24-1.新たな旅の始まり
――早朝、王都サフィーア『西門』
夜の名残をわずかに引きずった空の下、冷たい風が通り抜ける。吐く息は白くほどけ、指先のぬくもりを奪っていった。
王都の外れ、まだ陽が地平をかすめたばかりの西門で、ハルトとダグラスが荷を積み込んでいる。木箱の軋む音、革紐を締める音が、静まり返った石畳の街に淡く響いた。
カーラは両手を擦り合わせ、小さく肩を震わせた。冷気が頬を刺し、わずかに涙が滲む。
その様子に気づいたクレアが、外套の裾を揺らして近づく。
「カーラ様、先にご自身の馬車に乗られては?」
「い、いえ!皆さんが働いているのに、私だけ暖かい場所にはいけません」
「そう……ですか。では、ブランケットをお持ちしますので、もう少しお待ちください」
「あ、ありがとうございます」
クレアが柔らかく微笑み、馬車の影へと歩いていく。
その背を見送りながら、朝の光がゆっくりと王都の石壁を金色に染めはじめた。
やがて、荷を積み終えたハルトが額の汗を拭った。
「……よし、これで全部ですね」
「あぁ。助かった」
差し出された大きな手を握り、引っ張られるように荷台から降りる。
その一瞬の温もりに、仲間という存在の確かさを感じる。――きっと僕は、少しずつ変わり始めているのだろう。
「……うん、出発しよう!」
「あぁ、荷馬車は俺が引こう」
「おーけー!」
「うんっ!」
朝焼けがそれぞれの瞳を照らし、蹄と車輪が動き出す。
こうして迎えた新たな旅立ち。
二台の馬車は、金色に染まる道を――未来へと駆けていった。
――
舗装された道が土道に変わり、ひと月ほど前に見た景色が流れていく。
ほんの少し前のはずなのに、もう懐かしさを覚えてしまう。
荷馬車の後ろで腰を下ろし、揺れに身を任せる。外の景色に齧りつくアンと、隅で丸くなって眠るグラ。
ダグラスの操る手綱は安定していて、その心地よさに自分まで眠気を誘われそうだった。
クレアはカーラの使用人が操る高価な馬車に乗り、少し離れて後ろをついてきている。
今ごろは、女性同士の穏やかな会話に花を咲かせていることだろう。
冷たい朝を淡い光で照らしていた太陽は、いつの間にか高く昇り、昼前の強い陽射しで大地を包んでいた。
すでにランスホーンの縄張りは過ぎ、以前よりずっと速いペースで進んでいるのがわかる。
だが、旅路はまだ長い。
十日をかけて、芸能の街――『ウォパール』を目指すことになる。
見慣れた土道も、広がる平原も――この旅では、まだ『始まりの道』にすぎない
ふと、ダグラスの背中を見て、ある違和感に気づいた。
「あれ?ダグラス、剣新しくしたの?すごい綺麗な色だね」
「ん?あぁ、いや。これは昔親から貰ったのだ。あまり好きじゃないんだが、これが一番上等でな。何があるか分からない遠征だ。鈍らじゃ心許ないだろ?」
彼の背にある大剣は、むき出しになった白銀の刀身が革製のベルトで固定されていた。真っ青な玉が飾られた鍔から雷かひびのような模様が走っている。
以前使っていた両刃の鋼剣ではない。白銀の大きな片刃剣。
「もしかして……帝国の――わっ!」
「うワっ!」
その瞬間、車輪が段差に乗り上げ、一度だけ高く跳ねた。拍子に体制を崩したハルトとアンが、驚きの声を上げて身体を強ばらせる。
「悪い!大丈夫か?」
「いってて、だ、大丈夫」
「うぅ、舌噛んラ」
「す、すまん。もうすぐ昼休憩だ。その時クレアに見てもらおう」
焦ったように声を荒らげたダグラス。彼が再び進路に目線を向けると、広い肩が深く息を吐いた。
その姿に敏感に反応した胸を撫でる。軽く首を振ってモヤを晴らそうとしたが、今は口を噤んだ。
視線を落とした先で、傍らに寝かせた長剣の柄が包んだ布からはみ出ている。
彼もまた――何かを隠して生きているんだろうか。
外していたフードを深く被り直し、木箱に背をもたれて座りなおす。硬い床の質感が貧民街にいた頃の自分を思い出させ、感傷に浸るようにゆっくりと目を瞑った。
――同日の昼過ぎ、アメントリ郊外『糸の森』深部
蝶の羽ばたきほどのそよ風が、木々の隙間を縫って冷たい空気を動かす。枝先の葉すら揺れない静寂の中、乾いた土を踏む音と荒い息遣いがそこにあった。
「はぁ……はぁ……、んぐっ」
上等なローブに蜘蛛の巣を纏い、泥で汚れた腰の辺りから、留まりつづけていた枯葉がひらりと落ちる。
目尻から頬を伝う冷たい汗。喉の乾きに唾を飲み込みながらも、休まず歩き続ける。
冒険者でもないあたしが、まさか一人で森を歩くなんて、思ってもいなかった。魔物の脅威は身に染みて分かっているくせに、復讐の為にこんなことをするなんて――。
鋭く尖った目を一層つりあげ、眉間に深い皺を作る女――ダリア。
マントの下に着ていたのはいつもの制服ではなく、黒い長ズボンに白いオフショルダー。そして血のような赤の胸丈の上着に袖を通し、一歩進む度に裾が顔を覗かせる。
木の虚や洞窟、時には地面に転がり夜を過ごし、ひたすらにまっすぐ西を目指してきた。
アメントリから先を道なりに進むと、かなりの遠回りを強いられる。アイツが商会の連中と馬車で来るのなら、この森を突っ切らなければあの町に先にたどり着くことはできない。
「はぁ、はぁ……ギリッ」
顔を思い出しただけで苛立ちが沸き上がり、吐き出す息を噛み切って軋ませた。それと共に、あの夜の惨状が脳裏に映される――。
『ケハン!ダリア!――逃げてぇぇぇぇ!!』
『ママ!!パパ!!』
『ダリア!!来るな!逃げろ!!!』
『父さん!!母さぁぁぁぁぁん!!』
『――お前たちが……お前たちのせいで!!くそがぁぁぁぁぁぁぁ!』
グシャッ――。
なにか柔らかいものを踏み抜き、思わず肩を跳ねさせ固まった。足元にあったのは――頭を潰され痙攣した、小さなグリーンワーム。この季節にこの大きさ。もう死を待つだけだった、成虫になれない個体だ。
「……魔物を嫌う私があんたに詳しくなるなんて、どんな皮肉かしらね」
持ち上げた足に着いた青い体液に虫酸が走る。まだ小さく動き続ける身体に吐き気がする。
やがて、再び進み始めた彼女の背後には――原型を留めぬ白い挽肉が、青い水溜まりの中心に落ちていた。
「兄さん、パパ、ママ……。絶対に許さない……『モンスターテイマー』」




