10-1.大切な人のため
――フォルト王国北側『血と雨の戦場』馬車付近
雨が滝のように地面を叩きつける。鋭い水音と泥の匂いが混ざる戦場の中で、遠くで響く金属音と振り払われる泥水の衝撃が、胸を押し潰すような緊張感となってハルトの全身に伝わった。
重厚な剣が大男の巨斧と衝突し、鋼が軋む振動が空気を震わせた。重みのある一撃ごとに、泥が飛び散り、雨音をかき消すほどの衝撃が戦場を支配する。
しかし、大振りな一撃をぶつけ合うため、お互いに隙を突くことができない。
「まったく、同族相手はやりづらいな。お前もそうだろ?」
「……」
「言葉を知らないか……人間としては俺の勝ちだな」
「……フッ」
不敵に鼻で笑ったその瞬間、ダグラスの背後から銀閃が迫る。泥に滑る足音は雨の轟音に紛れ、反応が遅れてしまった。
「しまっ――」
『キーン!』
甲高い鉄の音が背後で響く。目前の斧をいなして体勢を立て直したダグラスが、次に感じたのは斬撃の痛みではなく、小さくも頼れる仲間の温もりだった。
「――はぁ!!」
ナイフの平地で受け止めた剣を、押し飛ばして間合いを作る。逆手に握りなおしたハルトは、ダグラスに背を預けた。
「おまたせ!」
「助かった。気は済んだか?」
「うん……ごめん!」
「謝るなら、向こうで戦ってる相棒たちにしろ」
「うん!」
立ち上がる相手を見定める。ナイフに映る自分の口角が少し上がっているのに気づき、持つ手にぐっと力を入れ直し、深く息を吐いてから、鋭い目つきと共に、刃を敵に向けた。
次の瞬間、切先が雨を裂き、心臓を狙って一直線に迫る。
ハルトは咄嗟に左腕を沿わせて軌道を逸らし、その勢いを利用して身を翻す。視界が泥と水しぶきで揺れる中、敵の背後へと滑り込んだ。
「――っ!」
喉元に冷たい刃を押し当て、一気に引き裂く。敵は泥へと崩れ落ち、身体を僅かに痙攣させた。
息継ぎする間もなく、雨音に紛れて鋭い風切り音が迫る。腰を屈めた瞬間、浮いた髪が刃を掠めた。右側で泥水を跳ねる足が見える。
ハルトは咄嗟に仰向けへと身を倒し、血と雨に濡れた地面へ手を突いた。その反動で伸ばした右足を水溜まりに滑らせ、敵の足首を払う。倒れ込んだ相手の手から、零れそうな武器を奪い取り、そのまま腹を貫いて地に突き刺した。
「くっ、キツイ!!」
弱音を吐いて辺りを見回すと、敵の半数は倒れていて、残りはあと十数人ほど。
雨を散らしながら、優位な空中で戦うステラ、赤い海を踏み、俊敏に敵を翻弄するグラが見える。
ダグラスは大斧の男に手一杯で動けない。先程やられたソーサラーは、ステラを狙って礫を飛ばしている。
そして一番奥で、トニーは余裕の笑みを浮かべ、雨に濡れた髪を撫で付けていた。
「くっ……」
再び怒りが燃えるのを感じ、血と泥に塗れた手を固くする。しかし、アンの声と笑顔が脳裏に浮かび上がり、握られた拳はそっと解かれた。その時――
「ギャウ!!」
「!!グラ!」
グラの痛々しい声が、激しい雨音を遮り響く。咄嗟に向けた視線の先に、泥に塗れた身体でフラフラと立ち上がる姿が見えた。青白い瞳の下がひび割れていて、周りを完全に囲まれている。
「ぐっ――ハルト!行け!」
「うん!」
激しく刀身をぶつけながら叫ぶダグラスを残し、ハルトは赤い水しぶきを上げて地を駆けた。そして――敵が気づくより先に、一人の心臓を貫き、敵の輪に入る。
「グラ、ごめん!遅くなった!」
「バウ!!」
「……うん、大丈夫。やるよ!」
二人の決意が重なった瞬間、グラの左肩に刻まれた紋章が赤く脈打った――。
――『血と雨の戦場』敵陣北側
上空から戦地を見下ろす。ずぶ濡れの土道に、無造作に横たわる人影。しかし何度も近づけば、大地は真っ赤に染まっていき、それらが死体だとまざまざと分かる。彼の力になると決めた直後、これほどの戦場を飛び回るとは、思っていなかった。
南側でハルトとグラが戦う姿が見える。あの様子だと、何とか自分を取り戻したようで、安心した。彼らなら、もう心配はいらないだろう。
娘の傷は、クレアが癒してくれている。だから今は、あの子がもう戦わなくて済むように、私はアイツを止めないなければ。
見下ろす視線の先には、橙色の光を放つ杖を掲げ、野鳥狩りを楽しむ女がいる。魔法陣から放たれる小石の弾丸は、何度もステラの心臓を狙っていた。
――もう、弄ばれるのは沢山。
翼を大きく広げ、雨を切り裂いて急降下する。風圧と血の匂いが頬を叩き、地面が一気に迫る。掴み上げたのは、こちらを見ていた雑兵のひとり。両脚の鉤爪でそいつの左足を締め上げ、空へと持ち上げた。
次の瞬間、全身をうねらせて、猛禽のように振り抜く。獲物は女の方へと投げ飛ばされた。
しかし、女は僅かに口角を歪めただけで、軽やかに身を翻す。飛来した兵士は空を切り、地面に叩きつけられ、泥水を巻き上げて転がり、動かなくなった。
「あら、やるようですわね。ただ小石を投げるだけの人間ではない……と」
ステラはゆっくりと高度をさげ、見下すようにソーサラーの女に近づいた。
「いたいけな小鳥を虐めて楽しいかしら?」
「ふーん、鳥の分際で人の言葉話せるんだ。生意気ね」
「貴方がさっき撃ち抜いたあの子も――ね」
「あら、もしかしてママ怒っちゃったぁ?ごめんねぇ?でも……」
女は再び、豪雨を降らす空に杖を突き上げる。雨雲の隙間が僅かに光り、小さく雷鳴が聞こえる。
「邪魔な鳥を二羽落としたからって、喋ろうが罪悪感なんてないよ?こっちは同族殺してるんだから」
ふざけた声音。けれど、その眼差しには一片の揺らぎもなく、ただ人を殺すことを楽しむ輝きだけが宿っていた。
胸の奥で、熱いものがこみ上げる。怒りとも、憎しみともつかないそれを飲み込み、ステラは翼をわずかに広げる。
「――娘と主を傷つけた罪、償ってもらいます」
雨を裂く風が吹き込み、ふたりの間に張り詰めた気配が走った。
女は口角をさらに吊り上げ、目の前に魔法陣を召喚した。
杖が大きく空を振る。――その瞬間、陣に石の礫がいくつも生えて、意志を持ったかのように、ステラに向かって飛び出した。風切り音が耳を裂き、視界いっぱいに影が迫る。
それでもステラは眉ひとつ動かさない。
身を反らせ、翼をしならせる。――瞬く間に宙で一回転し、礫の奔流を紙一重でかわしてみせた。
ふわりと宙に立つように羽ばたいた刹那、雲を這う雷がその姿を照らす。
闇に浮かび上がった横顔に宿っていたのは、激情ではなく、冷ややかな怒り。女に対する殺意を孕んだ、静かなる憤怒だった。
背筋を凍らす立ち姿に、雑兵共が息を飲んだ瞬間、風を切る音と共に全身を疾風のごとく動かし、美しい青髪が後方へ流れるほどの勢いで、ステラは女に突撃した。
「――っ」
直前に鋭利な爪を突き出し、顔をめがけて雨粒を切り裂く。
「あっまーい!」
しかし女は怯まないどころか、嬉しそうに頬を赤らめた。
迫る鋭い突撃に、咄嗟に杖を掲げて受け止める。
固く詰まった音が雨粒を震わせ、濡れて滑る杖ごと力を逸らすと、衝撃は頭上へと弾かれた。
「落ちな」
次には睨みつけてどす黒い声で脅すと、左右に魔法陣が浮かび上がり、そこから礫の群れが噴き出した。
無数の石弾が雨をかき消すほどの勢いで襲いかかり、ステラの羽根と身体を無慈悲に叩きつける。
「あっ、くっ――」
痛みを堪えて上空へ逃げ延びた。あちこちにできた傷や痣に雨水が染みる。
「迂闊でしたわ。連続で撃てたのですね。しかも二重で」
「実力は隠しておかないとね」
「……たしかに。目立つのは得策ではありませんものね」
「何?余裕ってわけ?ムカつく」
まるで二人と喋っているかのように、喜怒が入れ替わる女。まったく、頭がおかしくなりそうだ。
だが、ステラの心はまだ折れていなかった。口の端を血で滲ませながら微笑む。その余裕に、女は再び口角を吊り上げ、鋭い視線を向けた。




