11-1.血と雨の戦場
――フォルト王国北側『血と雨の戦場』敵陣最後方
「……え?」
そこにいたはずのトニーの姿が、霧のように掻き消え、空を裂いた。激しく打ち付ける雨音だけが虚しく響く。
直後、足元から一匹の黒い影が現れた。羽を揺らして更に後方へ飛び、薄暗い道の真ん中で人の形を成した。
「コウ……モリ……」
「あっ、あっ、あぶねー!!死ぬかと思った」
「……蝙蝠の――トランスフォーマー」
「そーいうことだ。俺のジョブは蝙蝠になれる。お前から逃げるのなんて難しかないんだよ……モンスターテイマー」
「――くっ」
高笑いが、雷鳴にかき消されるように空に響いた。
悔しさが込み上げて、ナイフを握る手を固くする。完全にしてやられた。
「バウ!」
「はっ!!」
無念に苛まれる間もなく、追いかけてきた敵が背後から襲いかかった。咄嗟に避けて武器を構え、グラと背を合わせる。
「ありがとう、グラ。まずは目の前の敵を!」
「ガルゥ!」
あの小さな蝙蝠――トニーをどう捕まえるか。雨粒が視界を乱す中、ハルトは戦況を頭の中で整理し、歯を食いしばりながら再び敵と相対した。
――『血と雨の戦場』敵陣北側
雨粒が翼にぶつかり、鋭い音を奏でた。稲光が暗い空を一瞬だけ切り裂き、ステラの青髪と羽根がその光に浮かぶ。風が体を包み込み、暴れ狂う嵐が視界を揺らした。
雨と風に揉まれ、ステラは空中で軽やかに身をくねらせた。小石の弾幕が飛び交うが、彼女の羽根は乱れず風を切る。弾丸は宙に散り、ステラは舞うようにすり抜けていった。
「ちっ……デカイ鳥のクセにクネクネと。ムカつくなぁ!!」
「あら、私、結構肝を冷やしてますわよ。貴方の魔力はいつ切れるのかしら?」
「そうなの?でもざーんねん!あたしの魔力が底を尽きるより、あなたが落ちるほうが早いわよ!」
「そう……自信がおありなのですね。では、私は攻め方を変えてみようかしら」
「攻め方……?フン、そんなのねぇ――いくら変えても無駄だからぁ!!」
女が掲げた杖の先に、一つ、二つ、そして三つ目の魔法陣が現れ、弾幕は更に密度を増した。それは礫の束が上空を通ると、地面では雨が上がったと感じられるほどだ。
だが――それでもステラは華麗に舞い、飛来する小石にぶつかる雫が弾けるのを肌で感じながら、紙一重で避けきった。
「あらあら、まだ力を隠しているのですね。次は何かしら?」
「て……てめぇ、調子に乗ってんじゃねーよ!たかが鳥のくせによぉ!!」
再び掲げた杖の先に、四つ、五つ目の魔法陣が加わる。
「……」
「あらぁ?声もでない?怖くなっちゃったぁ?」
「……鼻血が出てますわよ」
「へ?」
頬を赤らめご満悦な女は、雨に濡れた顔を袖で拭った。
細目でそれを確認すると、頬が裂けそうなほどに口角を上げてステラを睨みつけた。
「さっさと死んで」
再び放たれた大量の小石は、すぐにステラを襲うことは無かった。だが、まるで生きているかのように空へ向かい、礫が絡み合い、鎖のように連結し、やがて雨雲を貫いて、一つの形を作り上げていく。
「――がはっ!かはっ、ぐえぇ!」
女は苦しそうに嗚咽して、口や鼻から大量の血を吐き出し、彼女の足元も遂に血の海に染まった。
「……身の丈以上の力を使った代償ですわ」
「ふん、鬱陶しい鳥ごときが……。いいか!あたしは、暗殺ギルド『ウラヌシア』第十二幹部『狂人――ネニネ』様だ!命を削ってでも殺す……これが“狂人”の矜持だ!」
ネニネは勇ましく名乗り、今までにないほど鋭い視線をステラに向けた。激しかった雨音が徐々に落ち着き、まるで天が決戦を見届けるようだ。
「……きなさい。ネニネ」
「――そぉこなくっちゃあぁ!!」
杖を大きく振り下ろし、付いた雨水をふるい落とす。空に巣食っていた岩の大蛇は、ステラに向かっていき大きく口を開いた。
「くらえ!秘技『岩蛇』!!」
「――ウィンドバリア」
風が暴流となって蛇を押し返す。その瞬間――雨音をかき消すほどの轟音と共に岩蛇が砕け、下にいた雑兵を巻き込んで消えた。しかし――ステラは纏う風により全てを流し、未だに美しくそこに立っている。
「バ……リア……」
膝から崩れ落ち、血の混じった泥水に倒れこんだネニネ。その姿を見下ろしたステラは、雨を払うように羽ばたき、ゆっくり彼女に近づいた。
「生意気……あんな強い防御魔法隠してるなんて」
「実力は隠しておかなくてはいけませんのよ?」
「あんた、なんであたしが自滅するってわかったわけ?」
「……簡単な話ですわ」
すっと息を吸って短く吐き出す。そして堂々たる笑顔で、覇気のない宿敵を見つめた。
「私は『クイーン』ですもの」
「……ほんっと、生意気。――がはっかはっ……」
「お辛いでしょう。ゆっくりお眠りなさい、ネニネ」
「……うん」
ネニネはそっと目を閉じた。自分の死を受け入れて。ステラは彼女の顔の横にしゃがみ、びちゃびちゃに濡れた髪、頬と撫で、首に手を当てる。
「――さようなら」
そう言って立ち上がると、足の爪を立て、首を一気に刎ねた。頭はすぐ近くで転がり、安らかに慈愛の雨を受ける。
「主と娘に手を出したことは許しませんが、貴方の生き様には、少し同情しますわ」
――『血と雨の戦場』馬車付近
分厚い雨雲が薄れ、東の空にぼんやりと月の光が浮かんだ。小降りになった雨は肌を優しく撫で、辺りの景色が幾分か鮮明になる。
岩の大蛇が崩れ落ちた揺れは、ここまで確かに伝わった。それがステラの勝利を意味することを、ダグラスもアンも理解した。
泥だらけで重たい靴を引きずり、大斧を構える相手と向き合うダグラス。隣で背を向け羽ばたくアン。敵も味方も疲労に肩を揺らし、身体中から滴る水を気にする余裕はなかった。
「……狂人は破れたか」
「?……初めて喋ったな」
「幹部が死んだ。この作戦は失敗する」
「それじゃあどうする?大人しく捕まるなら、命は助けるが?」
「フッ……」
男は不敵に笑うと、無言で斧に力を込めた。呼応してダグラスも腰を落とし、睨みつける。
「アン、気を抜くな」
「うん、任せテ」
僅かな静寂が重くのしかかった直後、ダグラスと男が同時に飛び出し、その空気を強く押し上げた。
弾ける鉄の音、踏みこみ飛び散る泥水、武器が振られる度に聞こえる力強い息遣いが、戦いの激しさを物語っていた。
傍らでは風鳴を起こす羽ばたきが聞こえ、敵のナイフは空を斬り続けている。母に甘える幼子かと思っていたが、なんと頼もしい仲間だろうか。
振り下ろされた大斧を受け止めた瞬間、火花が散り、全身が痺れるほどの衝撃が走る。大地を踏み砕きそうな力に押されながらも、ダグラスは歯を食いしばり、逆に力を込め返した。
刹那、互いに笑みが浮かぶ。息を荒げ、肩を揺らし、なお止まらぬ興奮。命を賭けた死闘の中でしか味わえない昂ぶりが、両者の瞳に宿っていた。
大剣が唸り、大斧が轟く。振るえば振るうほどに武器は重く、身体は軋む。だが痛みよりも、心臓を突き上げる戦慄こそが彼らを突き動かしていた。
「お前、名前は!」
「……バスタ」
「バスタ、俺はダグラス、お前の最後の敵だ!」
互いの名を知った瞬間、戦いはより純粋なものへと昇華した。
大斧が唸りを上げ、大剣がそれを弾き返す。刃が交わるたびに火花が散り、腕の筋が裂けそうな衝撃が伝わる。斧の刃先が二の腕を掠め、鮮血が空を舞った。だが次の瞬間、大剣も相手の肩口を裂き、赤が泥を一層濃く染める。
血を流し、呼吸を荒げ、それでも二人は止まらない。呻きも笑いも混じる呼吸の中で、戦士の本能だけが二人を突き動かしていた。
ついに、ダグラスは膝を突きそうになる身体を無理やり押しとどめ、胸奥の熱を込めて剣を振り抜く。バスタも吼え、全力で斧を振り下ろす。
衝突の刹那、火花と泥水が爆ぜ、鉄と肉が悲鳴を上げる。それを押し切ったのは――ダグラスだった。
大剣が相手の胴を裂き、斧の勢いをねじ伏せる。バスタは血を吐きながらも笑みを浮かべ、泥に背中から崩れ落ちた。
「……見事だ」
バスタはそう呟き、暗い空を見上げた。気がつくと、もう雨は上がっている。遠く見えていた雲の切れ目が、月の光を零していた。
「ぐわぁ!!」
残っていた雑兵の断末魔が聞こえ、少女が安堵する息が続いた。あちらもどうやら終わったようだ。
「バスタ――思い出したぞ。元ダルセルニア帝国騎士団、第二分隊副隊長『バスタ・ヴォーダン』。父親の身勝手な謀反で追われたと聞いた」
「なぜ、知って――。ダグラス……そうか。そういう……こと……か」
「あぁ。バスタ、強かったよ」
「感謝……する。……最後に……誇りある……戦いが……でき――」
そこで言葉は途切れた。バスタの口元には、まだ笑みが残っている。
ダグラスは静かに剣を納め、泥に膝をついた。その視線は敵ではなく、一人の戦士を見送る眼差しだった。
濡れた土に伏す巨体。その肩にようやく届いた月光が、かつての騎士の誇りを淡く照らしていた。
「ダグラス、だいじょうブ?」
アンが傍にきて、心配するように声をかけた。遠くから泥濘を走り駆け寄る、クレアの足音が聞こえる。
「あぁ……終わったな」
「うん」
泥だらけの手と濡れた翼が、静かに交わる。
後ろからクレアがそっと二人に寄り添い、ダグラスは深い息を冷たい空に零した。
「バスタ、お前の誇りは、俺が引き継ごう」




