6-1.出会いは救い
――昼過ぎ、フォルト王国『北東の森の林道』
森に静寂が戻った。巨体を横たえたラプトルの口や腹からは、なお青い血が溢れ、地面を染めていく。
ハルトは荒く息を吐き、ナイフを手放すと右腕を押さえた。尻尾の一撃をまともに受けたその腕は、すでに真っ赤に腫れあがり、指先すら自由に動かせない。
「……やっぱり使えないか」
彼は苦笑混じりに呟き、痛みを堪えて息を整えた。
「ハルト!だいジョウブ?」
「うん。ヒビは入ったかもしれないけど」
「ワタシが、モット早ク、チカラにナレテタラ……」
「ううん、アンのお陰で、これだけで済んだよ」
涙目で萎れているアンの頭を、左手で優しく撫でた。少し頬を赤らめながら、複雑そうに微笑む。
そして、ふと何かを思い出したかのように、アンはラプトルの死体に駆け寄った。
「……あっ、アッタ。ハルト、これミテ」
アンがかがみこみ、鱗の隙間を覗き込む。そこには白い宝石をはめこんだ指輪が、肉と鱗に食い込むように嵌まっていた。
「こんな所に……どうして?」
ハルトは眉をひそめた。まるで、長い年月を経てラプトル自身の一部になっていたかのようだ。
油壺を取り出し、鱗の周りに垂らす。しばらく擦り込むと、指輪はぬるりと抜け落ちた。手のひらに落ちたそれは、冷たく、妙に重かった。
「ただの指輪……じゃないね。こんな宝石見たことない」
「ン、落トシ物?」
「うーん……」
アンが不思議そうに覗き込む横で、ハルトは言い知れぬ違和感を覚えていた。これは一度鑑定に出すべきだろう。
――と、考えている暇はない。この場所は凶暴な魔物が巣食う危険地帯だ。早くここを離れないといけないが、ラプトルの素材が少しはほしい。
右腕が使えない今、解体は最小限にするしかなかった。腹の傷口から少しだけ肉を切り出し、硬い鱗を二十枚ほど浮かせて剥ぐ。残りは……申し訳ないが、ここに放置するしかなかった。
「急いでバザールに向かおう。アン、マントを持ってくるから、それを羽織って。そのままアビスに入れるから。グラも戻ってて」
馬車から転げ落ちていたバックパックから、真新しいマントを取り出してアンに着せた。そして、痛みを堪えながら右手を差し出す。
不安な表情のグラとアンが完全に闇に沈み切るのを確認すると右手はぶらんと垂れ下がった。食いしばった口がようやく解放され、安堵の息を洩らす。
続けて、ハルトは再び壊れた馬車に近づき、乗せていた荷物を一瞥した。
踏まれていたり、蹴り飛ばされていたり、使えそうなものはほとんど残っていない。馬車自体は屋根が吹き飛んだくらいだが、馬がいなければ使えないも同然だ。
ここまでめちゃくちゃにされると、悲しみの感情は湧いてこなかった。
「命あっただけマシかな……」
呟いたその時だった――。
「これは……」
不意に背後から、静かに地を這うような、低く落ち着いたが聞こえ、咄嗟にフードを被りなおして振り向いた。
立っていたのは、黒い外套に身を包んだ青年だった。褐色の肌に、藍色の髪。無表情のまま、周りの惨状を一瞥する。
「……怪我か?」
低く淡白な声。問われたハルトは、思わず背筋を正す。
「は、はい。ラプトルにやられて……右腕が使えません。それに……馬も逃げてしまって。馬車が、もう……」
声が震え、言葉が尻切れになる。顔を上げられず、唇を噛んで俯いてしまう。
普段なら言葉を選んでしまうところだが、今は取り繕う余裕もなく、口から勝手に事情がこぼれ落ちていく。
青年は無言で視線を馬車へ移す。そのまま近づいていき、ぐるりと一周見て回ると、顎に触れながら押し黙ってしまった。
数秒の沈黙。ハルトの心臓がどくどくとうるさく響く。
やがて、男は短く息を吐いた。
「……行き先は?」
「え、あっ……バ、バザールです」
「同じだ。……馬を貸す。繋げ」
「えっ、い、いいんですか?」
男は答えず、手綱を引いて自分の馬を馬車の前に寄せる。その仕草に迷いはなく、当たり前のように。
ハルトは慌てて頭を下げた。
「……ありがとうございます。本当に助かります……!」
それでも相手は表情ひとつ変えない。ただ、淡々と馬具を結びながら一言。
「急げ。ここは長居する場所じゃない」
そう言って、彼は御者台に飛び乗った――。
青年は巧みに馬を操り、全速力で林道を走り抜けていった。顔を切り裂くような風が前から押し寄せ、髪を無造作にかき乱す。
馬車の揺れが激しく、軋む右腕が悲鳴を上げ、息ができずに浅い呼吸を繰り返した。
だが彼は、目を開けられないほどの突風で眉一つ動かさず、真っ直ぐに前を見ている。いったい何者なんだ。
そして、一気に平原へ飛び出すと、馬は徐々に脚の回転を緩め、呼吸を整えるようにゆっくりと歩き始めた。
「あ、あの、ありがとうございます!」
「あぁ」
「……」
「…………」
「えっと……僕、ハルトって言います。冒険者です」
「オリバーだ」
「……あ、お、オリバーさん。よろしくお願いします」
「あぁ」
「……」
「…………」
なんだろうか。疾走の直後で心臓がまだバクバクと高鳴り続けているのに、彼が冷静すぎて……落ち着かない。
普段は人と関わることが苦手なハルトが、初めて会話を盛り上げる方法を考えた。
無口な人と話すのがこんなに辛いとは思わず、おしゃべりなシャルを尊敬したと同時に、もう少し自分も頑張ろうと反省した。
「あ、あの、オリバーさん。バザールには何しに行かれるんですか?」
「仕事だ」
「へ、へー、結構栄えてるんですか?」
「詳しくはない」
「あ、あははー」
「……」
「…………」
駄目だ。話す以前に自分が口下手すぎる。
もうこのまま、無言で乗っていようと諦めかけた時、チラッとハルトを見たオリバーは、小さくため息をつき、岩戸のように重たい口を開いた。
「すまない。普段から人と話さないから、苦手なんだ」
「あ……そうなんですね。僕もそうです。最近は頑張ってるんですけど、なかなかうまくいかなくて」
「環境や性格でも向き不向きが別れる。気にするな」
「――はい」
オリバーの声は、まるでハルトの境遇を知っているかのように、ハルトの心に語りかけた。くぐもっていた蟠りが、水に流され、解けていくように感じる。
「あの、オリバーさ――」
「肩に蜘蛛がついてるぞ」
「え?あっ」
急いで肩を払い、再びオリバーの顔を見ると、薄ら口角が上がっているのに気づいた。これ以上は無理に話さなくてもいい。この距離感が一番心地いいんだと気づき、開きかけた口を閉じる。
そして、目の前にある景色を見て、落ち着いた心をまた少しだけ弾ませた。
雲を突き抜けるほど高く、こちらと向こうで地を分つ巨大な山。むき出しの白い岩肌に雪を積もらせ、降り注ぐ太陽の光が全てを輝かせている。
ここが、フォルト王国最北端のにして最大の山――霊峰『ペールドット』だ。