8-1.紡がれる再起の光
――ザバール村『崖上の木屋』
太陽の温もりと冷たい山風を肌に受けながら、緩やかな岩肌の上り坂を登っていく。眼前に見える壮大な景色とは裏腹に、縮こまっていく心臓は、速く、強く、脈を打った。
「小屋が空に浮かんでるみたいだ。村の景色がよく見える……」
異質な木屋の前にたどり着いたハルトは、窓の内側の景色を見て、そこが空き家だということはすぐに気がついた。ただし、採掘で日頃から砂が舞う土地なのに、ドアノブには砂埃が一切付いていない。
「…………よし」
『カチャッ――ギィィ……』
意を決して素朴な扉を開ける。古い蝶番が音を鳴らし、ビクリと肩を揺らしたハルトは、咄嗟にしゃがんで身を隠した。
しばらく耳をすませたが、人の気配は感じない。
そっと立ち上がり中を確認すると、あちこちに蜘蛛が巣を張り、ホコリが絨毯のように敷き詰められている。一部を除いて――。
「足跡……かなり大きい。男性かな。何度も出入りしてる」
薄暗い室内に足を踏み入れると、空気は乾ききった埃で重く、微かに鉄の匂いが混じって鼻を突いた。窓から差し込むわずかな光に、舞い上がった粉塵が金色の粒子となって漂い、揺れる影が壁や梁に不自然に伸びる。
床板は所々軋み、踏みしめるたびにかすかな木の悲鳴のような音が響く。古びた棚の上には埃まみれの瓶や、崩れかけた箱が無造作に積まれ、蜘蛛の巣が隅々まで糸を張り巡らせていた。
足跡はさらに奥へ進み、一番奥の部屋に入っていった。開け放たれていた扉から覗き見る。
「……!!」
その光景に絶句し、心臓は限界まで早く脈打った。荒くなる呼吸が埃を吸い込みむせる。
部屋にあったのは、綺麗な一対の机と椅子。輝く粉塵が幻想的で、ここだけ時を止めたようだった。
そして、床に黒い砂が散乱していており、近くの床にはいくつも、刃が刺さった傷。一部が拭き取られ、透き通ったガラス窓の先に見えるのは――ダグラスの家だ。
「――まずい」
背筋に凍るような感覚が走り、ハルトは慌てて部屋を飛び出した。床板が大きく音を立て軋み、埃は一斉に宙を舞う。勢いよく扉を閉め、急勾配な斜面を滑り降り、バタバタと音を立てながら、地下室へ一直線に飛び込んだ。
「ダグラス!クレアさん!!」
言葉は息切れと共に掠れ、止まらぬ動悸に体が震えたままだ。
突然の出来事に静まり返った室内で、そこにいた全員が注目した。ハルトの荒々しい息遣いだけが響き、慌てたクレアが駆け寄る。
「ど、どうしたの?!」
「落ち着いて話せ。何があった?」
「はぁ……はぁ……んぐっ。み、見張りが……」
「見張り?」
「はぁ……はぁ……、この家を監視してる、見張りがいます!ぼ、僕らが、裏道を使うの、バレてるかもしれません!!」
クレアは唇をわずかに震わせ、金色の瞳を大きく見開いた。普段の落ち着きは消え、胸の奥に凍りつくような焦燥が走る。
ダグラスも目を丸くし、眉をピクリと動かした。冷静な彼の顔に、動揺が一瞬で浮かぶ。
「……どこにいた?」
「この家の向かいの崖上……空き家の角部屋です」
「そんなはず……私の探知には、誰もかかっていませんわ」
「ハルトくん、確かなの?」
肩で息をしながら、怯えるように何度も頷くハルトの姿に、クレアは息を飲んで顔を強ばらせる。
ステラは何度も探知を繰り返し、「なんで」と言葉を漏らした。
「探知を逃れる術があるとしたら……まさか、隠密か?いや、だが」
「えぇ、ありえませんわ。それができるのは魔物や人魔。人間が身につけるなんて、どんな修練を……」
ステラの顔が歪み、悔しさを滲ませた。アンは小走りに近づいて母の翼を握り、困惑した表情で背中を摩る。
その時、考え込んでいたクレアが、ハッとして顔をあげ、同時に絶望の色を見せた。
「いる……いる!ダグラス!アイツらだよ!そんな……無理よ……」
「――まさか……暗殺ギルドか?!」
「暗殺――ギルド?」
――ザバール村『崖上の木屋』
「……バレたか」
ホコリが舞う室内に戻ったオリバーは、その小さな足跡を見つめ、静かに呟いた。
角部屋の椅子に座り、窓を覗くが、そこにはまだ、変わらぬ静かな景色があった。
「……まぁいい。まだやりようはある」
腰を下ろすことなく身体を翻すと、まるで小さな侵入者の痕跡を嘲笑うかのように、一切の風を起こさず、灰色の絨毯の上を歩いて小屋を出た。
暗殺ギルドは、表社会に姿を見せることはない。だが王侯貴族ですら、必要とあれば金を払い、彼らの刃を借りる。
仕事は必ず果たす。裏切りと失敗は許されず、違えた者はたとえ幹部であろうと血で償わせられる。
冷酷だが徹底して理にかなった仕組み。だからこそ、何十年も続いてきた。
そしてオリバーもまた、その網の目の一部。駒でありながら、駒であることを自覚して生き延びた、一人の暗殺者。
暗殺ギルド『ウラヌシア』第三幹部『オリバー・グレイ』――ギルドでは彼を『執行人』と呼ぶ。
――昼、ザバール村民家『隠された地下室』
一切変わらぬ地下の景色だが、空気はいつにも増して重く、冷たく湿っていた。
聞こえてくるのは、ハルトとダグラスの声。どうやって脱出するか、作戦の立て直しが始まっていた。
「小屋にはもう来ないと思うから、注意していれば、この場所を出ることはできるはずだよね」
「あぁ、隠れる場所がなくなったからな。見張りの目を盗めれば、出ることはできるだろう」
「と、なると、怖いのは、裏に入った後の挟み撃ちだね」
「裏道を使う作戦は、実質封じられたな」
アンは、座る母の膝に頬を埋め、頭を撫でられながら何も無い壁を見つめている。娘の横顔を見下ろすステラも、眉をひそめて口を噤んでいた。
ベッドに横になっているクレアは、左腕で目を覆い、右手は心臓を掴むように胸の上に置かれている。暗殺ギルドに狙われているかもしれないとわかってから、憔悴してしまい、二時間はああして動かない。
「道向かいの路地裏はかなり入り組んでたけど、脱出には使えない?」
「無理だ。あの迷路の出口は、どれも見張りが多すぎる」
「そっか……」
クレアが狙われている現状で、行動も制限されてしまった今、できることは限られる。敵の目を盗む、欺く……何をするにしても、暗殺者たちが相手で通じるとは思えない。
「……何とかして、クレアさんを隠しながら脱出できればいいんだけど」
そう呟いた時、横になっていたクレアが、重い身体をもちあげて、散らかった前髪の隙間から虚ろな目を覗かせた。
「……ハルトくん、私とも契約しようよ。アビスに入れて運んでよ」
「クレアさん……」
万策尽きた、彼女の言葉はそれを暗に語っている。もう、どうすればいいか、彼女は考えることを放棄していた。
「クレア……貴方もこっちにきて」
「……うん」
隣に座り肩にもたれると、ステラの残っていた左手が彼女の頭を支えて撫でた。サラサラと長い金髪が、撫でられる度に僅かに揺れる。
「……あれ、二人って――なんか似てる?」
「ん?何の話だ?」
突然の質問の意図がわからず、ダグラスは首を傾げた。
「いや、なんというか……クレアさんとステラ、背丈も体格も髪の長さも、なんか似てるなって……」
「……あぁ、言われればそうだが」
「似てる二人……クレアさんをアビスに……!!!」
ハルトは勢いよく立ち上がり、輝く目で二人を見た。皆が驚いた様子で視線を向け、クレアは縋るように口を開いた。
「何か、思いついたの?」
「はい。クレアさん、あなたには――アビスに入ってもらいます」