10-2.大切な人のため
――『血と雨の戦場』馬車付近
空模様は遂に雷を帯び、今にも地に落ちんとしている。振り続ける雨が体温を奪い取り、振るう剣を握る感覚も既になくなっていた。
後ろでアンを治療するクレアを守るため、目の前の大男の重い斬撃を受け流しながら、隙を見つけては斬る。互いに傷を重ね、戦況は拮抗したままだった。
「ふっ――」
大剣に滑らせるように振り下ろされた刃を受け流し、金属が擦れる音を鳴らす。足元を揺らすほど重い大斧が泥水を跳ねあげたとき、身体を捻らせ剣を振り上げた。
両腕を狙う一閃。男は咄嗟に武器を手放し、間一髪でその一撃を躱した。
「ちっ」
ダグラスは進まぬ展開に苛立ち顕にした。
直後、大男は腰を落とし斧を握りなおす。横へ振り回す大振りの一撃。泥水を跳ね上げ、空気を震わせる重圧が横腹を狙った。
ダグラスは反射的に頭上にかかる大剣の重みを利用し、後ろへ身体を反らせる。斧は蹴り上げられ、 刃先が彼の腹部の布を掠めた。足先から泥水を散らし、腕を跳ねさせ距離をとる。その水飛沫は戦場の冷たい雨と混ざった。
「お前、まさか幹部か?」
「……」
「……答えるつもりはないか」
黙ったままだが伝わる。こいつは、この打ち合いを楽しんでいる。上がった口角がそれを語っていた。
「俺には分かる。お前の性分は暗殺者ではない、戦士だ。なぜ暗殺ギルドになんて組み入ったんだ?」
「……」
その質問の直後、男の笑みは消え、大男は無言のまま、泥を踏みしめて構え直した。肩口に掛かる雨が斧の刃を伝い、黒光りする水滴が地へと滴る。
その圧に呼応するように、ダグラスも剣を構え直す。僅かな光を零さぬよう、開いた瞳孔に敵の姿を映した。
次の瞬間、両者の武器が正面から激突した。
「――ッ!」
火花が雨粒を弾き飛ばし、鉄と鉄とが噛み合う轟音が戦場を震わせる。互いの力が拮抗し、剣と斧の柄が軋みを上げた。
押し切られるか、押し返すか。膠着を弾き飛ばしたのは、両者の渾身の踏み込みだった。
再び始まる大振りの勝負。振るうたびに空気が裂け、泥水が乱舞する。
頬を掠める鋭痛が走り、薄い血が流れ落ちる。
「ぐっ……!」
顔を歪ませたダグラス。だがその瞬間、痛みを糧とするように踏み込み、剣を振り抜いた。刃は相手の胸板を捉え、赤い筋を刻む。
「!!!」
大男は口を固く閉ざしたまま、驚きに目を丸くした。武器を握る手に更に力がこもる。
再び重い一撃が放たれるかという、その瞬間――
「ダグラスッ!」
クレアの叫びに気づいた瞬間、横腹へ閃く刃。雑兵の一人が雨音に紛れて走り込み、雨に濡れたナイフを構えていた。
咄嗟に身体を跳ね上げ、躱す。だが――。
「ぐッ……!」
鋭い痛みが太腿を貫いた。深々と突き刺さる冷たい鉄。視界が白むほどの衝撃に、歯を見せて食いしばる。
それでも反射的に雑兵を蹴り飛ばし、距離を取った。だが痛みに膝をつき、呼吸が荒くなる。
ぬかるんだ大地を踏みしめ、大男がゆっくりと近づいてきた。腰に構えられた斧が、次で終わらせるという意思を堂々と突きつける。
冷たい雨が頬を打ち、血と汗と混ざり合う。
――ここまでか。
死を覚悟したその瞬間。
「フェザーショット!」
鋭い声が雷鳴を裂いた。羽根の矢が一直線に飛び、雨粒を切り裂いて大男に迫る。
「……!」
大男はその声に反応し、斧を構えたまま後方へ飛び退いた。矢は泥水を弾き、音をたてて泥濘に刺さる。
ダグラスの前に、青い翼を羽ばたかせ、小さな影が舞い降りた。アンは濡れた髪から水を滴らせ、全身で彼を庇う。
「ハルトノ、友達ニ、手出しはさせなイ」
少女の勇敢な姿に見惚れていると、背後から温かな気配が包み込んだ。
「ダグラス、ぐずっ……すぐ治すわ」
すすり泣くクレアが必死に抱きつき、足の傷に治癒の光を注ぐ。傷口を締め付ける痛みの中で、確かな温もりだけが伝わる。
「完全な治癒はすぐには難しいから、今は傷を塞ぐ。お願い――勝って」
耳元で囁く声が、じわじわと胸に希望の光を蘇らせた。戦場に、仲間の息遣いが戻ってきたのだ。
「――ありがとう」
クレアの胸の圧から解放されると、ゆっくり立ち上がり、再び大剣を構える。
「クレア、離れてろ。アン、右の雑魚の相手を頼む」
「わかっタ」
「二人とも、気をつけて」
ぬかるんだ地面を走る音が遠のいていく。二人はそれぞれ自分の相手に鋭い視線を向けた。
大男はダグラスに目を合わせ、肩に斧を乗せて腰を落とす。口角は微かに上がっていた。
――『血と雨の戦場』敵陣南側
――足が、軽い。
地を蹴った瞬間、全身が風に変わったように速さを得ていた。
振り下ろされる剣が、遅い。突き出される槍も、重い。
兵士たちの一挙手一投足が、水の底であがくように鈍重に見える。
これが……グラの速さ。
雷鳴が轟く戦場を駆け抜けながら、ハルトは己の変化を自覚していた。暗闇に光るグラの紋章が、ハルトに力を貸してくれている。獣のごとき脚力と反射神経を宿し、ただ前へ。
泥にまみれた地を裂くように飛び込むと、槍兵が三人、立ち塞がった。
同時に突き出された鋭い穂先が、雨粒を割って迫る。
「――ッ」
ハルトは地を滑るように身を沈め、足を軸に反転する。
刹那、背後から駆けた影――グラの爪が、槍を握る兵士の喉を裂いた。
残りの二人が振り返るよりも早く、ハルトは跳ね、回転しながらナイフを振る。
赤い飛沫が雨と混ざり、瞬きの間に三人が地へ崩れ落ちた。
短く息を吐けば、グラもそれに応じて身を低くする。視線を右へ走らせれば、獣の瞳がそれを捉え、牙を突き立てる。左の影を睨みつければ、次の瞬間にはハルトのナイフが閃いていた。
速さを得たからこそ、指示が届く。動きに遅れが生じない。それは意思の共有ではなく、呼吸と視線で繋がった連携。
――これなら戦える。
並び立つ二つの影が、光の速さで雨の戦場を切り裂いていった。
「くそっ、止めろ! こいつらを――!」
叫ぶ声が聞こえた。残った少数の兵が、一気にハルトたちに押し寄せてくる。
それでも恐怖はなかった。むしろ心は研ぎ澄まされていくのを感じる。
奥で余裕がなくなった表情のトニーが見えた。
「グラ――行くぞ!」
「バウ!」
二つの影が走りだす。泥を跳ね飛ばし、矢のように駆け抜ける。刃と爪が交差し、敵を切り刻むたび、道が拓けていった。
速さで翻弄し、力で押し返す――だが、決して一方的ではなかった。
後方に控えていた暗殺者たちが、雨と泥にまみれながら、斜めからナイフや短剣を突き出す。数は少ないが、どの一人も腕利きで、死角を突こうと連携してくる。
ハルトは刃を振りつつ、泥に滑る足元に神経を集中させる。僅かな隙間で斬撃をかわし、踏み込みを調整する。横合いからの一撃に体勢を崩されそうになり、肩を強く打ちつけながらも踏みとどまる。
グラが隙を突いて飛び込み、牙で敵を押しのける。踏み込んだ瞬間、泥水が激しく跳ね上がり、視界を覆った。
だが、ハルトは怯まない。濁流のような雨を切り裂きながら逆手のナイフを振る。目の前で開いたわずかな隙間に、敵陣の奥――アイツへと繋がる道が見えた。
……だが、それも一瞬。すぐさま兵が滑り込み、道を塞ぐ。
「――くっ、グラ!」
ハルトは短く名を呼ぶ。跳躍して後方に退いたハルトの動きに、グラも正確に重なるように着地した。泥と雨を纏った一人と一匹が並び立ち、水飛沫が弧を描く。
呼吸を整えながら、土砂降りの雨音の奥に耳を澄ませる。
――後方。ダグラスのところには二人の兵士。アンが翼を広げて援護に入っている。
――左手。ステラは一人でソーサラーを押さえている。さらに下には三人の兵が構えている。
――そして自分の目の前に四人。奥に控えるトニーを数えれば、残り十二。
戦況が頭の中で鮮明に浮かぶ。正念場だ――。
「グラ、まだやれる?」
「ワン!」
「……頼もしいよ。一気にいこう」
弾ける水の音に、カランという乾いた音が鳴った。直後、トニーの傍に立つ木に雷が落ち轟音を響かせ地を揺らした。
もうすぐ――届く。
揃ってグッと地面を踏み込み、飛び出した。一番手間の敵が剣先を向けて駆け抜けようとするが、ハルトは身体を泥濘に滑らせ、通り過ぎる間際に脹ら脛を切り裂いた。
奇声をあげながら泥水に倒れ込んだ音を置き去りにし、次に振り上げられたナイフを転がり避けた。横から飛びついたグラによって押し倒されたのが見え、即座に立ち上がる。
直後、突き出された槍に気づき顔をずらした。瞼の上を僅かに掠め、赤く線が引かれる。
そのまま数回の突きを回避しながら後退すると、グラが槍の柄を噛み砕いて、木片を辺りに振りまいた。
「ここだ!」
砕けた柄の先を掴み、力まかせに投げて転ばせる。割れた人の間を一気にすり抜け、奥で怯える卑怯者の目の前に詰め寄った。
「ひぃぃぃぃぃい!!」
「とらえた!」
左手で腕を掴み、右手の刃が、トニーの首に突き刺さる――はずだった。
『フッ――』
「……え?」
手応えは、ない。
そこにいたはずのトニーの姿が、霧のように掻き消える。
空を裂いた刃先だけが、虚しく雨を散らした。




