序章、暴力は陥落の始まり
《私は諦めない。あなたの幸せだけは、諦める訳にはいかないんだ》
二〇一七年八月。ここは大笠府にある小さな町。もう夕方で日も沈みそうだというのに、うだるような暑さは和らぐ事はない。
「穂紫 柚海」は、重い足取りで住宅街を歩いていた。身長は百七十センチで、やや細身の体格。青いTシャツとGパン姿の彼は、左手に食品が入ったスーパーのレジ袋を持っていた。袋からビールを一本取り出すと、道の端で二~三口で飲み干した。
柚海は酒が好きという訳ではない。いわゆるヤケ酒だ。
つい数時間前、婚約者から婚約破棄を通告されたのが原因だ。
多少はふらつきながらも、歩みは進めていた。柚海が目指しているのは、來々乃家だ。スーパーから徒歩十分、自宅からでは三分程度の近所にある。穂紫家の安アパートと違い、こちらは三階建ての高級な一戸建て住宅だ。
到着すると、ゆっくり扉を開いた。カギは掛かっていない。この日・この時間に柚海が来ることは決まっているので、予め解錠してある。
酔っている柚海は、気だるそうに言った。
「お邪魔します」
奥へと進み、台所でテーブルの上に、持ってきたスーパーの袋を面倒くさそうにドサッと置いた。さて、今から恒例の夕食作りを始める訳だが…柚海は違和感を感じていた。
薄暗いのだ。廊下も・台所も・リビングも。もうすぐ夜だというのに、灯りがついていない。人の気配もない。ひとまず、台所の電気を点けた。
これで周囲の様子は分かるが、相変わらず人の気配はない。その時、柚海の足に何かがコツンと触れた。何かと思えば空き缶だった。拾って見てみると、缶ビールの空き缶が二つあった。触ってみると、少し冷たさが残っている。まだ飲んだばかりだろうか? この來々乃家は、今日・この時間帯は、両親は仕事でいない。残るは娘の瑠季だけだ。
そう、未成年者しかいない家で、ビールの缶が転がっている。
「あいつ、まさか…!」
ゆっくりと階段を上って行く。二階の廊下にでると、ドア三つが有る。電気を点けようと壁のスイッチを探ろうとした前に、一番手前のドアが少し開いているのに気付いた。
ここは瑠季の部屋だ。ドアを『コンコン』と軽くノックをして、中にゆっくりと入った。
「瑠季、いるのか?」
入ってみると薄暗い。部屋を見渡すと、うずくまっている少女に気が付いた。
彼女の名は「來々乃 瑠季」。この家の一人娘で、高校一年生だ。
もうすぐ夜だというのに、まだ制服を着ていた。背中まで伸ばしている髪は、校則などお構いなしという感じの金髪だ。
柚海は部屋に入った瞬間から、猛烈な不快感を覚えていた。それは、この部屋に充満しているイヤな匂いだ。強烈な甘い匂い。強すぎて、香りが喉にへばりつく感じがある。
柚海は確信した。これは大麻だ。製薬会社の工場で働いている彼は、違法薬物の知識もあった。クンクンと部屋の匂いを嗅いだ。そして瑠季に近づくほど、その匂いは増してくる。
一番匂いを感じる場所。それは瑠季の足元だった。しゃがんで足元を調べると、
煙草のような棒状の物があった。拾って見ると、中に植物のような物が詰められていた。
間違いない。『こいつは大麻を吸っていたのだ』と、確信した。
その瞬間、柚海の頭の中で何かが切れた。血管なのか精神なのかは分からない。
一つ間違いなく言えるのは、普段の柚海とはかけ離れた精神状態になった。
左手で瑠季の胸元をつかみ、荒々しく強引に立たせた。
「俺は怒ったぞ…、俺は怒ったぞ! 來々乃瑠季ぃ―!」
近所中に聞こえるのではないかという声量で叫び、右手のひらを拳にして、強く握った。そして後ろに大きく振りかぶり---
ここで、柚海の記憶は途絶えてしまう。無理もなかった。すでに飲酒していたし、大麻の匂いを嗅いで、多少なりとも摂取してしまっていた。そして、『薬物をやる』という、不誠実極まりないな行為を目の当たりして、『プッツン』していた。
つまり、常軌を失っていたのだ。
●
柚海の記憶がハッキリとしたのは、翌日の昼間だ。気付けば、柚海は警察の取調室にいた。パイプ椅子に座っている。机を挟んだ向かい側に、スーツ姿の刑事がいる。
五十歳くらいだろうか。
「…で、殴った事は認めるのか?」
「はい。殴ったと思います」
「どんな風に?」
「左手で、アイツの…來々乃瑠季の胸元をつかみました。
右手の拳を振りかぶって、そして---」
「そして?」
「そこからは覚えていません」
「じゃあ、否定するという事か?」
「いえ、しません。殴りました」
「でも記憶は無いんだろ?」
「殴ったでいいです。殴った事にしてくれた方が、清々します」
「勝手な事を言ってくれるな。確かに、少女の左頬には殴打された跡があった。
恐らく一回だ。大きさは、男の握り拳ぐらだ」
刑事はため息をついて腕を組み、背を椅子に深くもたれかけた。
「ふーっ…。來々乃家に行った理由って、なんだよ?」
「アイツの食事を作りにです」
「食事? どうしてそんな事するんだ?」
「俺の母親とアイツの母親は、幼い時からの幼なじみで、親友なんです。年は、ウチの方が五歳くらい上みたいですが。アイツの両親は共働きで、ほとんど家にいなくて。それを見かねた俺の母親が、アイツの世話を焼くようになりました。俺の姉もですけどね」
「母親・姉・お前が三人で当番って事か? 親友の娘だからって、そこまでするかな?」
「最初はたまにだったんですけど、瑠季の母親が頼んだそうですよ。できるだけ来てほしいって。両親が家に帰るのは、だいた二十一~二十二時くらいでしたから。
夕食が作れないからお願いしたいって」
「晩飯なんて出前でもいいし、ハウスキーパーでも雇って作ってもらえばいいんじゃないのか? 來々乃家って、あの資産家で有名な家だろう? 一人くらい雇っても余裕だろう」
「じゃあ、刑事さん。あなたの子供に夕食を用意するとして、
出来合いの品と手作りの食事、選べるならどちらにします?」
「選べるなら手作りだな」
「食事だけじゃなくて、信用できる大人と一緒にいてほしかったんでしょうね」
「まあ、それは言えるな。それで、この食事作りは、いつからやってんだ?」
「今年で八~九年くらいかな」
「長いな! お前の母親は専業主婦か?」
「いえ、会社員でした。でも、過労で無理がたたって退職したんです。その頃、來々乃家から食事作りの相談をされたそうです。母親が引き受けたのは、親友の子供に良くしてあげたいという気持ちは、もちろんあったと思います。でも、一番大きかったのは---」
「お金か?」
「はい、具体的な金額は知りませんが、パートで働くよりは多く貰っていると思います。母親はもちろん、家族にとってもそれは大きかったです。
ウチには、まだまだ借金が残っていますし」
「確か父親が借金を残して、離婚したんだってな?」
「俺が十五歳の時にね。最低のDV野郎だったから、喜んだぐらいですけど。今どうしているかは知りません…というか、興味がありません。あの男のおかげで、僕は高校へはいけませんでしたから」
「姉は今、どうしてるんだ?」
「二年前に結婚して家を出ました。当初は結婚を渋りましてね。『家の事を放っておいて、自分だけ幸せになれない』と。俺と母親で、強引に押し切りました。家の犠牲になってほしくないですよ。なのに夫と一緒に協力して、ウチに仕送りをしてくれていました。本当に困った姉です。無理矢理に止めさせましたけど」
「借金か…。確かお前、休日はコンビニでアルバイトしているんだろう?
借金返済の為か? 休日無しって事か?」
「そうですけど。別に休日なんて要りませんよ、趣味も無いですし」
「うーん、分からんな」
「分からないって?」
「女子高生を握り拳で殴りつけたと聞いて、どれほど最低な奴かと想像していたんだ。しかし、お前の経歴や話を聞いていると、ピンとこない。本当に殴ったのか?」
「はい、殴りました」
「さっきは覚えてないって言ったくせに」
刑事は右手で頭をガリガリと掻いた。そして言った。
「結論から言うと、お前は不起訴になる」
「えっ? なぜ?」
「來々乃家が被害届を出さないからだよ。まあ、これは予想できた。
この辺りの名家としては、なるべく穏便に済ませたいだろうし。
だが、一番の決め手は、少女本人が殴られていないと言っているんだ」
「はっ? いやいや! 殴りましたよ!」
「覚えていないくせに」
「だって、左の頬にケガしているんですよね? 俺が殴った以外に考えられますか?」
「本人は、フラフラして倒れこんで、ソファの角にぶつけたと言っている」
「信じるんですか? ビールを飲んで、大麻を吸っていた奴の言葉ですよ」
「お前だってビールを飲んでいたんだろう? 大麻も多少なりとも摂取してしまった。しかもその数時間前、婚約者に婚約を破棄されていたらしいな。つまり、体も精神も不安定だった。自暴自棄になっていた。そんな奴の話だって、信頼できんぞ」
「アイツは、逮捕されたのですか?」
「それは、お前に答える必要は無いな」
「…」
「穂紫柚海。俺は今回の事件をこう見る。お前は幼い時から、父親の暴力と借金で苦しんできた。そして姉と母親の為に必死で働いてきた。毎日が戦いと言っても過言ではないお前は、素行の悪い來々乃瑠季に不満を抱いていた。裕福な暮らしができているのに、何をしているんだと。事件当日。婚約が破棄され、お前はついに自暴自棄になった。そんな時、來々乃瑠季の大麻を使っている姿を見た。酒が入っていたせいもあり、プッツンしてしまった。そんなトコロだろう? 違うか?」
「…なんとも言えません」
「穂紫、お前は釈放になるだろう。まだ取り調べはするがな」
「えっ、なぜですか?」
「お前は自分で殴ったかどうか、ハッキリしない。被害者家族は被害届を出さない。少女本人は殴られていないと言う。來々乃家に行くのは、毎週の事で決まっていたのだろう? じゃあ、不法侵入でもない」
「…」
「思い直せ、穂紫。前科が付いたら、お前だけの問題じゃあなくなるぞ。
母親や姉夫婦の立場はどうなる? やけになるんじゃない」
その後、柚海は釈放された。來々乃家は世間体を気にして、今回の件は穏便に済ませた。家に救急車や警察が来たのは、瑠季が階段で転んだという事にして、近所に説明した。
柚海の母親は大笠府を出て、娘夫婦と暮らす事になった。借金は穂紫家の負債だったが、柚海個人の名義に変更した。柚海の意思だった。
柚海も大笠府を出た。行き先は誰にも教えなかった。
母親と姉には、定期的に連絡を入れる事で納得してもらった。
柚海は思った。
自分は女を殴った。心底軽蔑している、自分の父親と同じ事をした。
もう、この街にいたくはない。
自分の事を誰も知らない場所を見つけて、静かに暮らしていこう。
そして借金を返し終えたら、母親を迎えにいこう。
こうして穂紫柚海は、人知れず姿を消した。




