカウンターの中にいた。二人から客席を見ると、鞠子まりこは正面・柚海ゆずみは後姿が見える。里桜りお瑠季るきは頭を寄せ合い、小声で話し始めた。柚海ゆずみ達には聞こえない。

里桜りお瑠季るきの脇腹に向かって、いきなり肘鉄ひじてつを喰らわせた。

「痛いっ! なにするんですかぁ!」

「あの人、ニュースキャスターの華瑚巳鞠子かこみまりこじゃないの?」

「そうです」

「『そうです』じゃねぇよ! 事前に言ってよ! ビックリしたじゃない!」

「まぁ、『元』ですし。今は一般人だからいいじゃないですか」

「あの人に、柚海ゆずみ君はコンビニで口説かれたの?」

「そういう事です」

柚海ゆずみ君って、つくづく恐ろしいわね…。あれっ? でもあの人、結婚して引退したんじゃなかったっけ? かなり話題になったよね?」

「引退はしましたけど、ちょい違います。結婚がダメになって、引退したんです」

「そうだっけ…? まぁいずれにせよ、あの人が柚海ゆずみ君の元・恋人なんだね」


鞠子まりこ柚海ゆずみ越しに、里桜りお瑠季るきの様子を見ながら小声で言った。

「フフッ、あのお二人さん。私の事で盛り上がってるんじゃない? 聞こえないけど」

「ごめんね、お客さんの話しちゃって」

「全然いいよ。こっちから見ていたら面白いもん。あのミディアムヘアーの人って、柚海ゆずみ君の恋人?」

「違うけど---」

「けど? 歯切れ悪いね」

「簡単に言い切れない人なんだよ。お世話になってるし、俺も思い入れがあるしね。

でも、なぜそう思ったの? 単に一緒に働いているウエイトレスって思わなかった?」

「最初はね。でも、すぐ分かったよ。柚海ゆずみ君とは深い関係があるなって。

だって、こっちを必死に見ないようにしてるのが、すごい伝わってくる。

もうハッキリ見た方がマシだよ」

「アハハ、そりゃあダメだ」

「あの人が、『鶴子つるこさん』が言っていた『美人』さんか」

「つるこ…? なんの事を言っているの?」

「アハハ、なんでもないよ」

ここからは、二人は普通の声量で話し始めた。里桜りお瑠季るきにも聞こえている。それは二人とも覚悟していたので、構わなかった。


里桜りお瑠季るきの声は、肩を寄せ合って小声で喋っているので、柚海ゆずみ鞠子まりこには聞こえない。

カウンターの中で、瑠季るきは思っていた。

「(鞠子まりこさん、舞台は用意したよ。ここからはあなた次第だよ。メールでも書いたけど、

絶対に大丈夫! 私は男の人の口説き方なんて知らない。でも、柚海ゆずみさんの事なら分かる。『今でも大好きだ』という想いさえ伝えたら、絶対に柚海ゆずみさんは堕ちるよ!

今度こそ結ばれて! 柚海ゆずみさんを幸せにしてあげて!)」


鞠子まりこさん、今はどうしているの?」

「普通の会社で事務員をしているよ」

「へぇ~、想像つかないな。知り合った時は、アナウンサーだったもんね。騒がれない?」

「ぜんっぜん! 普通に仕事してるよ。タレントなんて忘れられるのも早いよ。当時はサインや握手とか求められて面倒だったけど、今はすごい快適。素通りされて嬉しいもん」

「俺も当時は、鞠子まりこさんの出るニュースは絶対に見るようにしてた。

急に時事問題に詳しくなったよ」

「そうそう、せっかく会ったのに、経済政策について意見を言い合ったりしたよね」

「アハハッ! まったくなにやってたんだろうね、俺達」

「そうだ! 美味しいって有名な洋菓子店があってさ、そこの『シュークリームを食べに行きたい』って、私が言ったの覚えてる? 一個五百円ぐらいする、豪勢なやつ」

「覚えてる覚えてる! で、行ったんだけど、ものすごい混んでいてさ。『並ぶのは良いけど、絶対に見つかる』って話になって帰ったんだよね」

「そう! でも、二人とも『シュークリームを食べたい口』になっていたから、絶対に食べたいってなって。結局、コンビニで買って、イートインコーナーで食べたんだよね」

「『ここなら見つからない』とか言ってね。でも、それはそれで良かったよ。

コンビニだったら、飲み物を買っても、二人で六百円くらいじゃなかったかな?」

柚海ゆずみ君、やっぱりそんな事考えてたの? ホントにもう…」

「さらに言えば、シュークリームの賞味期限も見たね。『あっ、明日買えば一割引きだったのか』って。コンビニ店員の性分だね」

「それは『コンビニ店員』じゃなくて、『穂紫ほし柚海ゆずみ』の性分でしょう?」

「あっ、そっか。アハハッ!」


カウンターの奥で、里桜りおは青ざめていた。

「ナナちゃん、これはキツイね。想像以上だよ。

『この場にいる』なんてカッコつけて言ったけど、自信が無くなってきた」

里桜りおさん、二階に行ってます? お店は私が見てますから」

「いや、いいよ。聞いていたい。元・恋人さん…鞠子まりこさんだっけ? あの人の事は別にいいんだ。そうじゃなくて、柚海ゆずみ君の事。私と知り合う前の、柚海ゆずみ君を知りたいの」

「はい…」

瑠季るき里桜りおの気持ちを受け止めた。そして次に鞠子まりこの顔を見て、内心で思った。

「(鞠子まりこさん、いいよ、そうだよ、順調だよ。メールで書いたよね。

『いきなり本題に入るな』って。お互いに緊張がほぐれてきたよね。その調子だよっ!)」


柚海ゆずみは言った。

鞠子まりこさん、聞いていいかな?」

「ん?」

「なぜこのタイミングで、俺に会おうって思ったの?」

「あっ、そうだよね。いつまでもこうして話していたいけど、そうもいかないよね。

…私の心の中には、『また柚海ゆずみ君に会いたい』って気持ちが何処かに有ったの。ずっとね。

するとこの間、『私を柚海ゆずみ君に会わせてやる』って人から連絡があってさ。仮に『鶴子つるこさん』としておくね」

「『鶴子つるこさん』ね…」

柚海ゆずみが後ろを振り向いて、チラリと瑠季るきを見た。瑠季るきはバツが悪そうに視線を逸らした。

「私は、『柚海ゆずみ君に会わない・会っちゃいけない』って、自分に言い聞かせてきたの。

頑張って感情を抑えていたの。そんな時、『会わせてやる』と言われて---」

「鶴子さんに言われたの?」

「そう。『柚海ゆずみ君に会える』っていうのは、私にとって最大の誘惑なんだよね。

例えるなら、飲まず食わずで砂漠を何日もさ迷っている人の、氷水みたいなものかな。

この誘惑には勝てなかった。ごめんね」

「そんな重く考えないでよ。鶴子さんを通さなくても、俺は普通に会うよ」

「いや、会わないよ。現にこの二年間、一度も連絡をくれなかったでしょう?」

「それは普通だろ? 別れた恋人に定期的に連絡なんて、しないんじゃないかな?」

「そうだよ、その通りだよ。全部柚海ゆずみ君の言う通り。あなたが正しい。私の連絡先も消しているよね。でも、思っちゃうんだ。家の電話が鳴ったり、玄関のインターホンが鳴ったり、スマホが震えたりする度に、『柚海ゆずみ君じゃないか』って思っちゃうんだ。

それがね、苦しいの」

「俺はどうすれば、その苦しみを取り除けるんだろう?」

「謝らせてほしい」

「えっ?」

「二年前の私の罪を、謝らせてほしい」

「罪って、それは大袈裟おおげさだよ。それに、もう二年前に謝ってもらったよ。十分だよ」

「お願いだから」

「それは俺に失礼だよ。『お前はまだ根に持ってんだろ?』って言ってるのと同じだよ」

「そんなの思ってないよ!」

「うん、じゃあそれで十分だよ。それに、鞠子まりこさんは自分の誠実さを分かっていないね」

「誠実? 私が?」

「だって俺が家庭に入って、自分が働くって言ってくれただろう?」

「それが誠実なの?」

「五億円」

「えっ?」

「一般的な家庭が、最後まで家庭を維持するのに必要なお金だよ。つまり大黒柱になる人は、五億円分働かなくてはいけないんだ。鞠子まりこさんは、俺の為にそれを背負うって言ってくれたんだ。そんなすごい決意をしてくれて、感謝しているんだ。そんなの、なかなか女性に言ってもらえないよ」

「そうかもしれないけど、結局は別の人を選んだ。しかもお金で」

「それと鞠子まりこさんが悪いというのは、違う話だって」

「違う話?」

「そう、普通にありえるって事。あの当時、もし俺がすごいお金持ちの女性と知り合ったとしたら、なにもないとは言い切れない。俺も同じだよ。だからもう、気に病まないで」

「違う…」

「えっ?」

柚海ゆずみ君は違うよ。私とは違う。仮にお金持ちの美人が現れても、絶対に私を選んでくれていた。柚海ゆずみ君はそういう人だよね。だから私は、あなたを好きなったんだから」

「…それでも、俺は言うよ。鞠子まりこさんは間違っていないって」

「いや、だから---」

「愛情はお金では買えないと思う。でも、愛情を『育てる』にはお金が必要だよ。

俺にはそれが無かった。卑屈になって言ってるんじゃないよ。事実として無かった。

必要な物を必要と思って、なにが悪いの? だから、もう気に病まないでほしいんだ」

「…うん、分かったよ。もう気に病まない。ありがとうね柚海ゆずみ君」


瑠季るきは思っていた。

「(う~ん、『中盤はグイグイ行かないでよ』とはメールで書いたけど、ちょっと引きすぎな気がする。まあいいや。終盤で盛り上げるんだよ! 鞠子まりこさん!)」


鞠子まりこは、恐る恐る聞いた。

柚海ゆずみ君、率直に聞くね。今、私の事をどう思ってるの?」

「好きだ。大好きだよ。付き合い始めた日から今日まで、気持ちに微塵みじんの変化もないよ」

「じゃっ、じゃあ! 私達---」

「ただ、寄りは戻せないんだ」

「…なぜ?」

「俺の母親、婚約解消の後、二週間ほど入院したんだ」

「あ…うん。鶴子さんから聞いているよ。…本当に申し訳ないと思ってる」

「いや、責めるために言ったんじゃないんだ。もう本当の事を言うべきだと思ってね。

鶴子さんも知らないだろうから、鞠子まりこさんに伝わってないんだろうし」

「本当の事…?」

「確かに入院はしたけど、体調不良じゃない。自殺未遂なんだ。高い所から飛び降りて」

「じっ、自殺?」

「婚約解消が全ての原因じゃないよ。母親も当時は働きづめで疲れていて、薬がないと眠れなくなっていたからね。心療内科に通うくらい、気持ちがとても不安定だったんだ。幸い命は助かったけど、左足に麻痺が残ってさ。二週間で退院して、リハビリ専門の病院に転院したんだ。一年ほどで退院できたよ」

鞠子まりこの顔は青ざめ、下を向いた。顔を上げられなかった。

鞠子まりこさん、顔を上げて。あなたを責める為に言ったんじゃないよ。俺達がやり直せない理由を納得してもらう為には、言わざるを得なかったんだ。それに、母親は回復したよ。日常生活には不自由しないくらいにさ。今は姉夫婦と暮らしている。だから安心して」


これには、瑠季るきも青ざめていた。

「じっ、自殺未遂? オバサンが…!」

里桜りお瑠季るきに聞いた。

「ナナちゃん、知っていたの?」

瑠季るきは激しく首を振った。

「そっか。どうもおかしいと思ってたんだ。柚海ゆずみ君は一生懸命働いているのに、借金の減りが遅すぎるもん。お母さんへ仕送りもしているんだよ、きっと」


鞠子まりこは涙ぐんでいた。

「ごめん…ごめんなさい。知らなくて、本当に知らなくて…」

「いいんだよ、鞠子まりこさんのせいじゃない。だから、もし俺達が結婚したとして---」

「…」

鞠子まりこさんと暮らし始めたとしたら、ふとした拍子に、あなたに黒い感情を持ってしまうかもしれない。逆恨みをしてしまうかもしれない。それが怖いんだ。自分が怖い」

「それは逆恨みじゃないよ。私、あなたに憎まれるべきだよ」

「信じてもらえないかもしれないけど、鞠子まりこさんには感謝しかないんだ。本当だよ」

鞠子まりこはしばらく泣いた後、静かに言った。

「今日はさ、柚海ゆずみ君とやり直すために来たんじゃないの。お別れを言う為に来たの」

鞠子まりこはバックから、茶色い封筒を取り出し、柚海ゆずみの前に置いた。

「これに五百万円入ってる。お願いだから受け取ってほしいの」


瑠季るき里桜りおは、思わず顔を合わせた。まさか鞠子まりこがお金を渡そうとするとは、二人とも予想外だった。こんな真似をすれば、柚海ゆずみは怒りだす…いや、少なくとも

『これは受け取れない』という問答を、何度も繰り返すはずだと、二人は思った。

だが、現実は全く違った。

テーブルから、柚海ゆずみの明るい声が聞こえてきた。

「えっ! 本当に? やったー!」

そう言うと、柚海ゆずみは封筒をわしづかみにした。

「これで借金が返せるよ! お願いなんかしてくれなくても、もちろん受け取るよ!

お釣りがでちゃうよ。なにか贅沢しようかな? うわ~五百万円ってこんなに分厚くて重いんだ~。ちょっと感激しちゃうよ」

「…柚海ゆずみ君」

「なに? もしかしてまだくれるの?」

「うぅ…」

「あっ、さすがにそれは無理? ガハハッ!」

柚海ゆずみの下品な笑い声が、店内に響いた。


ご機嫌で、あっさりとお金を受け取った柚海ゆずみ。そして、その言動。

瑠季るきはショックのあまり、体が震えていた。里桜りおは全身の力が抜けて立てなくなり、背後の食器棚にもたれかかった。

二人の知っている穂紫ほし柚海ゆずみは、そこにはいなかった。


鞠子まりこは力ない様子で身支度を整えると立ち上がった。

「じゃあ、私行くね。もう会う事も無いと思うけど、元気でね」

「うん、無いだろうね。じゃあね~」

鞠子まりこは、静かに出て行った。柚海ゆずみも振り返る事はなかった。

瑠季るき里桜りおは呆然とし、その場から動かなかった。柚海ゆずみも座ったまま動かない。

二~三分経った頃、瑠季るきはふと我に返った。そして玄関を出て走り出した。

鞠子まりこは駅に向かって歩いていると、後ろから瑠季るきの大きな声が聞こえてきた。鞠子まりこが振り返ると、瑠季るきはすぐに到着した。瑠季るき鞠子まりこと向かい合い、息を切らせながら言った。

「はぁ、はぁ! まっ、待って! はぁ、待ってよ!」

鶴子つるこさん」

「まだ話し合いは終わっていないよ! 戻ってよ!」

「ごめんなさいね、あなたの指示通りにしなくて。勝手な事しちゃったね」

「もうそんなの、どうだっていいんだよ! とにかく戻って柚海ゆずみさんと話をして!」

「私ね、鶴子さんに謝らないといけない事があるんだ」

「…なに?」

「今日は、柚海ゆずみ君とやり直す為に来たんじゃない。お別れをする為に来たんだ。

お母様の話はショックだったけど、それが無くても同じだったよ。ごめんね」

「そんな…そんなのないよっ!

『上手くやろうね』って、何度もメールで話し合ったのにっ! 嘘だったの?」

「…うん。柚海ゆずみ君とやり直す気が無いって言ったら、鶴子つるこさんは柚海ゆずみ君に会わせてくれなかったでしょう? 仕方なかった。私は、とにかく会いたかった。会って形のある謝罪をしたかったの」

「それがお金って事?」

「お金『も』だね。ちゃんと頭を下げたかったのに、させてくれないんだからさ。困った人だね、柚海ゆずみ君は。それにあのお金は、婚約を解消した社長からもらった『慰謝料』の一部なの。DVを隠す為の『口止め料』とも言うけど。私に負担はないから大丈夫だよ」

「それじゃあダメなんだよ! 誰かが代わりに払ったんじゃあダメなんだって! ハッキリ言って柚海ゆずみさんの借金は、私の貯金でも払えるんだ。でもそれじゃあ、彼の心に負い目が残るんだよ。払ってくれた人に、何としてでも恩を返そうとする。恩返しの為に生きていこうとする。そういう人なんだ。柚海ゆずみさんに必要なのはお金じゃなくて、彼を愛情いっぱいに支えてくれる人なんだよ!」

「でも柚海ゆずみ君とご家族は、私にヒドく傷つけられたんだからさ。あのお金はその対価だと思ってほしいの」

「あの、あのさ。柚海ゆずみさんのお金の受け取り方にショックを受けたと思う。私もゾッとするような笑い声だった。思い出しただけで背筋が震えるよ。でも、許してあげてほしい。柚海ゆずみさんは本当にお金で苦労したんだ。小学生ぐらいまでは、夕食があるかどうか分からない日もあったらしいよ。だから、大金を目の前にしたら、気が動転してあんな---」

鞠子まりこは、瑠季るきが話し終えるのを待たずに言った。

「あれ? 鶴子つるこさん。あなたもしかして、分かっていないの?」

「えっ…?」

「あのお金は自分の為に受け取ったんじゃない。私の為だよ。私に『形のある謝罪』をさせてくれたんだ。私の『心に刺さった十字架』を、取り除いてくれたんだよ。ヘタな悪役までやっちゃってさ。似合わないよね、アハハ」

「そっ、そうなの…?」

「私だって、柚海ゆずみ君の事を分かってるんだよ。やった! 私の勝ちぃ~!」

「ふざけないで! とにかく戻ってよ!」

「それはできないよ」

「なにが気になってるの? 柚海ゆずみさんをフッた事? お母さんの事? 時間をかければ、柚海ゆずみさんなら絶対に分かってくれる。そんな事、鞠子まりこさんが一番分かってるでしょう?」

「あっ、初めて名前で呼んでくれたね。嬉しいな」

「真面目に聞いてよっ!」

「…やり直せない理由を、ハッキリと言葉にするとしたら、

『私は罪を犯してしまった』から。だからもう、柚海ゆずみ君とは無理なんだよ」

「罪って…、大袈裟すぎるよ。経済力だって人間の魅力の一つだよ。お金持ちに惹かれたって、仕方ないじゃない。『貧乏な人』との恋愛しか、本当の愛は無いって言うの?」

「そうじゃなくてさ---」

「お母さんの件は、いつかきっと分かってくれる。柚海ゆずみさんなら絶対だよ」

「そうじゃないんだよ。柚海ゆずみ君やお母様が許すかどうかっていう話だけじゃないんだ」

「…じゃあなんなの?」

「鶴子さんは、柚海ゆずみ君が手話を出来るのを知ってる?」

「えっ? うん。好きなドラマでやってたから、マネしているウチに憶えたんでしょ?」

「へぇ、そんな風に伝わっているんだ」

「…違うの?」

「私の母親って、聾者ろうしゃなんだよね。耳が聞こえないんだ」

「あっ、そうなんだ。…あれ? という事は---」

「うん。私の母親…いや、私達親子の為に、一生懸命に勉強して覚えてくれたんだよね。短期間で、普通に会話ができるくらいまで。ただでさえ昼夜関係無く働いて忙しいのに、大変だったと思う。英語もそうだと思うけど、英会話教室に少し通ったくらいで、アメリカ人とペラペラ喋れるようにならないでしょ? でも、彼は独学でやってのけた。それがどれ程の努力だったか・どれ程の愛情だったか…。もう言葉にできないよ。その愛情を、鶴子つるこさんの言う通り、私は『無下に振り払った』んだよね」

鞠子まりこさん…」

「人間ってさ、失敗をする生き物だから罪を犯すよ。そして、きちんと償えば許されるんだと思う。でもね、『相手が許しても、自分が許してはいけない罪』ってあるんだよ。私はそれを、犯してしまったんだよね」

「そんな…」

「じゃあ、私行くから。色々とありがとうね、ルキちゃん」

「…え?」

柚海ゆずみ君が時々嬉しそうに、あなたの話をしていたからね。名前だけは知っていたよ。

当時中学生って事は、今は高校生ぐらい? それで柚海ゆずみ君の事に熱心な人といえば、鶴子つるこさんしかいないからね。会えて嬉しかった」

瑠季るきは、涙を流して懇願した。

「待って…待ってください! 行かないでください! 私、なんでもしますから! 今までのヒドイ態度を謝ります! お金もあるだけ差し上げます! だから柚海ゆずみさんを見捨てないでください! もう、辛そうに生きる柚海ゆずみさんを見たくないんです! 柚海ゆずみさんを救えるのは、鞠子まりこさんしかいないんです!」

瑠季るきはそう言うと、嗚咽をしながら泣きじゃくった。

見かねた鞠子まりこはハンカチを取り出し、子供を慰める母親のように、優しく涙を拭いた。

「そんなに泣かないで」

鞠子まりこさん、ごめんなさい。私みたいな疫病神のせいで、二人を苦しめてしまって」

「それって、結婚延期の事?」

「…はい」

「それは全然関係が無いよ。私が乗り越えられなかっただけの事だから。

それにルキちゃん、あなたは一つ勘違いをしているよ」

「えっ?」

「あなたは疫病神なんかじゃない。可愛い天使。幸せを運んでくる天使だよ」

「違いますよ! なにを言っているんですか!」

柚海ゆずみ君は、あなたと長い日々を一緒に過ごしたんでしょう? ルキちゃんから影響をたくさん受けたと思う。世の中を呪いたくなるような厳しい環境だったのに、彼があんなに良い人になったのは、あなたのおかげなの。そして私は、そんな柚海ゆずみくんと恋愛ができた。本当に幸せだったよ。ありがとう、ルキちゃん」

「…」

「今度はその幸せを、柚海ゆずみ君に届けてほしい。お願いできる?」

鞠子まりこさん…」

鞠子まりこ瑠季るきを抱きしめて、右手で瑠季るきの頭を優しく撫でた。

「ありがとう、私の可愛い天使。そして…さようなら」

お店で里桜りおは一人、ボーッとカウンター席で座っていた。柚海ゆずみはいない。

すると、ゆっくりと玄関のドアが開いた。瑠季るきが戻ってきたのだ。

その顔は憔悴しきっていた。

里桜りおは心配そうに言った。


「ナナ…ちゃん?」


瑠季るきに返事はない。

里桜りおは静かに言った。

柚海ゆずみ君なら出て行ったよ。借金を払ってくるって。一日でも早いほうが利子が少なくて済むからってさ。笑ってたよ。あんな上機嫌な柚海ゆずみ君、初めて見た。ハハハ…」

また瑠季るきは返事をしなかった。聞こえているかどうかも分からなかった。瑠季るきはトボトボと歩くと、店の中央辺りで立ち止まった。

誰もいない方を見て、ボソリと言った。

「行っちゃった…。柚海ゆずみさんの幸せが去って行った…。もうダメだ…」

里桜りおもかなり落胆していたが、瑠季るきの状態が心配になり、そばに近寄って言った。

「ナナちゃん、大丈夫?」

里桜りお瑠季るきの顔を見て戦慄した。まるで魚のような冷たい目。意識が無いかのような、焦点のあっていない視線。そして引きつった笑顔。もはや正気ではない。

瑠季るきは、里桜りおの視線に気が付くと言った。

里桜りおさん…。里桜りおさん? そうだ! まだ私には里桜りおさんがいたんだっ!」

「えっ?」

里桜りおさんやったね! 鞠子まりこさんはいなくなったよ! これで柚海ゆずみさんは里桜りおさんのモノだよ。良かったね! 二人で幸せになってね!」

「…鞠子まりこさんがダメになったから、次は私って事?」

「そうだよ! 別にいいよね! もう借金も無いよ! 万々歳じゃん! やったぁ!」

「あんた…あんたねぇ!」

里桜りおは平手打ちをしようと、右手を振り上げた。瑠季るきは目を閉じ、身構えた。

それを見た里桜りおはゆっくりと右手を降ろした。

そして諭すように瑠季るきに語りかけた。

「私ね、二人の話し合いが決裂してほしいと思ってた。鞠子まりこさんとの縁が壊れて、私を選んでほしいって。でも、あれは決裂じゃない。『円満に終わった』んだよね」

「はい…」

柚海ゆずみ君の借金は、私が代わりに払ってもいいと思ってた。それで彼と結ばれるんなら、安いもんだって。でも、あんな形でお金を受け取っている柚海ゆずみ君を見た途端、そんな気持ちは無くなっちゃった。人間って不思議…って言うか、勝手だよね」

「それは違うんです! あのお金は自分の為に受け取ったんじゃあ---」

鞠子まりこさんの為でしょう? 分かっているよ、そんなの。さっき冷静になって考えたら、気付く事ができたから」

「えっ…?」

「問題はお金じゃなくて、鞠子まりこさんに対する気持ちだよ。あんな悪役、誰がやりたがるの?みんなに軽蔑されてさ。でも柚海ゆずみ君はやったんだよね。鞠子まりこさんの助けになるなら、自分はどう思われても構わない。それが柚海ゆずみ君の本心なんだ。柚海ゆずみ君の気持ちは、鞠子まりこさんにしかないんだよ」

「でも、それじゃあ---」

「うん、私じゃあダメなんだろうね。というより、鞠子まりこさんしかダメなんだよ」

「じゃあ柚海ゆずみさんは、これから一人で生きていくんですか?」

「そうかもしれない。でも、それは本人が決める事だから。それで納得できる人生が歩めるなら、これ以上は私達にはなにも言えないよ」

「そんな! そんなの悲しすぎるよっ!」

「ナナちゃん、もういいんだよ。柚海ゆずみ君への贖罪の気持ちで頑張ってきたんだろうけど、もう十分すぎるくらいやったんだよ。これからは、自分の為に生きてね」

「そんな…。私のした事は、全部無駄だった。みんなを苦しめただけ…」

「そんな事ないよ。私はナナちゃんに出会えて嬉しかったよ。この数か月、本当に楽しかった。それに、鞠子まりこさんと柚海ゆずみ君を会わせる機会を作ったじゃない。それはナナちゃんしかできたかった事だよ。柚海ゆずみ君もどんな形であれ、ナナちゃんと再会できた。嬉しかったろうな。ナナちゃんが止まっていた歯車を動かしたんだ。みんな感謝してるよ、きっと」

里桜りおさん…」

「ナナちゃん、もうこの店は辞めた方がいい」

「えっ?」

「いても辛いだけでしょう? 無理しなくていいから」

「…いえ、います。約束通り、来年の三月まで務めます」

「なぜ?」

「私、本当は今日で辞めるつもりでいました。でも、里桜りおさん・鞠子まりこさん・柚海ゆずみさんを見て考えが変わりました。『居づらいから辞める』じゃあ、いけないと思うんです。そんな事をしたら、中学校の時の、甘ったれた私と変わりありません。アルバイトを頑張って、勉強を頑張って、海東大学へ入ります。大学でも頑張って、社会にでます。社会に出たら一生懸命働いて、色々な人の力になりたい。私が一生懸命に生きる事が、ご迷惑をかけた里桜りおさん・鞠子まりこさん、そして柚海ゆずみさんへの償いだと思うから」

「そう…分かったよ。でも、本当にあなたって、『小さな柚海ゆずみくん』だよね。

柚海ゆずみ君があなたの立場だったら、同じような事を言った気がするよ」

「アハハ…そうですかね」

「今の話、柚海ゆずみ君に言ったら泣いて喜ぶと思うけど…」

「ダメ! ダメ! ダメ! 恥ずかしいから絶対にダメですよ!」

「うん、じゃあ内緒だね」

里桜りお瑠季るきを抱きしめた。

「ナナちゃん。私達の為に、たくさん頑張ってくれてありがとう。

あなたは本当に、私の妹だよ」

里桜りおさん…。私の大好きなお姉さん…」

それから三人は、お互いの関係が悪くなるという事もなく、淡々と日々を過ごした。

里桜りお柚海ゆずみに対して特別な感情は無くなっていた。デートをするという事も無かった。

瑠季るき柚海ゆずみに脅迫するような態度はやめた。ただ、仕事以外の会話は一切しなかった。

三人は、一連の騒動を話し合う事もしなかった。


そして翌年の二月。まずは柚海ゆずみが退職した。今回は二年前のような失踪ではない。

商店街など、お世話になった人々へ挨拶へ回った。みんな別れを惜しんでくれたので、柚海ゆずみは嬉しかった。里桜りおと二人で、お店で軽い打ち上げをした。

世間話しかしなかったが、柚海ゆずみは円満にお店を去った。


三月。次に瑠季るきが退職した。柚海ゆずみ同様、お世話になった人々へ挨拶へ回り、

別れを惜しんだ。特に里桜りおには感謝しきりだった。

里桜りおは二人の後進を雇い、シオンの営業を通常通りに続けている。

そう、全ては元に戻ったのだった。

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