3-2.出鱈目に回る世界
――王都西側商業区『裏通り』
ギルド本部を後にしたハルトは、嫌いな人混みを避けるように裏通りに足を踏み入れた。薄暗く閑散としたその場所は、空気が重く湿っている。
ここはまるでハルトの心の写鏡のようだ。誰からも疎まれ、孤立し、冷えきった暗い心。だからなのか、この道は自分を理解してくれるような感覚があり、少し居心地の良さも感じていた。
人のいない裏通りにいれば、心の痛みは幾分か落ち着く。だが、一歩表に出れば、人々が自分に抱くのは「恐怖」と「危機感」。
それを拭うことは不可能だと、ハルトは誰より理解していた。だからこそ、マントと深いフードで身を覆い、自分を隠すことで周囲の安寧を保つ――それが、彼の選んだ生き方だった。
静かな路地を進んでいると、奥から細身の通行人が近づいてくる。マントにフードを深く被ったその姿は、まるで自分を見ているようだ。
(きっとこの人も僕みたいに、何かを抱えているんだ……自分を隠して生きるしかないって、やっぱり辛いよな)
本当は声をかけてお互いを励ましたい。でも、あの人と僕が交われば、生きづらい世の中を更に苦しいものにしてしまう。だからハルトはせめてもと――すれ違うだけの名も知らない人の幸福を祈って目を瞑った。
次に目を開けると、少し先に悲しくも馴染みのある光景が見えた。城壁の根元にしがみつくように並ぶ、崩れかけた家々。王都西の端――貧民街だ。
ここに入ると、表の通りとはまた違う劣等感や屈辱を感じる。貧民街で暮らしているのは金を持たぬ貧乏人、またはハルトのように問題を抱えた訳アリの人達。
シャルにはギルドの寮を勧められたが、他の冒険者に迷惑をかけたくない気持ちが勝り、自らここで暮らすことを選んだ。
辺りを見回すと、泥酔して路上でいびきをかく男、城壁にもたれて座る薄汚れた老人、虚ろな目で彷徨う女。生の光をほとんど感じない顔を見ると、自分の未来を見るようで辛くなり、俯いたまま地面だけを見て歩いた。
その時――この陰鬱な場所には似つかわしくない、不気味な高笑いが響いた。
「ぎゃははははははは!!」
「あーっははははは!!」
「……なんだ?」
酒に酔った連中か。だが、普段この辺りは小鳥の羽ばたきが聞こえるほど静まり返っている。非日常的な騒音に不快感と好奇心を呼び起こされ、ハルトは慎重な足運びで近づいた。物陰からそっと覗き込む――直後、目に入った光景の異様さに、血の気が引くのを感じた。
「ぎゃははははははは!ぎゃはっ!がはっ!うぉえーっ!!……ぎゃははは!!」
「あーはっはっはっはっ!きったなーい!!」
言葉にできないほど汚く、狂った男女。酒瓶やコップの類は見当たらないのに、泥酔したかのようにフラつき、幸せそうに笑い続けている。そのあまりの異常さに、ハルトは思わず息を詰め口を押さえた。
そこに突然、貧民街には似つかわしくない黒服の男が二人、音もなく現れた。
「えへぇー、誰だぁあんた達」
「こんな目立つ場所で騒ぎやがって。おい、連れていくぞ」
「おう」
短いやりとりの後、黒服達は手馴れた動きでニヤケ顔の男女を捕えた。何かを飲ませたように見える。そして口に布を噛ませ、そのまま大きな麻袋に押し込み、封をして閉じ込めた。
(人攫い?!)
直後、モゾモゾと動いていた袋が突然暴れだし、声にならない叫びが布越しに響く。
「……ッ! んむ゛ッ! ぅ゛ぐ……っ!!」
何が起きているのか分からないまま、ハルトの目前で進んでいく恐ろしい光景。今すぐ離れたい――でも、体が思うように動かない。全身から冷や汗が溢れ、心臓が早鐘のように打つ。
徐々に弱々しくなっていった麻袋を、黒服達は慣れた手つきで抱え、暗い路地裏に消えていった。
崩れるようにその場に座り込み、静まりかえった事後の空間。そこを呆然と見つめるハルト。その場には、ハルトの荒い息遣いだけが残っていた――。
『ガチャッ……ギィ』
何とか心を落ち着かせたハルトは、まだ少し震える手でドアノブを回してボロボロの建物の中に入った。割れた窓に板で無理やり蓋をして、今にも崩れそうな壁と天井を信用して暮らしている。
ハルトは硬いベッドに腰掛け、両手で顔を覆い、天を仰いだ。
そのまま慣性で倒れ込み、体の力を抜く。
「……この街で何が起きてるんだ」
今見た光景が、脳裏から離れない。あの袋の中の呻きが耳の奥に焼き付いて、吐き気がこみ上げる。
何か、とてつもなく嫌なことが、この街の奥底で動いている――そんな予感が胸を締め付けた。
だが、今はアンの母親を探すことに集中したい。今回の件は明日、ギルドに報告して判断を仰ぐことに決め、勢いよく体を起こした。
「……切り替えよう。グラ、出てきていいよ」
床に向けて右手をかざすとアビスゲートが開く。
勢いよく飛び出したグラは、しっぽを振ってハルトに擦り寄り、上機嫌に「ワン!」吠えた。硬い頭を撫でてやると、満足そうに伏せて身体を休ませ始めた。
そして体をずらして浅く座り直すと、次は敷布団の上に手をかざした。
「アン、君も出て大丈夫だよ」
再びアビスゲートが開くと、左翼を固定されたままのアンがペタンと座って浮かんできた。
「……ン、ココ、ドコ?」
「僕の家。ボロボロだけど清潔にはしてるから、我慢してね」
「ン、ワカッタ」
そういうと彼女は右肩を下にして、壁を見つめるようにベッドに横になった。翼を自由に動かせない上にまだ血が足りなくて身体がだるいのだろう。早く治療師を見つけてあげたいが、簡単に聞いてまわることもできず、やるせなさを感じる。
「……アン、君の母親を探すことになったんだ。絶対お母さんの元に帰してあげるからね。君の翼を治してくれる人も一緒に探そう」
アンは壁のひび割れを見つめたまま、小さくうなずく。
翼を動かせない彼女の表情には、隠せない痛みと、不安の影が潜んでいた。
部屋の薄暗い空気が、二人の間に重く漂う。
「それで、アンの知ってることを教えて欲しいんだ。君の住処に人間が来たことはある?」
「イチドダケ、チイサイトキ」
「それはどんな人だった?」
「キンパツノ、オンナノコ」
「金髪の少女……その人と話はした?」
「ウウン。デモ、ママガハナシシテタ」
ハルトはうなずき、さらに尋ねる。
「それじゃあ、お母さんがいなくなる前に何かなかった?強い魔物が出たとか、餌の動物が少なくなったとか」
「ナイ……トオモウ。ハルピュイア、イルカラ」
「ハルピュイア……ハーピィの上位種だね。確かにハルピュイアが勝てない魔物っていえば、超級以上か」
魔物には強さに基づいた等級分けが存在する。
無級、下級、中級、上級、超級、災害級、そして神話級。
ハーピィ達が人を襲うことは滅多にないが、戦闘能力から下級として扱われており、ハルピュイアも同じ理由で上級、もう一種のハーピィの上位種であるハイハーピィは中級とされている。
「……分かった。話してくれてありがとう。今食事を準備するから、少し待ってて」
その言葉を聞いたアンはモゾモゾと起き上がり、真っ直ぐにハルトの目を見た。
「ニクタベタイ」
「ワン!」
「はははっ!わかってるよ」
鶏肉を焼いて出すとグラもアンも皿に食いつくように食べだした。それを見ながら微笑むハルトも、フォークを手に取りゆっくりと食べ進めた。
ここにいるこの時間だけは――自分が嫌われ者であることを忘れられた。
――夕方、王都西側『商業区』
昨夜寝損なった分を取り戻すかのように、しっかり昼寝をしてしまったハルト。ふわりと伸びをしてからマントを羽織り、まだ眠るアンをグラに任せ、晩御飯の買い出しに家を出た。
商業区の道の端を歩きながら、単価の安い鶏肉を中心に今日は何を作ろうかと考える。
ふと、雑貨屋の入口に女性の横顔が印象的なシンボルマークを見つけた。風の精霊をモチーフにしたとされるディートリッヒ商会のマークだ。よく見るとここだけではない。他の店でもいたる所にこのマークが刻まれていて、ハルトは少し驚きと感心を覚えた。
「この辺りはほとんどがディートリッヒ商会の契約店か直営店ってことか。本当に幅広いんだな」
普段何気なく利用していた店もディートリッヒ商会の店ばかりだ。雑貨、野菜、お肉、アクセサリー、武具――これだけの品を扱っていてネームバリューに信頼もある。この商会の凄さを改めて実感した。
ふと、そんな大商会の副会長『クレア・ディートリッヒ』について、今朝方マスターに聞いたことを思い出した――。
「聞くところによると、先代の会長が大きくした商会を王家御用達にまで押し上げたのは彼女だそうだ」
「へぇー、商才があるんですね」
ハルトが関心していると、マスターは呆れたように首を振った。
「そんなレベルじゃねぇ。売れる商品を見つける鼻の良さ、どんな商談にも臆さない肝っ玉、そして売れる為の道筋を外さない計算高さから、巷では彼女を『商神の巫女』と呼ぶんだ」
――
「商神の巫女……ひとまず、明日会いに行ってみるか。……知らない人と話すのかぁ」
買い物を済ませたハルトは、漠然とした不安を感じながらも、明日の方針を考えながら帰路につく。アンの母親を探すこの物語には、様々な思惑と因果が絡みついていると知らずに――。