9-2.再開は絶望
「彼が商会の裏切り者よ!!トニー!!」
その名を呼ばれた瞬間――彼の口角が恐ろしいほどに引上がり、欲望に塗れた笑顔が不気味に闇夜に浮いた。気持ち悪い視線がクレアを見つめ、異常なほどの執着を感じる。
「……え?そ、そんな。何の冗談ですか?」
「冗談じゃねーぜ、モンスターテイマーぁ。クレアを連れ出してくれて、ありがとうよ」
「そんな……まさか、僕を利用して――」
「そのとおぉぉぉり!!テメェなんかに誰が好き好んで話しかけるかよバーカ!!」
荒々しい声の端に、楽しげな嘲笑が混じる。全ての策略が思い通りに進み、何もかもを見下している。
「なんて酷いこと……トニー!ハルトくんは、あなたを信じていたのに!!」
「おいおい副会長さんよー。ハーピィと戯れすぎておかしくなったのかぁ?モンスターテイマーは悪だ。常識だぜ?」
笑顔のまま、彼はゆっくりと身を揺らした。闇夜に浮かぶその姿は、まるで悪魔が取り憑いたかのようだった。
あぁ、やっぱりこうなるんだ。最近は優しい人にばかり触れていたから、勘違いしてたみたいだ。やっぱり僕は――嫌われ者だ。
「あなたは、いつの時代の話をしてるの?!人を利用して、殺して、それで幸せを得ようとする人のほうがよっぽど――」
「もういいです。クレアさん、ありがとうございます」
「は、ハルトくん?」
荷台にから降り、近づこうとするクレアの肩を、青い翼が止めた。振り返った先から降りてきたのは、彼女の親友である人魔だ。
「クレア、ありがとう。彼の為に怒ってくれて。後は、私たちに任せて」
幕の隙間から飛び立つアン。追いかけて地に降り立つグラが先頭を切り、皆でゆっくりとハルトに近づいていく。雲の間から覗いた月が照らした姿は、主の為に命を捧げる家臣の生き様を見るようだ。
「ステラ……」
髪を靡かせ振り向いた彼女は、ニコリといつものように微笑んだ。
「危ないから離れてて」
クレアには、その背中を見つめることしかできない。胸を締め付ける悔しさが、辛くて、辛くて、仕方がなかった。
「ハルト、いつデモ、イケるヨ」
「必ず倒しましょう。あの者に、愚かさを教えて差し上げますわ」
「ガルルルルゥ」
「……みんな――」
ハルトの肩が小さく震えた。力なく垂れていた腕がゆっくりと持ち上がり、指先が宙をさまよった末、固く結ばれる。
俯いた視線を前に向けると、フードが滑り落ち白銀の髪が風に揺れた。月光が見せた彼の表情に、慈悲など存在しない。再び雲が月を隠したとき、降り出した雨粒が彼の頬を濡らした。
「お、おぉ……迫力あんな。……だが、生憎俺の専門はそっちじゃないんでねぇ」
トニーが雨空に向けて手を上げ、指先を弾き音を鳴らした。呼応して現れたのは、黒装束で顔を隠した男たちの群れ――暗殺ギルドだ。
「こんなに大勢……」
「ハルト!いくぞ!」
「……うん」
大剣を腰だめに構え、土を蹴って突進するダグラス。その影を追うように、ナイフを握り締めたハルトが飛び出した。
大振りの刃が雨粒を散らし、横薙ぎに唸った。剣に触れた三つの影が、泥を跳ね上げながら吹き飛ぶ。空いた懐に飛び込もうとした敵の身体を、闇に紛れた羽根の針が次々と突き抜け、血飛沫が雨に溶けた。
白骨の犬が牙を剥き、一気に肉を食いちぎった。右腕が悲鳴とともに宙を舞う。腕を無くした仲間を盾にしようとした敵に、頭上から影が降る。鉤爪が鎧ごと肉を裂き、絶叫とともに彼方へ投げ飛ばされた。
仲間が切り開いた道を駆け抜けるハルト。だが突如、目の前に銀閃が立ちはだかる。火花を散らしてナイフで弾いた瞬間、勢いを殺され元の位置へ押し戻された。
奥から響く嗤い声。雨音に混じり、それだけが妙に鮮明に突き刺さる。ハルトの額に太く血管が浮き出た。
塞がれた道へ無理やり突っ込み、ナイフを腹にねじ込む。手応えはあったが、刃は肉に絡みつき、容易に抜けない。
刃を受けた男が、血を吐きながらも口端を吊り上げる。横薙に振られた剣を仰け反って避けた瞬間、額に焼けるような痛みが走り、赤い線が雨に広がった。
「くっ――」
体勢を崩したハルトの前に、グラが素早く飛び出す。振り抜いた直後の無防備な顔面へ牙が突き立ち――鼻を根こそぎ噛み千切った。
「あぁぁぁぁぁ!!!鼻がぁぁぁあ!!!」
泥に着地するや否や、グラが咥えたナイフを放り投げる。刃は回転しながら雨を切り、ハルトの掌へ吸い込まれた。
「ハルト!突っ込みすぎだ!!」
「分かってる!!」
雨は容赦なく降り注ぎ、額の血を洗い流して口に流し込む。鉄の味を唾とともに吐き捨てるが、視線だけはトニーから逸れなかった。
ザバールから脱出したときと違い、計画された戦闘ではない。だが、あの聡明に影を縫い、敵を欺いて生き抜いたハルトが、今ここにいる彼とは思えなかった。
あまりにも危なっかしい戦い方、グラやアン、ステラが支えようとしているから、額の傷で済んでるようなものだ。
「はぁぁぁぁぁ!!」
再び敵陣の中心へ躍り込む。振り下ろされた刃を身を捩ってかわし、逆手に握った柄で顎を砕き上げた。しかし――突然、奥で橙色の光が輝いた。それがソーサラーの魔法だと気づき、身を傾けたときにはもう遅く、礫が雨を裂き、右腕にいくつも突き刺さった。
「ぐっ……あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!」
「はっ!ハルト!!――くっ」
『ガキン!』
流れ出した血が雨に混じり、地面の泥をじわじわと赤く染めていく。助けに行きたいダグラスの前を、大斧を振り回す敵が阻んだ。力の強さが、今までの敵の比じゃない。
倒れるハルトを仕留めようと振り上げられている剣が光る。奥では再び魔法の準備が始まっている。
頼む――誰か!!
「ヤァァァ!!」
「アン!!」
次の瞬間、上空から急降下したアンが、ハルトの腕を掴む。その勢いのまま、雨に濡れた地面を滑りながら引きずっていった。馬車にむかって一直線に、力いっぱい翼を動かす。
「ヤァァァァァァァァ!!クーレーアーーーーー!!」
「アンちゃん!!」
もう少しで敵陣を抜ける、その時だった――
『バスッ――』
ソーサラーのあの礫が一粒、アンの左翼を貫いた。その瞬間から、アンの体は一気に失速していく。だが彼女は最後の力で強く羽ばたき、血飛沫を散らしながら――二人まとめてクレアの目の前に転がり込んだ。
「アンちゃん!ハルトくん!!」
「うっ……ア……ン」
「ハル……ト……」
倒れたまま、ハルトの左手に右翼を弱々しく重ねる。クレアがハルトにヒールをかける光が、アンのボロボロになった優しい笑顔を照らした。
「ハル……ト、ダメ……だよ?」
「え?」
その瞬間、ハルトの耳から雨音が消え、冷たい泥水の地面や景色が、真っ白な部屋の中にいるように感じた。
「ハルトは……怒っテ、チカラヲ……使っタラ、ダメだよ」
「……アン」
「分かっテ……タノ。ハルトの……チカラ、嫌われてルって。だかラ、ハルトの……チカラは――『護る』タメに、使っテ。ワタシと……同じようニ」
……僕は何をしていたんだろう。トニーに裏切られて、モンスターテイマーを虐げられて――
諦めたんだ。あの時、嫌われ者だと、心の底で認めてしまった。
「泣かないデ、まだ、間に合うヨ」
この時初めて、自分の頬を伝うのが、雨水ではないと気づいた。顔をしわくちゃにして、溢れんばかりの涙を流している。
「アン……ごめん」
「いいヨ、許して……あげル。先に、行ってテ。すぐに戻るネ」
アンはそう言い終わると、そっとハルトの手を離した。
まだその温かみは、確かにこの手に残っている。
「回復したよ。ハルトくん……お願い、無茶はしないで」
ハルトは無言で立ち上がり、びしょびしょの顔を治りたての腕で拭った。そして、荷台のバックパックから新しいナイフを手に取り、二人のほうに振り返る。その表情は、いつも通りの優しい笑顔だった。
「……行ってきます――ありがとう」
アンは微笑んで、クレアは心配そうに頷いた。
二人の思い、アンとの約束を胸に刻み、踏み出す足に力を込める。雨に濡れた地面を蹴りながら、ナイフを握り直し、ハルトは再び戦場へ飛び込んだ。




