24-2.新たな旅の始まり
――夜、織り手の街『アメントリ』
テラコッタの街並みに、街灯の灯りが溶けるように落ちた。糸のように細い三日月のそばで、星々が静かに瞬き、夜空を銀の粉で飾ってる。
まだ微かに残る甘い染料の香りと、明るく輝く建物から広がる香辛料の匂いが混ざり合う。
店先で酒を片手に騒ぐ人々の奥。そこには、カウンターに並び座るダグラスとクレアの姿はあった。
「んーっ!生き返るー!!」
「高級上等な馬車に座っといてよく言う。俺はずっと木の板の上だぞ」
「あら?これくらいで音をあげちゃって、鍛えたりないんじゃないの?」
「バカ言うな、お前よりよっぽど鍛えてるぞ。オマケに散々歩き回って、腰も背中もバキバキだ」
上機嫌に酒を煽るクレアの隣で、ため息をこぼし頬杖をつくダグラス。そのまま小さく口を開き、傍に置かれた煮豆の山から一粒を摘んで放り込んだ。
その後も一行は順調に馬を走らせ、何の苦難もなく夕刻にはアメントリへたどり着いた。早々に宿の確保を済ませた後、彼らは各々で自由行動にうつっていった。
クレアと共に取引先へ挨拶に向かったダグラスは、渡したお土産以上にもらってしまった品を運ぶ羽目になってしまった。
何度も馬車との往復をさせられ、気がついた時には空気が冷え切り、空には満点の星。いいように使われた、とボヤきたくもなる。
「……そういえば」
刹那、クレアがおもむろに口を開き、喧騒のに飲まれそうなほど小さく呟く。
「ハルトくんと何かあった?」
そう言いながら、彼女はまた酒を口元に運ぶ。
言葉の意味を理解すると、泡の消えた酒の水面を見つめ、情けない顔をそこに写す。
胸の奥に隠した感情と記憶を呼び起こし、一度強く握った拳を柔らかく解いた。
「……ハルトは何でもよく知ってる、勘も鋭い。剣一本で俺の過去に気づたみたいだ」
隠していたかった秘密――帝国との関係、これまでの人生。それらが脳裏に流れ込み、心臓を優しく、静かに締め付ける。
「そっかぁ……。ハルトくんがフードに隠れちゃってたのはそういうことね。……ついにバレちゃうかぁ」
彼女の言葉はどこか他人事。視線は天井の隅に向かい、手には常に酒が握られている。
「……それで、あなたはどうしたいの?」
「……」
答えも言葉も見つからない。
『どうするべきか』と問われれば、正直に伝えるべきだと答えられる。だが、『どうしたいか』と言われると、また喉が締め付けられ、悩む心境すら言葉にできない。
「ハルトくんは優しいから、きっと隠し続けても仲間でいてくれる。オリバーの時だって、ずっとそうしてたから」
きっとそうなのだろう。
彼にとって誰かの秘密とは、胸の奥にある悲しい闇の一部にすぎない。例えそれが敵である事実だとしても、信頼を揺るがすほどの影響は与えない。だが――
「でもね、きっと待ってるんだと思うわ。自ら明かしてくれるのを」
「……あぁ。ハルトにはいつか話さないといけない。あいつはモンスターテイマーだと教えてくれたのに、俺だけ隠し続けるようなこと……」
口から出た言葉と裏腹に、覚悟を決められない心。見つめていたグラスから、冷たい結露が指に伝う。
「…………。もう少し考えてみて。あなたはこれから『どうしたいか』を」
直後、残っていた酒を一気に流し入れ、立ち上がるクレア。ダグラスの傍に数枚の紙幣を置くと「飲みすぎないでね」と愛らしいウインクを残し、先に店を出ていった。
「……どうしたいか」
ぬるくなった酒を一口飲み、喉を無理やりこじ開ける。それでも――小さな息しか出なかった。
――同刻、アメントリ中央の宿『ハルトの部屋』
窓の外には淡い灯りが滲み、冷たい空気に溶けている。飲んだくれる大人たちの笑い声が遠くで響く。その明るさに、胸の奥が少しだけ疼いた。
ハルトは椅子に深く腰を下ろし、手に持つコーヒーの香りを嗅ぐ。
足元にはグラが座り、白い身体に部屋の明かりを揺らめかせていた。
淡く輝く青い瞳の先、そこには、アンへ震える指先を伸ばすカーラの姿があった。
「っ――うっ……」
残り僅かな距離で腕は引かれ、指先の震えは肩に伝わる。人に近い見た目をしたアンなら慣れやすいかと思ったが、まだ先は長そうだ。
「無理はしないでいいよ。まだまだ時間はあるから」
「う……うん、ごめんなさい」
額に汗を滲ませながら、震える身体を自分で抱きしめるカーラ。アンを呼んでグラの隣に座らせると、彼女はようやく肩を落としてその場に崩れるように座り込んだ。
今目の前にある光景が、この世界で当たり前に生きる人間の感性なのだろう。魔物が怖い――当然だと思う。
だが、旅に同行するのが僕じゃなければ、彼女をこんな気持ちにさせることはなかった――。そう考えると、胸が僅かに締め付けられ、曇っていく表情を隠せず俯く。
「……カーラ、やっぱり僕……この旅から抜け――」
「それはダメ!!」
溢れかけた感情に、強い言葉が蓋をした。驚き顔を上げると、目尻に涙を溜めた茶色い瞳が睨みつけている。
「やっと……やっと会えたの!!私は!ずっとハルくんを探してた!!見つけたら私が味方でいるんだって……ずっと思ってた!!」
真っ直ぐに放たれた叫びが心に深く刺さる。彼女の頬に零れたものを見つめ、胸がいっそう強く締め付けられる。
「でも……私分かってなかった。ハルくんの味方になるって意気込んで、覚悟したつもりになって。いざ再会したら魔物が――ハルくんの大切な仲間を怖いだなんて……」
「カーラ……」
一粒一粒と落ちていた雫が、いつの間にか大粒の雨となり、止めどなく床に降り注ぐ。
その涙を止めようと出しかけた手は、罪悪感に負けて強く握りこまれた。彼女を慰める言葉も見つけられず、戸惑う口元は開いたり閉じたりを繰り返した。
刹那――その様子を見つめていたアンが何かを思いついたように声を上げた。
「あっ、ねぇカーラ、ここは触れル?」
少女はおもむろに右翼を胸布に滑り込ませ、わずかにずらして左胸の一部を見せる。
顔を逸らしたハルトに対し、涙を拭うことも忘れ、遠くからそれを見つめるカーラ。
そこには絆の証である赤い印がはっきりと刻み込まれていた。
「これ、ハルトにもらっタ」
「……契約印」
力強く頷くアン。少女の優しさに突き動かされ、カーラは床を這うように――ゆっくりと距離を縮める。
再び伸ばされた指先が震え始める。再び吹き出した汗が額から鼻筋に伝い、涙と混じる。
顔を逸らしてハルトと目があったアンは、母親譲りの穏やかな笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。
緊張と安らぎが惹かれ合うように、少しずつ近づいていく。
鼻先からポタリ――床で雫が跳ねた時――。
「……一歩、進めたネ」
アンの胸を指先で撫でる彼女の瞳には、淡い橙色の光を揺らす涙が溢れていた。安心か、喜びか、鼻を啜りながら、満面の笑みを浮かべて。
テイマーと魔物を繋げる絆の証――その印は今、人と魔物を繋げる証となった。
胸の奥から込み上げる熱が頬を緩ませる。目頭に伝わる前に、その景色をまた、瞳の奥に焼き付けた。
そしてカーラもまた、この手に触れる温もりを忘れることはないだろう。
「アン、ありがとう」
「うン。ハルトの魔力が、ここにあるかラ」
頭を撫でると少女は頬を赤らめ、恥ずかしそうに口角を上げた。アンもまた、勇気を出してくれたのだろう。
それからしばらく、カーラはアンの印に触れ続けていた。アンも落ち着いた表情でそれを見つめ、彼女が飽きるまでそこにいた。
夜も深け、寒さが指先が凍せ始めた頃。帰宅したクレアに急かされるようにそれぞれの部屋に戻り、眠りについた。
――翌日の早朝、アメントリ『馬車の停留地』
二日目の朝。空には薄らと雲がかかり、太陽は身を隠してしまっている。冷えきった強風が吹き付け、フードを被っていられない。
「……雨はまだ降らないだろうが、向かい風だな」
ダグラスが短い髪を靡かせ、白金の瞳で空を睨みつける。その姿がザバールの地下室で見た顔と重なり、根拠のない不安が脳裏にちらつく。
ふと、昨日は一番に来て馬車の準備をしていた人物がいないことに気がついた。
「カーラ、使用人さんは?」
「キオは今、水の補充に行っています」
「キオさんという方なのですね。そういえば、挨拶がまだでした」
クレアの言葉を聞き、意識するでもなく「確かに」と声が漏れた。
カーラの使用人『キオ』……トワイライト家に仕えているにしては、礼儀がやや疎かに感じた。
僅かな沈黙に懐疑を感じ取ったカーラは、それを釈明するように言葉を続けていく。
「キオは言葉が話せません。馬車の操縦に長けた人材として最近雇ったんです。本人が人との関わりを避けていて……ご無礼がありましたら、申し訳ございません」
「そうなのか……分かった。昼にコーヒーでも持って行くか」
「ダグラス、あんまり困らせちゃだめよ?」
「お心遣い、ありがとうございます」
顔をわずかに傾げ、笑顔を振りまいたカーラ。
しかし、この暴れる風の中でハルトは――彼の存在だけは信じることができずにいた。いや、旅が始まった時からずっと――。
――
「――はい。本日の夜、モアサナに到着します。――はい。問題はありません。必ず汚名を返してまいります……ノーランド様」




