14-1.絆を刻むとき
――朝、トルマン大平原の南『山の中』
少し強い風が枝葉を揺らした。葉の擦れる音と風きり音が不安な心を煽る。木々の間にある吸い込まれそうな闇。その手前に転がった無惨な姿の三人に木漏れ日が差し込み、土と混じった血の匂いが漂っていた。
「こいつらもしかして……山賊か?」
ダグラスがそう口にしながらゆっくり近づく。追って入るオリバーがその身なりを一瞥し、無表情で頷いた。
ハルトはその傷を見つめる。吐き気がするほどズタボロで、眉間に皺を寄せて目を細めた。だが、確かな特徴がある。その決め手に、死体の周りにいくつもの白い毛が抜け落ちていた。
「……銀狼の群れ――『シルバーウルフ』だ」
「ここまでテリトリーを広げたのか。厄介だな」
先日、はぐれ者と一匹対峙した時は難なく倒せた。だけど今回は明らかに群れの仕業だ。
「……シルバーウルフの群れは雄が十体くらいに雌は三十体くらい。はぐれ者と違ってリーダー格がいるから……」
「あぁ。仲間と意志を共有、強制する能力『同調』と、仲間の魔力を活性化させるユニーク魔法『アクティブマナ』だな。かち合ったらただの野犬との戦いじゃ済まない。オリバー、どうする?」
ダグラスの問にオリバーは死体を凝視しながら、表情を変えずに顎に触れた。
リーダーの配下にいる個体の強さは恐ろしく、走りははぐれ者の倍速く、噛み付く力は鉄の鎧でも食い破り、膨れ上がった筋肉は剣も弾く。
肌を切る風が正面から吹き付け、木々を揺らしながら、山から早く出ろと告げているかのようだった。
やがて、闇の中を見つめたオリバーが口を開いた。
「急いで離れよう」
「だね」
「わかった」
ハルト達は木々の間から道に戻り、それぞれ馬車に近づいた。その時――慌てたようにステラが荷台から顔をだした。
「ハルトさん!敵が山から押し寄せてきます!すごい速さで!」
「?!まずい!ダグラス!オリバーさん!」
切迫した面持ちで叫ぶハルトに、二人は咄嗟に剣を抜いた。馬車からグラとアンも降りてきて、ステラはクレアを守るように翼を広げる。
「ステラ!方向は?!」
「山の上からです!」
「みんな構えろ!!」
その刹那――恐ろしいほど膨れ上がった脚筋で地を蹴り、一匹の狼がハルト目掛けて飛び出した。
空気が震え、音が遠のく。身体が重くなり、視界のすべてが引き伸ばされたように遅く映る。胸が圧迫され、耳の奥では鼓動だけが異様に大きく響いた。
迫る牙、荒い息、土を裂く爪。狼の吐息が顔を濡らす。
大口で顔に食らいつこうという瞬間、抜いた刃が牙とぶつかり、硬く鈍い音を鳴らした。衝撃に押され、腕が痺れる。辛うじて身を捻ってかわすも、狼の体躯は風のように宙を舞い、すぐに土を蹴って体勢を立て直す。
「ハルト!」
「大丈夫!集中して!」
アンの心配する声に反応しながら、視線は狼から外さない。すぐ背後にグラが回り込み、牙を剥いて低く唸り声を上げた。
正面からの脅威に対し、一人と一匹は自然に背を寄せる。シルバーウルフの四肢が地を抉り、再び飛びかかろうと身を沈めた。
次は隣で金属を叩く音が響く。大剣の平で弾き飛ばしたダグラス。敵の勢いで僅かに足元に土煙が舞った。
直後、ハルトの前で構えたシルバーウルフが、地を蹴り高く飛び上がる。再びの強襲を躱しながら肋にナイフを突き立てた瞬間――
『バキッ』
手元で歪な音をならし、足元に刃がこぼれ落ちた。
咄嗟に手で押しやりバランスを崩した狼は、薮に立つ木の幹を揺らし、葉や木の実と共に地面に落ちる。
「くっ……」
柄だけになったナイフを捨てて拳を構えるが、自分でも虚しいと分かっていた。
敵が起き上がり身体を震わせると、額に汗が滲む。胸を叩くような鼓動が耳の奥で反響し、呼吸は勝手に浅くなっていく。視界の端が狭まり、銀の毛並みしか目に入らない。
隣でグラが地鳴りのような唸り声をあげ、シルバーウルフを鋭く威嚇する。馬が今にも暴れそうなほど落ち着かず、蹄の音が鳴り止まない。
耳に届く全ての音が、ハルトの死への恐怖を膨張させる。――その時、山の奥が騒がしくなり、枯葉を踏む足音が何重にも鳴り響いた。空気が揺れ鼓膜に不快感を与える。その中に荒々しい吐息や空を食らう声が聞こえてくる。
シルバーウルフの群れは平均四十体。その音がまるで死神の足音のように聞こえた。
「くるぞー!!」
ダグラスが再び声を張り上げた瞬間――再び景色が停滞し、木々の合間から何十という狼の顔が連なった。あの夜の戦いとは比べ物にならないほど、圧倒的な物量差。
ハルトの……いや、その場にいる全員の脳裏に『死』という恐怖が刻まれた――ただ一人を除いて。
『――パスン……』
一瞬、目の前を黒い影か通り過ぎた。直後、右側で置き去りにされた外套が地面に落ちる。次の瞬間、目の前を覆う全ての銀狼の首が僅かに傾き、青い血飛沫が飛び散った。
一秒にも満たない出来事。奴らの顔がこちらに届く頃には、既に身体と分離していた。
「……何が起きて――」
そう呟いた時、左から普段寡黙な男が声を上げた。
「ハルト!馬に乗れ!暴れさせるな!」
「オリバーさん!――はい!」
ハルトは直接馬の背中に乗り、手綱を握った。青く染まった地面を踏み鳴らす馬を、撫でながら落ち着かせていく。
その瞬間から、目の前の光景はまるで変わり果てた。襲いかかるはずだった銀狼は、次の瞬間には地面に伏せ、青い血が飛び散っている。目の焦点を合わせようとする暇すら与えられない、まるで時間が縮まったかのような速さだ。
次々と現れる白狼を、オリバーは瞬きより速く屠り続けた。顔に血が飛んできても無表情に切り続ける。その異様な速さを前に、誰もが彼の「ジョブの力」だと信じて疑わなかった。
ダグラスは次々と死んでいく敵を目前に足が動かない。目の前の速さが理解できず、握る大剣がただ重い鉄塊に変わる。
アンは震える瞳でオリバーの姿を見つめる。死刑を淡々と執行するようなその姿に、思わず地に降りて翼で自分の首をさすった。
そして最後に、額に赤い石をはめた、華奢なシルバーウルフがゆっくり現れた。それをオリバーは顔色一つ変えずに、首を刎ねた。
「こいつがリーダーだな」
そう言いながら額の石をくり抜くオリバーの手には、微塵の躊躇もない。ハルトはその冷徹さに、背筋が凍る思いだった。
立ち止まったオリバーは剣を払い、鞘に収める。その体を包むのは、タイトで動きを邪魔しない黒い鎧。速さを極めた彼のために作られたような形をしていた。
「……オリバー」
オリバーが親指で顔に付いた血を拭っていると、眉間に皺を寄せたダグラスが近づいた。すぐにでも責め立てそうな空気感に、慌ててクレアとステラが荷台から降りた。
「ダグラ――」
「ありがとう、すまなかった」
クレアが呼び終える直前、彼は腰を九十度に折り深々と頭を下げた。
「……何がだ?」
冷たい声で一言だけ問いかける。それでもダグラスは姿勢を保ったまま、続けて謝罪を始めた。
「俺はお前が信用出来ず、昨日も同行を反対してしまった。だが、お前がいなかったら、今頃俺たちは死んでいた。ハルトが信頼しているお前を疑ったこと、許して欲しい」
「ダグラス……」
ハルトは思わず、消え入りそうな声で彼の名を呼んでいた。その姿は彼の心からの懺悔だが、同時にハルトの中に燻っていた悩みを取り除いてくれた。
やっぱり信じてよかったんだ。今は心からそう思える。
「……あなたは間違ってない。あの惨劇がなかったとしても、全てを疑って生きることは正しい。……頭を上げてくれ」
オリバーはそう言って無表情のまま、ダグラスの肩に手を置いた。ゆっくりと頭が持ち上がるが、目を見ることはできないようだ。
「……ふぅ、丸く治まった?」
「……そうですね」
「まったく……男って世話が焼けるわ」
クレアはそう言いながら、安心したように口角を上げて二人を見つめた。少し優しくなった風が、彼女の髪を背後から揺らす。この瞬間、僕らの絆は磐石になったと思えた。




