7-2.人の数だけの思い
――ザバール村民家『隠された地下室』
地下室に戻ると、ランタンの柔らかな光が角の影を揺らめかせ、外の夜気の冷たさを少しだけ和らげた。
ようやく緊張が解けたハルトは目を瞑って、ふぅ、と微かに白い息を吐いて心を落ち着かせる。
その時、ペタペタと裸足で走る音が近づいてきて、ハルトの前で止まった。
「ハルト、おかエリ」
「うん、ただい――ま……」
その声に安心感を覚えながら瞼を開くと、目の前に立つ少女の姿を見て、再びの感動と喜びが、胸の奥から湧き上がった。
ボロボロになり、常に固定されていた左翼が、包帯という白いベールを捨て、鮮やかな空色の羽が整然と並んでいる。
「アン……良かった」
喉に詰まった感動を押し出すように、その一言を絞り出した。自然と溢れた涙が、頬を伝って冷たい床に落ちていく。今日は泣いてばかりだ。
「ハルト、見テ」
アンは少し誇らしげに翼を広げて、小さく羽ばたかせて自慢して見せた。ハルトが泣き笑いで頷くと、満足そうに笑顔を見せる。
奥に座るクレアを見ると、額に汗を光らせながら、こちらに向かって、ニッと歯を見せて笑った。まるで「やったぜ」と言わんばかりの表情が、また目頭を熱くさせる。
「クレアさん、ありがとうございます」
「ううん、この子も頑張ったのよ。骨をずらす痛みに耐えてね」
「……そっか、頑張ったね」
「ン、ママと一緒ニ、頑張ッタ」
頭を撫でてやると、照れくさそうに頬を赤らめる。本当にようやく、全てが報われたんだ。この光景は、そう実感させた。
「クレア、お疲れ」
「んーーーっ!ありがとう。脱出ルートは決まった?」
全身で伸びをして、さっぱりとした表情のクレアが、ダグラスに確認を始めた。ハルトも彼女たちの元に歩み寄って、会話に参加する。
「あぁ、ハルトには明日、もう少し確認してもらう必要があるが、大筋は決まった」
「この家の裏から、塀沿いに進むルートです。僕が確認するのは……あの広い通りの見張りの目を、逸らさせる方法だね」
「あぁ。人数は二人。騒げばもっと集まるかもしれないが……いけそうか?」
彼の問いに自信満々に頷いた。自分の役目を理解したときから、既にやり方は決まっていたのだ。いつも通りだと。
「僕には、頼りになる相棒がいるから。僕らの戦い方は、翻弄と連携。――必ず成功させるよ。ね、グラ」
「ワフ」
グラの青白い目の光が、決意に少し揺れた。いつも以上に、気合いが入っているのを感じる。
「頼もしいわね。ありがとう。あとは――」
クレアが見つめる先には、楽しそうに話すアンと母親の姿があった。視線に気づいた母は、アンの手を取り近づいてきてくれた。
「私たちがこれからどうするか、という話?」
「えぇ。あなた達は、このまま霊峰に戻る選択肢もあるんじゃないかと思って」
「エ?」
その言葉を聞いたアンが、突然悲しい顔をしてハルトを見つめた。ハルトがそれに気づくと、今度は母親の顔を見て、不安な表情になる。
「ママ……ハルト……ワタシ……」
「アン……」
ハルトが名前を呼んだが、どうすればいいかわからない様子で、俯いてしまった。母と繋ぐ左翼に、グッと力が入る。
彼女の気持ちに気づいた母は、ゆっくり頭を撫でてから、友人へ言葉を紡いだ。
「……残念だけれど、今霊峰に向かうのは難しいわ。探知した限り、この子を連れて行けるような道には、何人も見張りが立っているみたいなの。私たちも一度、貴方と一緒にこの村を離れるのがよさそう」
その言葉に嬉しそうな、不安そうな、複雑な表情を見せたアン。だが、今は大人たちの話に耳を傾け、口をつぐんでいる。
「だが、そうなると……アンはハルトがいるからいいとして、あんたの姿は目立つ。どうするか……」
ダグラスがそう口にしたとき、母は娘の左翼をより一層強く握り返し、何かを決意した表情でハルトの方へ一歩歩み寄った。
アンと同じ空色の澄んだ目にランタンの火が揺れ、翼を胸に寄せ、深く息を吐く。
「ハルトさん、お願いがあります。……私にも、この子のように――名をくださりませんか?」
仄暗い地下の時間が止まり、空気は一気に彼女の色に染まった。彼女の決意……名が欲しい。それは――
「僕と……契約してくれるんですか?」
「貴方が受け入れてくださるなら。この窮地を抜ける為に、力を貸してください」
「ハルト、お願イ。ママとワタシを……またタスケテ」
もちろん迷いはない。二人が気づかれずに脱出するには、アビスに入るのが最善だ。断るつもりはない。ただ、『契約』の重みを誰よりも知っているから――その言葉が嬉しくて、胸が詰まったのだ。
「――はい!必ず、二人をまた霊峰に連れていきます!」
「ありがとうございます」
この光景を見ていたクレアは、モンスターテイマーという存在の見方がまた一つ変わった。
友を助ける為、人を助ける為、いや、誰もを助ける為にその力を使おうと輝いているハルト。――あぁ、なんて眩しいのだろう。今の彼が、とても羨ましく思えた。
「……あっ、でも一つだけお願いが…………」
「?……なんでしょうか?」
「あの……せめて、その……胸を……か、隠してください」
「ぷっ!あっはっはっはっ!」
「ちょ、ちょっとクレアさん!笑わないでくださいよ」
「いやーごめんごめん!ちょっとタイミングが……ふっ、ふふふっ」
顔を赤くしているハルトをみて思う――やっぱり君は、誰よりも人間らしいよ。
――同刻、ザバール村『崖上の空き家』
すき間風が音を立て、灯りひとつ無い部屋の不気味さを際立たせる。さらに、部屋の中で刃物を研ぐ音が響き、空き家であるはずのここに、人が住み着いていることを知らせた。
崖の下にある、灯りを点さない民家を注視する彼は、昼間の必然とも呼べる運命を、幸運と呼ぶべきか考えていた。
心を許したつもりはないが、あの少年の思いに触れたとき、自分の汚れた生き方がみすぼらしく思えたのだ。
「……らしくないな」
オリバーは首を振って邪念を振り払い、再び刃を磨いた。
研ぎ澄まされていく刃の音が、胸の奥に残る迷いを削り取っていくようだった。
――ザバール村民家『隠された地下室』
依然として、ランタンの灯りだけが部屋の中に暖かな光を運んでいる。通気口から入る冷たい風が、差し出したハルトの左手を掠め、凛と立つ強き母の頬に触れた。
「我が名はハルト、汝に名を与え、新たな絆を結ぶ。力に導かれ、この名を心に刻め――『ステラ』」
言葉に反応するように、彼女の身体が赤く輝く。その身体を闇が取り囲むと、光を喰らうように包み込んだ。
闇が徐々に薄くなり、ゆっくりと身体に溶け込んでいく。その瞬間、首筋には、娘と同じ赤い紋章が刻まれた。
「……契約完了。あなたの名前は今日から『ステラ』です。よろしくお願いします。ステラさん」
「呼び捨てで構いませんわ、ご主人様。娘と同じように、一人の仲間として、頼ってください」
「ご主人様はやめてください。でも……うん、わかったよ。ステラ」
新たに仲間となったステラは、クレアから貰った、白いホルターネックの胸布と、ヒラヒラと靡く青いロングスカートを履いて、大人な女性らしさを一層際立たせた。
クレアは、アンにも欲しいか聞いていたが、シャルから貰ったオフショルダーと短パンを、今は気に入っているらしい。
「ステラ……やっとあなたを名前で呼べるわ。感想は?」
「不思議な感覚よ。まるでハルトさんが、私の中にいるみたいで……この首の印が彼の魔力を、私の奥まで刻んでくれてる」
「ママ、綺麗ダヨ」
「ありがとう、アン」
ステラはそっと自分の首筋に手を触れ、嬉しそうに微笑んだ。
それから、ハルト、クレア、ダグラスの三人は、作戦の詳細を夜遅くまで、入念に確認した。
グラはしばらく隣に座って聞いていたが、気がついたら、丸くなって眠ってしまっていた。
アンとステラは久しぶりの温もりを感じながら、抱き合って眠りについた。この光景を護るのが――次の僕の使命だ。
――翌日、ザバール村『難所の十字路』
高い日差しが降り注ぐ通り。まだ肌寒い中、人々で賑わい活気ある光景を、ハルトは薄暗い物陰から見つめていた。
そこは、脱出ルートがある長屋から、表の通りを挟んだ、向かいの民家近くにある裏路地だった。
探索してみて分かったが、この裏路地はかなり入り組んでいて、身を隠せる場所はそこそこにある。見張りが巡回しているが、目を盗んで進むことはできそうだった。
問題の長屋の裏を抜けた先だが、ダグラスの言う通り二人の怪しい人間が立っていた。交差点を注視していることから、地下室がある民家――ダグラスの家が警戒されているのがわかった。脱出にこの道を使うと踏んでいるのだろう。
「でも、この裏路地なら――きっと大丈夫」
不確かな自信だが、それはハルトの確かな覚悟を、一層強くした。
アン、ステラ、クレアさん……みんなを助ける為の強い覚悟が、暗く冷たい路地裏で燃えた。
ふと、振り返り空を見上げた時、ダグラスの家の向かいの崖上に、この村では珍しい、古い木造の小屋があることに気がついた。孤立したその場所、形、何もかもが異質に感じる。
「……気にしすぎかな?いや、でももし――」
嫌な予感がしたハルトは、フードを深く被り直し、徐々に早くなる鼓動に急かされ、その小屋に向かって歩き始めた――。