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【第一章完結】嫌われ者行進曲  作者: 田 電々
第一章『嫌われ者の少年と翼の少女』
38/55

18-1.覚悟の先に見えるもの

――夕刻、王都サフィーア中央区『ディートリッヒ商会本部』


 空は曇天。遠くは僅かに赤みを帯びていたが、大地は既に暗闇に飲まれ、点々と街灯が灯りはじめた。湿気をまとった冷たい風がマントを煽り、激しい嵐を予感させる。


 フードが飛ばないよう押さえながら、やっとの思いでディートリッヒ商会の本部へたどり着いたハルト。

 以前のように躊躇する余裕もなく大きなガラス扉を開く。中には数人の商会員がいたが、一番に気づいて駆けつけたのは、あの日の受付係の男だった。


「ハルト様!お待ちしておりました。以前のご無礼、大変申し訳ございません」

「い、いえ!頭を上げてください」


 屈託のない謝罪の言葉に、どう返すべきか言葉を失った。

 確かに彼が過去に放った言葉は、僕を深く傷つけた。だが、それは彼なりの正義で、仕事だったと今は理解している。

 怒りに縛られるよりも、今は前進を選ぶべきだ――そう自分に言い聞かせ、静かに息を整えた。


「本当に大丈夫です。あなたの立場であれば、当然のことをしたんですから。気にしていません」

「……ありがとうございます」


 ゆっくりと顔を上げた彼の拳は、かすかに震えていた。


「……ケハンさんはいらっしゃいますか?」

「はい。個室へご案内します」


 彼に続いて歩き始める。その背中を見つめながら、ハルトは僅かに微笑んだ。

 ――変わってくれる人もいるんだ。そう心を動かされながら。


 通されたのは以前と同じ部屋だった。相変わらず豪華な装飾が目を見張り、ソファはフカフカで落ち着かない。


 あの日、居心地の悪さと屈辱に押し潰されそうになった記憶が胸をよぎる。――それでも、今は同じ場所に立っている自分が、少しだけ違って見えた。


 室内の細かな装飾に目を凝らしていると、ノック音が二回響いた後、少し待って扉が開かれた。


「お待たせ致しました」

「ケハンさん、お久しぶりです」

「はい。おかえりをお待ちしておりました」


 ケハンは軽く会釈をすると、以前と同じ構図で目の前に座り、まっすぐ目を見て口を開いた。


「それで……クレア副会長は?」

「はい、無事です。事情があって場所は話せませんが、安全な場所に隠れています」


 そう言いながら、ハルトは手に持っていた一枚の紙をテーブルに置いた。少し鼓動を早めながら指先で滑らせ、ケハンに差し出す。

 それを開いたケハンの眉が僅かに動く。


『副会長に同行した二人の商会員が裏切り者でした。他にも仲間がいるかもしれません。調査してください』


 そう書いた紙を凝視して固まったケハン。――数秒後、目を閉じて長く息を吐き出すと、中指で軽く眼鏡を持ち上げた。


「わかりました。できる限りの協力はさせていただきます。何かあればご相談ください。……副会長を、よろしくお願いします」

「……はい。必ず助けます」


 頭を上げた彼と目線を交わす。眼鏡越しに伝わる怒りや覚悟は、ハルトの心をざわつかせた。


「では、今日は失礼します」

「はい。またいつでもお越しください」


 その言葉を背に受けながら、ハルトは静かに部屋を出た。胸の奥には、わずかな安堵と、それを凌駕する緊張を残していた。


――


 僅か十分程度の会談だったが、商会を出た時には夜が訪れていた。強風に僅かな雨が混ざり、街灯に照らされながら地に落ちる。


 風を避けるように身を縮め、フードの端を引いて走り出す。険しく眉を寄せ、唇を固く結んだまま石畳を蹴った。


 石畳を踏みしめ、濡れた街灯の光を背に路地を抜ける。雨に追われるように歩みを速め、やがて見慣れた扉の前へとたどり着いた。


 勢いよく開き、ボロボロの我が家に飛び込む。力を込めてドアノブを引くと、直後、外の嵐が一層大きく唸りを上げた。


「ふぅ、今夜は荒れそうだな……。グラ、アン、ステラ、出てきて」


 狭い部屋で右手をかざす。漆黒の渦が三つ現れ、仲間たちはゆっくりと浮き上がった。


「ワン!」

「ん、おかえリ」

「ハルトさん、お疲れ様です」

「ありがとう、ただいま。昨日からずっと出してあげられなくてごめんね」


 フードを外しながら謝るハルトに、ステラは穏やかに笑いかけた。足元に擦り寄るグラの硬い頭を撫でる。

 そのまま背中の荷物を下ろし、ベッドに腰掛けようと目線を上げる。だが、そこは既にアンが寝転がり、大半を陣取ってしまっていた。


「……まぁ、いいか」


 そう呟いた時、ステラが辺りをキョロキョロと見回しているのに気がついた。


「どうしたの?」

「いえ……ここがハルトさんの家なんですね」

「……うん、ボロボロでしょ?」


 昨夜は疲れてすぐに寝てしまい、彼女にここを見せるのは初めてだった。

 窓に貼り付けた板の隙間から風が鳴り、天井からは雨水が滴る。ひび割れた壁が僅かに揺れて、崩れるのではないかと危機感を煽った。


「えぇ……。でも、綺麗に使ってるんですね。ハルトさんの性格の良さがよく見えます」

「それはちょっと恥ずかしいな……。でも、ありがとう」


 彼女は柔らかい表情で頷き、アンの隣にそっと腰を下ろした。硬いベッドが軽く軋み、一瞬心臓が跳ねた。

 なんとか堪えてくれているのにホッとしてから、疲れた重い足で調理場に向かう。


「……さて、今日は鶏肉でいいかな?」

「ん」

「手伝いましょうか?」

「ううん、アンとゆっくりしてて」


 ステラの暖かい言葉に触れて、僅かに寒さが和らいだ気がした。


 思い返すと、アンが初めてここに来たあの日も、翼が折れた少女の為に鶏肉を焼いた。

 それから旅が始まり、楽しいこと、辛いこと、苦しいこと、様々なことを経験した。

 そして、クレアさんとステラを助け、アンの翼も治った今、ここでまた緩やかな時の中で鶏肉を焼いている。


 ――なんて幸せなんだろう。そう気づいた瞬間、この空間がどんな屋敷よりも贅沢で、特別なものに思えた。


「ママ、寒くなイ?」

「大丈夫よ。ありがとう」

「……ふっ」


 やっぱり賑やかだといいな。――自分が嫌われ者だと忘れられる。

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