12_悪夢と救世主
東京、都内某所の商社ビル。夕日に照らされたオフィスには、電話の無機質な音、キーボードを鳴らす規則的な音が響き、時折、社員たちの感情的な口論が轟いていた。
「この案件どうなってんの!?」
ああ、またか。オフィスに響く怒号はもう聞き飽きた。案の定、部長が頭を抱えながら私のデスクにやってくる。
「星宮さん。悪いんだけど、この企画書お願いできる? 出来れば明日の午後までに貰えるとありがたいんだけど」
私は渡された書類に目を通して、部長に笑みを返した。
「承知しました。本日中に提出しますね」
「助かるよ〜。ほんと、うちの部署は星宮さん頼みだ。他の奴らにも見習ってほしいね」
「恐縮です」
部長に愛想笑いを浮かべながら、今日もまた終電まで帰れないことを覚悟した。その前に一息つこうと思いたち、空になったマグカップとインスタントコーヒーの瓶を持って給湯室に向かう。
給湯室から、若い女性陣の甲高い声が聞こえる。同じ部署の人達だろう。
「また、うちの売上トップは星宮さんだって」
「星宮さんって、数字にがめついって噂の?」
「どうせ部長に媚び売ってんでしょ。あんな人、どこがいいんだろ」
「そういう趣味の人だっているんじゃない?」
キャハハ! と、耳障りな声が聞こえた。それでも言い返す勇気はなくて、私はただその場に立ちすくんでいる。何も出来ない自分が情けなかったけれど、声が震えてしまってうまく出てこない。
「うちの同期も言ってた。女なのに愛嬌がないし、生意気だってさ」
「ほんと。協調性ないよね」
それ以上聞いていられなくて、私は給湯室を後にする。女性社員たちは振り返って、また私の悪口に花を咲かせていた。
「……私だって」
私だって都会に来た時は、もっと華々しい活躍を想像していた。しかし、現実は数字だけで自らの存在価値を証明しなければならない社畜生活。田舎の祖母には、とてもじゃないけど言えないほどの惨状だ。
終業のベルが鳴り、オフィスの空気が少し緩む。定時退社など夢のまた夢。それでも、仕事が一区切りついたというのはささやかな達成感をもたらした。
しかし、そんな安息の時間もつかの間。営業課の責任者がドアを蹴り開けるようにして飛び込んでくる。そして動揺する社員たちに視線を向けて、一言言い放った。
「この会社は、今日限りで倒産します」
そのあとは大嵐に遭遇したようだった。社員の怒号と失望の声、喧騒の嵐がオフィス内に吹き荒れる。社員たちは、管理職に向かって執拗に責めたてていた。彼らに訴えたところで、倒産の事実は変わらないのに。
社員たちからの詰問に疲れた部長が、ふらふらと私のデスクにやってきた。
「星宮さん……大変なことになったね」
「一体何があったんですか? 急に倒産だなんて」
「社長、裏で多額の借金を抱えていたらしくてさ。会社の金を持ち逃げしたみたいなんだよ」
そんな倫理観が欠如した人間の元で、三年もこき使われていたのか、私は。倒産のショックと相まって体から力が抜ける。
「これからどうするかなぁ。あぁ、嫁さんになんていえば……」
部長はそう言ってスマートフォンを取り出した。そして頭を抱えながら、奥さんに電話をかけ始めた。その光景に、徐々に理解が追いついてくる。
これから、どうしよう?
自分の状況を理解した途端、目の前の景色から色が消えていく。私は上京してから今日まで、ひたすらに、がむしゃらに働いていた。この会社を辞めようと思ったことは何度もあったけれど、居場所を失うことが怖くて踏み出せなかった。
色の失った景色がガラガラと崩れていく。不安定な足元にひめいをあげそうになった。その時、誰かが私の名前を優しく呼んだ。何度も、何度も。
「ルナ」
目を開けると、そこには小麦畑が広がっていた。いや、ちがう。これはビョルンさんの髪だ。そして額に触れているのは、彼の大きくて温かな手のひらだろう。
「ビョ、ルン……さ……?」
「まだ毒は抜けきっていない。問題ない、もう少しすれば気分も良くなる」
低くて、優しい声。これは夢だろうか?
「夢じゃない。お前は生きている」
ビョルンさんはまるで幼い子供に言い聞かせるように、静かに言った。その手に擦り寄って、私は問いかけた。
「私……どう、したら……?」
ビョルンさんは少し困ったように息を吐く。そしてしばらく考え込んだあと、またゆっくりと私の頭を撫でた。
「責任は取る。お前は何も心配しなくていい。いいな、ルナ」
優しい声で名前を呼ばれて、涙が滲む。ビョルンさんが近くにいてくれるなら、夢の中で感じた心細さも、不安ももう感じない。ビョルンさんが戻ってきた理由はわからないけれど、今、彼は私のそばにいる。それだけで十分だった。
「あり、がとう……ビョルン、さん」
私は足元から這い上がってきた眠気に逆らえず、目を閉じる。最後にビョルンさんへの感謝だけは伝えたくて、何とか声を絞り出す。ビョルンさんが何か答えてくれたけれど、ぼんやりしてしまって聞こえない。次に目を覚ましたら、ビョルンさんに聞いてみよう。
「ゆっくり休め」
ビョルンさんの声を聞きながら、私は心地よい暗闇に意識を手放した。




