14_閑話休題、ようやく訪れた静寂の夜
ビョルンさんが教会に来るきっかけにもなった、お客様からの差し入れ、もといクッキーとパンをいただくと、みるみるうちに元気になった。
……の、だが。
「まさかこんなにも負債があるなんて」
アニタさんから借りた赤字まみれの帳簿に、思わず声が漏れた。いや、確かに負債があるとは聞きましたよ。聞きましたけど、この薬草とポーションの仕入れ値と売値を見ても、どう計算しても黒字になる構造ではないでしょうよ。
想像以上の負債に、文字通り頭を抱えた。
「よく、今までアニタさんが許してくださいましたね…?」
「……目を瞑って貰っていた自覚は、ある」
ビョルンさんは私が帳簿を見ているあいだ、とても居心地悪そうに、ベッドサイドの椅子に座っていた。彼は長い指先で自分の眉間を軽く揉んでいる。
「この仕入れの甘さと、回転率の低さ、利益率どころか赤字前提の値段設定……これじゃもう、ただの慈善事業ですよ」
ビョルンさんの眉間のシワが濃くなる。
「そういえば金貨一万枚って、こちらの世界で言うとどれくらいの金額なんですか? まだ相場がわからなくて」
ビョルンさんは少し首を傾げて考える。そして。
「商人ギルドの一般的な商人の、生涯年収だな」
「しょ……生涯、年収」
と、宣った。日本円に換算すると。銅貨一枚が百円、銀貨一枚が千円、金貨一枚が一万円。ということは負債額は?
「い、一億!?」
なにをどうやってそうなったら、1億も負債を背負っちゃうんですか。ただの商売下手の域を超えてますよ。
「……」
ビョルンさんの顔を再度見つめる。
ビョルンさんがギャンブルに溺れたとは考えにくいし、なんの理由もなくここまで膨大な借金をふっかけるほどアニタさんが非道な人にも見えない。きっと私には言えない事情があるのだろうな。
「女に二言はありません。残り一枚、頑張りましょうねビョルンさん。生涯年収っていったって、二人で返せば半分ですからね!」
そう力強く言って見せると、ビョルンさんはどこか安心したように腕を組みながら息を吐いた。
「意気込むのは構わんが、今日のところはもう良いだろう」
ビョルンは私の手から帳簿を取り上げて、パタンと閉じた。
「病人は、食事をとって寝る時間だ」
彼の口調には、論理的なビジネスパートナーとしてではなく、私を気遣う保護者のような響きが混じっていた。
「わかりました。今日のところは、もう休みます」
「食事を貰ってくる。腹は減っているだろう」
ぐぅ、と腹の音がビョルンさんの言葉に応えるように鳴った。
「ずいぶん回復したようだな」
「もう!」
ビョルンさんの長い髪の間から覗いたライムグリーンの瞳は、楽しげに細められていた。
窓の外は夕焼けに染っていて、深い青色の夜の空が街を覆い始めていた。オレンジ色のランタンが照らす石畳と街並みの景色は、日本とは全く違うものだ。
それでもなんだかこの街を見ていると落ち着いた気持ちになるのは、この街にビョルンさんやアニタさんがいるからだろう。
入口の扉が開いて、ビョルンさんが皿を置いた盆を持って戻ってきた。その皿からはスパイスのかぐわしい香りがした。
「わぁ! 美味しそうな匂いですね! 今日のメニューはなんですか?」
「なにかの魚と、豆だ」
「……ぷっ! もうビョルンさん。あなた、食事に関心がないにも程がありますよ」
「栄養補給になるのなら、それでいい」
あまりにも端的な答えに、思わず笑ってしまう。差し出されたお皿には、たしかにお魚の切り身と煮込んだ豆が盛り付けられていた。さらに詳しく言えば、白身魚のハーブ煮込みと、甘辛く煮込んだレッドビーンズだ。
「いただきます!」
いつものように両手を合わせていると、ビョルンさんの不思議そうな目がこちらを見ていることに気がついた。
「えぇと、これは私の故郷の習慣でして。食材の命や、生産者、調理してくれた人への感謝を込めた言葉なんです」
「お前の故郷の祈りの言葉か」
「はい。エルフの習慣とは少し違いますかね」
ビョルンさんは少し考え込む。
「いや、森の恵みに感謝する儀式ならばある。だが食事のたびに祈りを捧げる習慣はなかった」
「やはり人間とエルフは違う文化があるんですね、興味深いです」
『興味深い』という言葉に、ビョルンさんは少し驚いたように目を丸めた。
「す、すみません。失礼でしたよね」
「いや。我々の生活に興味を持つ人間は殆どいなかっただけだ」
「そうなんですか?不思議ですね」
「異なる文化に対する興味より、恐怖の方が勝つ。この世界ではそれが普通だ」
「なるほど……」
たしかに、排他的な地域では異なる文化は忌避の対象となる。特に人間とエルフなんて種族は全く異なるだろうから、交わることが少なくても不思議じゃない。
ビョルンさんは皿を少しの間睨みつけ、先程私がしていたように両手を合わせる。そして。
「いただき、ます」
ぎこちなくそう言って、ようやくフォークに手を伸ばした。
「たまには違う文化に触れるのも、悪くない。ただし他に人間がいない時だけだ」
「十分です。ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
ビョルンさんはまた不機嫌そうな顔にもどって、白身魚を大きな口に放り込んだ。それに続くように私も白身魚の切り身を一口齧ってみる。
「んん……!」
白身魚の淡白な身と、じゅわっと溢れるバターとハーブの甘くもったりした風味がたまらない。少し皮が焦げているのも、善いアクセントになる。それに甘辛く煮た豆は食感が良くて、満足感がある。
「おいしいですね、ビョルンさん」
「……ん」
ビョルンさんも気に入ったのか、黙々と食べていた。部屋の中には二人が木皿をフォークでつつく音と、時折魚の皮を噛む咀嚼音だけが響く。その静寂は、なんとも心地よく感じた。
「ご馳走様でした。あ、これも先程と同じ感謝の言葉です」
「……ごちそうさま、でした」
またしてもビョルンさんは不器用ながら両手を合わせて、後に続くように唱えてくれた。
「皿を返してくる。お前はもう休め」
ビョルンさんが皿を持って立ち上がろうとした時、思わずこれまで押しとどめてきた疑問が口をついて出た。
「あ……そういえば、ビョルンさん」
「なんだ」
「エリザベスさんは……どう、なったんですか」
ビョルンの表情が、一瞬凍り付いた。昨日の激しい怒りが再び宿ったように、彼の瞳は鋭くなる。
「なぜ、それを気にする?」
「それは……あんなことはありましたけど、この一週間お世話になったことは事実ですし」
「それはお前を油断させるための演技だ。お前があの女を気にかける必要はない」
「そう、ですよね……」
あの優しかったエリザベスさんが豹変してしまった理由は分からない。あんな酷い目にあったが、彼女のことを心から恨むことは出来なかった。それに彼女が凶行に走ったには、きっとなにか理由があるはず。その理由に知らないふりをするのは、何となく腑に落ちなかった。
そんな私の様子を見て、ビョルンさんは深いため息をつく。
「実のところ、少し……やりすぎたんだ」
ビョルンは壁の方を向き、微かに声を詰まらせた。
「やりすぎた?」
「気絶だけさせるつもりだったが、まだ目を覚ましていないらしい。久しぶりに魔法を使ったので、出力を誤った」
「まっ、まさか、まさか殺……ッ!?」
「してない」
ビョルンさんはこちらに向き直り、即座に否定した。そんな訳あるか、と言外で否定され、安堵の息を吐く。
「よかったぁ。私のせいでビョルンさんが人殺しになるなんて、絶対嫌ですよ」
「さすがに、そこまで堕落するつもりはない」
こちらの言葉を聞くと、ビョルンさんは大きく息を吐き、緊張を緩めた。そして労わるように、柔らかな視線を向けながら続ける。
「とにかく、あのシスターが目を覚ませば連絡するよう、司祭には話している。お前は気にせず休めばいい」
「分かりました。ありがとうございます、ビョルンさん」
「……ったく、お人好しも大概にしろ。さもないとまた足元を掬われるぞ」
「肝に銘じます」
ビョルンさんはフン、と鼻を鳴らして、静かに部屋を出て行った。前まではその不器用さに萎縮してしまっていたが、今はその言葉の裏の優しさに触れることが出来て嬉しいとすら感じる自分がいた。




