9-1.再開は絶望
――夜、ザバール村郊外の川辺『集合地点』
馬が地を蹴る音と車輪の回る音が、静かな満月の夜に響く。その先のせせらぎが聞こえてくると、凍るような山風が一層冷たく頬を刺した。
橋の手前で馬車を止めると、下に身を隠していたダグラスとクレアが顔を出した。
「ダグラス、クレアさん。無事で良かった。グラ、アン、ステラ、出てきて」
右手を差し出すと三つの渦が現れ、仲間たちが姿を表した。アンは久々の外で翼を伸ばし、グラは久しぶりに大きな声で返事をしてくれた。そしてステラはクレアに近づき、両方の翼で手を握る。
「クレア、本当に良かったわ。……長かったわね」
「ステラ……ありがとう。あなたのお陰で、また会えた」
二人の髪が月に照らされ、蝶でも飛んできそうな程美しい。ようやく、長い籠城生活が終わったんだ。
二人が額をくっつけ、お互いの存在を確かめ合った後、クレアはハルトに歩み寄った。
「ハルトくん、グラちゃんも、こっちに来てしゃがんで」
「?はい」
「ワフ」
優しい口調でそう言われるがまま、地面に膝をついた瞬間、クレアの手が頭に乗せられ――これでもかというほど、くしゃくしゃに撫で回された。グラの首が凄い勢いで鳴っている。
「ちょ、ちょっと!なんですか?!」
「カラカラカラカラカラカラ」
「アハハ!ありがとう!二人とも!!」
「え、えーーー」
「カラカラカラカラカラカラ」
――数分後
霊峰の中腹から流れる川が金色に染まり、キラキラと輝きながら流れていった。川上で水から頭を振り上げた姿は、さながら美しい水鳥だ。
見慣れた髪色に戻ったステラが、髪を絞りながら川から上がってくる。妖艶な身体を見ないように、そちらの手伝いはクレアとアンに任せ、男二人は次の行き先を検討していた。
「このまま王都に戻って大丈夫なのかな?」
「……危険だろうな。ノーランド伯爵が黒幕だとしたら、目の届く範囲にいるのは避けたい」
「まだ商会内に、裏切り者が潜んでないとも限らないよね」
夜は魔物と遭遇すると危険な上、雨雲が徐々に迫ってきている。雨の夜なんて、人間が圧倒的に不利でしかない。
ここからザバール村もまだかなり近い範囲だ。決まらなければ、行き当たりばったりに進むしかないが……。
「とりあえず、一番近い比較的安全な場所に向かわない?そこで野宿して、起きてからまた考えようよ」
「それが現実的か。ここからだと……西南西に二時間移動すると、トルマン大平原の北側に、広く浅い水晶洞がある。雨も凌げて、見つかりづらい。どうだ?」
「トルマン大平原なら、ホーンラビットがいるから、食事もできそう。わかった、そうしよう」
そう言って西に続く道を睨みつけるダグラス。口を固く結び、眉間に皺を寄せるその顔が、ハルトはとても頼もしかった。
ステラが身支度を終わらせたのを確認し、荷物と共に各々馬車の荷台に乗り込んでいく。手綱は慣れているというダグラスに任せた。ハルトも後ろから荷台にへ乗ろうとすると、クレアが手を差し出してくれた。
その手をしっかりと掴み、乗り込んだ先に見たのは、グラ、アン、ステラ、クレア、そしてダグラス。一人と一匹で始まった地獄のような生活の先に、こんなにも賑やかな景色があるとは思わなかった――。
微笑みたくなる暖かい空気も荷台に乗せて、馬車は西へ進み始めた。
「――ん?」
「どうシタノ?」
「……ううん、なんでもない」
一瞬、視界の端で何かの影がかすかに揺らいだ気がした。
――同刻、王都サフィーア『とある飲食店』
琥珀色の光が、磨かれた木の床に反射していた。点在する客たちは、絵画の人物のようにそれぞれの時間を過ごしている。
その中に一人、グラスを傾けて音を鳴らす大男が、客の死角になるカウンターの奥に座っていた。
「……またせたかしら?マスターアイゼン」
「あぁ、いつも悪いな、リオナ」
店の奥から現れた、赤い髪の麗しい女性『リオナ』は、マスターに親しげに話しかけ、手に持つグラスを差し出した。
乾杯するとお互いに一口飲んでテーブル置く。
「オーケー、音は遮ったわ。用件は?」
「以前、うちの冒険者が、貧民街で気味悪い事件に出くわしてな」
「ふーん……詳細は?」
「五日ほど前、狂ったように笑う男女二人と遭遇。直後、黒服の男二人が現れ、男女に薬を飲ませて攫った。男女は奇声を上げながら暴れて、途端に静かになったそうだ」
「毒殺……ね。それで?」
「こっちでも、ギルドからの依頼として調べさせたんだが、素人の手には負えない事実がわかった」
再び手に持ったグラスを鳴らす。一口飲んでテーブルに置いた瞬間、眉間に皺を寄せてリオナを睨み付けた。
「依頼だ。貧民街北側の端にある、麻薬工場を調べてくれ」
「麻薬――というと、もしかしてあの人かしら……」
「分かるのか?」
「眉唾ものだけど、一人だけね。裏で黒い噂が絶えないから、何が真実かもわからない」
「……誰だ?」
「ノーランド商会会長――『ロニオ・ノーランド伯爵』」
「事実だとしたら、でかい相手だな」
そういうと、酒を一気に飲み干し、普通の酒の相場よりかなり高い金額を支払って席を立つ。「頼んだ」とだけ言葉を残し、彼は店を出ていった。
「……さて、お得意様からのご指名だがら、きっちりやらなくちゃね」
――深夜、フォルト王国北側『名も無い土道』
長く世界を照らし続けた月の光が、薄らと雲に覆われて弱々しく光る。遠くに見えていた雨雲は空の半分以上を支配し、後方で見えていた霊峰の影は、闇に飲まれて消えてしまった。
湿気った土の香りが、一層冷えた風に乗って鼻を刺す。すぐ後方で雨足が迫っているのを、肌が敏感に感じ取った。
「……ダグラス、雨がくるよ」
「あぁ、急ぐぞ。捕まってろ」
彼は巧みに馬を操り、無理なく速さを上げていく。その後ろ姿に一気に高まる緊張感を押さえ込んだ。
その時――通ってきた道の奥から、速さを上げる馬の影が見えた。暗闇に溶けるように近づく影。馬の蹄の音が地面を震わせ、全身に振動が伝わる。
「ダグラス!後ろから誰かくる!」
「?!くそっ、馬車じゃ追いつかれる……止まって迎えるぞ!中が見えないように幕は下ろしとけ!ハルト――一緒にきてくれ!」
「わかった!」
馬車を脇に止め、二人は地面に降り立つ。こちらに走ってきた馬も歩幅を緩め始め、接触は免れないと悟った。
ダグラスは荷台に詰んだ荷物から、大振りの剣を一本取り出し鞘を抜く。それを見たハルトも、腰のナイフに手を添えて、蹄が鳴る影を睨みつけた。
馬足はゆっくりとなり、数メートル先で止まる。耳に直接届くほど強い鼓動が、全身の血を一気に巡らせ、額や手足に汗を滲ませた。
そして、相手を覆っていた外套のフードが下ろされたとき――ハルトは安堵の白い息を吐いた。
「トニーさん!」
「よぉ、モンスターテイマー」
相変わらずの荒い口調はアメントリの時と変わらないが、追っ手じゃなかったという安心感で、全身の力が抜けそうになった。
「アメントリではありがとうございました。どうしてここに?」
「まて」
歩み寄ろうとするハルトの肩を、ダグラスの手が強く押えた。先程とは違う、眉間に皺を寄せ、鋭い目つきでトニーを睨んでいる。
「な、ど、どうして?!彼は僕をザバールに導いてくれた恩人で――」
「違うの!ハルトくん!!」
荷台から響くクレアの声。振り返ったハルトの視界には、幕の間から身を乗り出す彼女の姿があった。今まで見た事ないほどの怒りに震え、俯いている。
「違うの……彼は――」
そう言いかけ持ち上げた顔は、鋭く尖らせた目の隅に、零れそうな涙を溜めこんでいた。
「彼が商会の裏切り者よ!!トニー!!」




