18-1.覚悟の先に見えるもの
――夕刻、王都サフィーア中央区『ディートリッヒ商会本部』
空は曇天。遠くは僅かに赤みを帯びていたが、大地は既に暗闇に飲まれ、点々と街灯が灯りはじめた。湿気をまとった冷たい風がマントを煽り、激しい嵐を予感させる。
フードが飛ばないよう押さえながら、やっとの思いでディートリッヒ商会の本部へたどり着いたハルト。
以前のように躊躇する余裕もなく大きなガラス扉を開く。中には数人の商会員がいたが、一番に気づいて駆けつけたのは、あの日の受付係の男だった。
「ハルト様!お待ちしておりました。以前のご無礼、大変申し訳ございません」
「い、いえ!頭を上げてください」
屈託のない謝罪の言葉に、どう返すべきか言葉を失った。
確かに彼が過去に放った言葉は、僕を深く傷つけた。だが、それは彼なりの正義で、仕事だったと今は理解している。
怒りに縛られるよりも、今は前進を選ぶべきだ――そう自分に言い聞かせ、静かに息を整えた。
「本当に大丈夫です。あなたの立場であれば、当然のことをしたんですから。気にしていません」
「……ありがとうございます」
ゆっくりと顔を上げた彼の拳は、かすかに震えていた。
「……ケハンさんはいらっしゃいますか?」
「はい。個室へご案内します」
彼に続いて歩き始める。その背中を見つめながら、ハルトは僅かに微笑んだ。
――変わってくれる人もいるんだ。そう心を動かされながら。
通されたのは以前と同じ部屋だった。相変わらず豪華な装飾が目を見張り、ソファはフカフカで落ち着かない。
あの日、居心地の悪さと屈辱に押し潰されそうになった記憶が胸をよぎる。――それでも、今は同じ場所に立っている自分が、少しだけ違って見えた。
室内の細かな装飾に目を凝らしていると、ノック音が二回響いた後、少し待って扉が開かれた。
「お待たせ致しました」
「ケハンさん、お久しぶりです」
「はい。おかえりをお待ちしておりました」
ケハンは軽く会釈をすると、以前と同じ構図で目の前に座り、まっすぐ目を見て口を開いた。
「それで……クレア副会長は?」
「はい、無事です。事情があって場所は話せませんが、安全な場所に隠れています」
そう言いながら、ハルトは手に持っていた一枚の紙をテーブルに置いた。少し鼓動を早めながら指先で滑らせ、ケハンに差し出す。
それを開いたケハンの眉が僅かに動く。
『副会長に同行した二人の商会員が裏切り者でした。他にも仲間がいるかもしれません。調査してください』
そう書いた紙を凝視して固まったケハン。――数秒後、目を閉じて長く息を吐き出すと、中指で軽く眼鏡を持ち上げた。
「わかりました。できる限りの協力はさせていただきます。何かあればご相談ください。……副会長を、よろしくお願いします」
「……はい。必ず助けます」
頭を上げた彼と目線を交わす。眼鏡越しに伝わる怒りや覚悟は、ハルトの心をざわつかせた。
「では、今日は失礼します」
「はい。またいつでもお越しください」
その言葉を背に受けながら、ハルトは静かに部屋を出た。胸の奥には、わずかな安堵と、それを凌駕する緊張を残していた。
――
僅か十分程度の会談だったが、商会を出た時には夜が訪れていた。強風に僅かな雨が混ざり、街灯に照らされながら地に落ちる。
風を避けるように身を縮め、フードの端を引いて走り出す。険しく眉を寄せ、唇を固く結んだまま石畳を蹴った。
石畳を踏みしめ、濡れた街灯の光を背に路地を抜ける。雨に追われるように歩みを速め、やがて見慣れた扉の前へとたどり着いた。
勢いよく開き、ボロボロの我が家に飛び込む。力を込めてドアノブを引くと、直後、外の嵐が一層大きく唸りを上げた。
「ふぅ、今夜は荒れそうだな……。グラ、アン、ステラ、出てきて」
狭い部屋で右手をかざす。漆黒の渦が三つ現れ、仲間たちはゆっくりと浮き上がった。
「ワン!」
「ん、おかえリ」
「ハルトさん、お疲れ様です」
「ありがとう、ただいま。昨日からずっと出してあげられなくてごめんね」
フードを外しながら謝るハルトに、ステラは穏やかに笑いかけた。足元に擦り寄るグラの硬い頭を撫でる。
そのまま背中の荷物を下ろし、ベッドに腰掛けようと目線を上げる。だが、そこは既にアンが寝転がり、大半を陣取ってしまっていた。
「……まぁ、いいか」
そう呟いた時、ステラが辺りをキョロキョロと見回しているのに気がついた。
「どうしたの?」
「いえ……ここがハルトさんの家なんですね」
「……うん、ボロボロでしょ?」
昨夜は疲れてすぐに寝てしまい、彼女にここを見せるのは初めてだった。
窓に貼り付けた板の隙間から風が鳴り、天井からは雨水が滴る。ひび割れた壁が僅かに揺れて、崩れるのではないかと危機感を煽った。
「えぇ……。でも、綺麗に使ってるんですね。ハルトさんの性格の良さがよく見えます」
「それはちょっと恥ずかしいな……。でも、ありがとう」
彼女は柔らかい表情で頷き、アンの隣にそっと腰を下ろした。硬いベッドが軽く軋み、一瞬心臓が跳ねた。
なんとか堪えてくれているのにホッとしてから、疲れた重い足で調理場に向かう。
「……さて、今日は鶏肉でいいかな?」
「ん」
「手伝いましょうか?」
「ううん、アンとゆっくりしてて」
ステラの暖かい言葉に触れて、僅かに寒さが和らいだ気がした。
思い返すと、アンが初めてここに来たあの日も、翼が折れた少女の為に鶏肉を焼いた。
それから旅が始まり、楽しいこと、辛いこと、苦しいこと、様々なことを経験した。
そして、クレアさんとステラを助け、アンの翼も治った今、ここでまた緩やかな時の中で鶏肉を焼いている。
――なんて幸せなんだろう。そう気づいた瞬間、この空間がどんな屋敷よりも贅沢で、特別なものに思えた。
「ママ、寒くなイ?」
「大丈夫よ。ありがとう」
「……ふっ」
やっぱり賑やかだといいな。――自分が嫌われ者だと忘れられる。




