09_上り下りの分かれ道
「ちょっと待ってくださいよ、ビョルンさん! 痛いですってば」
教会の石段まで降りたところで、ようやくビョルンさんから解放される。掴まれた部分はジンジンと熱を帯びていた。
「エルフって、実はバカ力なんですか? 小説ではフィジカルは弱いって書いてたのに!」
場を和ませようと言ってみたものの、ビョルンさんは険しい顔で俯いたまま、返事をしなかった。
「どうしてそんなに王都を毛嫌いするんです? それとも他に、王都に行ってはいけない理由でもあるんですか?」
ビョルンさんの顔を覗き込むと、彼は目を背けた。まるで私の顔を見たくないとでも言うように。これは彼が初めて私にみせた、心からの拒絶なのだと理解した。
「なぜ……貴様はそうまでして、元の世界への帰還に固執する」
「そんなの、家に帰りたいという本能的願望に決まってるじゃないですか。それに……」
そこで言葉が一瞬詰まる。そうだ、私が帰りたい理由は。
「……田舎に残してきた祖母が、心配なんです。長らく連絡をとっていないけれど、私がいなくなったら……」
母は私が幼い時に出ていったきり、一度も家に戻っていない。父は知らない。祖父は何年も前に他界している。その上、私まで帰ってこれなくなってしまったら、祖母は一人で生きていくことになってしまうじゃないか。
だけど、この怒りをビョルンさんにぶつけるのは筋違いだ。必死に言葉を飲み込んで、話を戻した。
「理由はともかく、私は帰りたいんです。帰らなきゃいけないんです」
今見えている道は、たったひとつだけ。しかもこの三日間でようやく掴んだ一筋の手掛かりなんだ。私はその道に縋るしかないのに。
「王都は……ダメだ。危険すぎる」
頑なにそう言うビョルンさん。私はそれに焦れて、子供のように声を荒らげた。その言葉がどれほど彼にとって冷たいものなのかも知らないで。
「じゃあどうしろって言うんですか。目標が見えているのに、わざわざ別の道を探せと?」
ビョルンさんは耳をへなっと下げる。何かを言いたげにしたけれど、苦しそうに咳をする。
「ビョルンさん?」
「いい。ただの咳だ」
それにしては、苦しそうな咳だった。彼の額には脂汗も滲んでいる。
しかしビョルンさんからは心配を寄せ付けないような気配を感じた。私たちはまだ出会って数日。全てを打ち明けられる間柄じゃない。
その隔たりが、今はとても冷たく感じた。
「そもそもだ。王都にそう簡単にたどり着けると思うのか? たとえ司祭の推薦があろうと、必ず問題は起こる。貴様が問題を起こした時、責任を取らされるのは誰だと思っている」
そこで初めて、長い前髪に隠れていたライムグリーンの瞳が見えた。その瞳は普段は凪のように静かなのに、今は激しい感情で燃えている。
それが怒りなのか敵意なのか分からない。だけど確かなのは、私が目の前のエルフを初めて『こわい』と思ったこと。私だって、恩人に対してそんなこと思いたくない。
でも、今の彼は全てを受け付けない、世界を拒絶しようとする危うさがあった。
後ずさって距離をとると、ビョルンさんは一歩足を踏み出す。彼に対する労りの言葉ではなく、別の言葉がナイフのように飛び出す。違う、こんなことを言いたい訳じゃないのに、恐怖と混乱で思考が上手くまとまらない。
「じゃあ、そんな理不尽なリスクを被るかもしれないのに、なぜこの街まで同行させてくれたんですか? リスクを回避したいのなら、あの山道で私を見捨てていればよかったでしょう?」
ビョルンさんは舌打ちを一つした。その苛立ちは私へ向いたものではなく、自分に向いているもののようにも見える。しかし彼は一呼吸置いて、冷たく言い放った。
「素性も分からぬ異邦人を放置できなかった。貴様が街で問題でも起こせば、このルーンデール、そして商人ギルドにまで影響が出るやもしれん」
『素性も分からぬ』と強調された言葉に、彼の本心を見た。彼は私を信用などしていない。当然だ。何年も生きてきたはずのエルフがたった数日会っただけの、しかも異世界から来た小娘に心を許すはずがない。
「そんな多大な責任を取らされるのは御免だ。だから、貴様が問題を起こさぬように監視していた。つまり俺にとって貴様は『危険因子』だ」
『危険因子』
思ってもみなかったその一言に、身体が凍りついた。
しかし彼の言葉は、あまりにも論理的で反論の余地がない。これまで見てきた彼の不器用な優しささえも、効率化のひとつだったのでは無いかとすら思えてくるほどに、彼の言葉は冷ややかだった。
「……そう、ですか。あなたは私を監視するつもりで、面倒を見てくださったんですね。それはさぞ面倒な仕事だったでしょう。お疲れ様でした」
今、自分がどんな顔をしているのか分からない。ちゃんと笑えていたらいいのだけれど。
「私のユニークスキルは効果不明です。私のステータスは平均以下。つまり私は、ただの一般人。危険因子ではないことが証明されたはずです」
足を後ろに踏み出し、ビョルンさんから一歩離れる。
「どうぞご心配なく。あなたはこれまで通り、仕事に戻ってください」
ビョルンさんの目が見開かれ、耳が下がる。言いすぎたと感じたのだろうか。だけどもう遅い。一度飛び出した言葉は、なかったことにはならない。
胸が、苦しい。
この短時間で、どうやら私はビョルンさんに入れこみすぎてしまったようだ。勝手に期待して、勝手に裏切られたと悲しむほどには、彼と過ごす時間を気に入ってしまっていたのだ。
これ以上、ここにいられない。いたくない。
だから私はビョルンさんに背を向けて、足早に石段を登り始めた。一刻も早く彼の前から消えたかった。
「おい、どこへ行く」
「先程のシスターさんが教えてくださった教会の書庫で、しばらく基礎的な情報収集をしてみようと思います」
「一人でどうにかなるとでも?」
「はい。これまでも一人で生きてきましたから」
そう、私はずっとそうしてきた。知らない街で、何年もひとりで、労働に、孤独に耐えてきた。だからここでだって、同じことだ。
それなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるんだろう。思っていた以上に、ビョルンさんの隣は居心地が良かったからかな。
私は深々と頭を下げて、最後の言葉を紡ぐ。
「短い間でしたが、本当にありがとうございました。このご恩を返せなかったこと、お許しください」
本心を話しているはずなのに、何故かビョルンさんの顔が見られない。滲む視界は知らないフリをした。
「どうかお元気で」
そして、再び教会の石段を上り始めた。とうとう雨が降り始め、石段に黒いシミを作る。あっという間に石段は黒く染まり、冷たい雨は私の肩を濡らす。ビョルンさんの声が聞こえた気がしたのは気のせいだ。彼が私を呼び止める必要なんて、どこにもない。
きっとそれは私の幻聴、私の願い。
彼に引き止めて欲しいなんて、わがままにも程がある。雨に濡れた階段を上がる度に振り返りたい衝動に駆られて、とうとう一度だけ振り返ってしまった。
最後に一言だけ。
「さようなら、ビョルンさん」
雨音にかき消されそうなほど、小さな声だった。
振り返った視線の先、石段の下に佇む彼は、雨に打たれるまま微動だにせず、ただこちらを見つめていた。前髪で表情は見えない。その肩がわずかに震えていたのは、冷たい雨のせいか、それとも……。
いいや、考えるのはやめよう。
足を踏み出し、また一歩ずつ階段をのぼる。もう私は振り返らなかった。




