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暗い闇の底にある黒い穴

作者: 死んだ朝

 俺たちが乗る船はあと数分もすれば沈没する。俺は海の底に沈んでしまい、二度と地上へと浮かび上がることはない。皆が必死に海から逃れようと身体を動かしている。船に侵入した海水を取り除こうとする者、海水が溢れ出している穴を塞ごうとする者、とにかくに上へと向かおうとしている者、呪文なのか念仏なのか分からない言葉を呟きながら神様に助けを求めている者がいた。そんなことをしたって状況は何も変わらないのに。俺たちの運命はすでに決まっているはずなのに。ここに希望なんていう言葉は存在しないのに。俺はもうすでにすべて諦めてしまっているというのに。

 俺はこれからのことを考えている。今の状況を受け入れた先の景色を見ている。海の底に沈んでいく。海よりも深い場所へと堕ちていく。その中で俺はきっと今までの人生を振り返っているであろう。何も成し遂げることができませんでした、と反省しているであろう。人を貶めるようなことしかしなかった俺が堕ちる先はきっと地獄であろう。ずっと考えていたことがあった。死ぬ機会が訪れたとき、俺は何もかも受け入れよう。受け入れた先がどんな残酷なことであっても、だ。

「そこの君手伝ってくれ!」

 船の底に空いた穴を必死に塞ごうとしている、長年酒で満たされたことによって膨れた腹を持っている四十代の男性が俺に声を掛けてきた。そんなことをしても何の意味もないことを彼は知っているのであろうか。本当にこの状況を打破できると思っているのであろうか。本気で思っているのであれば一度病院へ行くとよい。そうすればすべてが解決するであろう。なあ、君もそう思うであろう。俺だってこんなこと信じたくないよ。自分の頭がおかしいのだと疑ってしまうほどに。ああ、今すぐに病院へ向かってこの世界から抜け出したい。そうすればこの退屈な時間もすぐに終わりを迎える。エンドロールが流れて無事に部屋の明かりは点いて俺の心は明るくなっていく。

「おい!聞いているのか!」

 はっきりと彼が言う言葉が聞こえてくる。だからこそ反応に困ってしまう。彼の問いに答えたとしても結果は何ひとつ変わらない。この場だけでも俺は適当に返事すべきであったろうか。もしもそうだとしても、それは彼の都合であって俺にはまったく関係のないことだ。俺にはやるべきことがある。ここで宣言するべきことではないだろう。俺がこの場で言ったことはどんな凄惨なことが起こったとしてもやり遂げなければならない。仕事が面倒だからと、適当な理由をつけて有給休暇を無駄に消費することはできない。年中無休のブラック会社に勤めるように必死にそのノルマを達成しなければならない。だから、この場では軽い気持ちで発言をしてはならない。きっと君には分かってくれるであろう。そう信じることで、これからするべき行動が限定することはない。

「おい!いいからこっちに来い!」

 こんな場所であっても俺は役に立つことはできそうになかった。この船が沈む原因は一体誰が作ったのであろうか。そんな疑問が頭に浮かんだがその答えはきっと見つかるはずがない。見つかったとしてもそれはすべてまやかしだ。ここに答えなんてない。それはすでに沈没予定の船であって、俺たちを乗せる船ではない。原因はもともと存在なんてしなくて、線路の上を通る電車のようにルート変更はなしであろう。だから、こんな疑問が頭に浮かぶこと自体がおかしなことである。問題なんてないのに、解答するために必死に公式を解こうとするようなものだ。

「おい!頼むからこっちに来てくれ!」

 俺は目を瞑る。そうすることで景色はすべて黒に染まる。もともと沈む船は存在しないことになる。瞼の裏側の景色を想像することになる。その間に舞台の上にいる演者たちが急いで別室へと移動する。その間にスタッフたちが沈んだ船を回収する。ポンプを持ち出して海水をすべて吸い上げようとする。空や向こう側に見える島などの背景を取り壊す。太陽に模したライトの光を落とす。どこかにあるスピーカーから流れている海や風などの自然の音を消す。

 そして俺は目を開ける。そこに広がっている景色は俺の部屋だった。今まさに瞼の裏側にある景色と目に映る景色が逆転した。あの潮の臭いはどこにもなく、ここには汗のせいで俺の身体から放っている悪臭だけしか残っていなかった。どちらが正常な世界であるのかはここで問うべきことではないであろう。今あるこの目の前の景色が現実である。同時に先ほどまで見ていた船が沈んだあの景色は妄想へと成り下がった。元現実と呼ぶべき世界になってしまった。それはどんなことをしても覆すことのできない紛れもない事実である。それを否定するための根拠はどこにもない。そして、そのことを知っているのはこの俺たったひとりだけである。他人からすれば俺の言っていることは理解できないであろう。妄想に取り憑かれているだけであろうと君は言うだろう。だけど、俺は現実を移動したのは確かなのだ。テレビのチャンネルを変えるようなものであろう。今見ているチャンネルだけが進行していて、裏番組である他のチャンネルは止まっているかもしれなかった。テレビはリモコンで切り替えるが、俺の場合は目を閉じることで現実を移動できる。だが、テレビのように見たい番組に切り替えることができない。目を閉じた状態でリモコンを押しているようなものである。何の意味もないボタンを押すこともあるだろうし、同じボタンを押す可能性だってある。すべてランダムに決められることになる。

「さっきからお前は何やってんだ?」

 その言葉を発す人間は限られている。それは高校時代からの友人である。俺は自分の玄関のドアのカギを閉めることはしないため、それを知っている友人は呼び出しボタンを押さずに無断で入ってくる。事前に連絡することもないので、俺が家にいればいつでも出入りし放題である。もちろん俺が出掛けているときはこの玄関のカギは閉めてある。つまりは俺がどの時間帯にこの家にいるのかを把握している。俺の行動には限りがあった。平日は夕方まで仕事をしているし、休日はほとんど部屋で本を読んでいた。買い物がある場合はその友人と一緒に出掛けていた。俺の一日の行動を知っているのであれば、どの時間帯に家にいるのかは明白であった。そもそも友人は俺の家の合鍵を持っていたかもしれない。思い返してみれば、いつのまにかゴミが増えたりしたこともあるし、本が少し減っていることもある。盗んでいるのではなく借りているはずなので、一週間もすればその本はもとの本棚にあった場所に戻っていた。そうだった。合鍵を持っていたから俺が家にいようがいまいが関係ない。時間なんて気にせずに出入りが自由である。彼は金に困っているというわけではないから、俺の家のものを盗むような行為はしないであろうと信じ切っていた。それは今でもそう思っている。だからこそ、合鍵を渡しているのである。

「まあ、いいや。借りた本返すね」

 そう言って渡した本は俺の買った本だった。だが、俺が好んでいるものではなかった。ベストセラー小説を持っていること自体、俺は不思議で仕方がなかった。こうして友人が俺に渡してきているのだから、俺が買ったということは確定している。舞城王太郎、佐藤友哉、中原昌也、阿部和重、諏訪哲史、高橋源一郎、小島信夫、大江健三郎、中上健次、ボルヘス、フリオコルタサル、ジョンバース、トマスピンチョン、フィリップKディック、チャールズブコウスキー、セリーヌが本棚に並べてあるはずだった。東野圭吾、池井戸潤、宮島未奈、浅見秋成、原田マハなんて俺は持っていない。俺は世間とズレているはずだった。ベストセラーの本を意味もなく忌むべき存在だと睨み続けている。その本たちがどうして今この本棚に並んであるのであろうか。

「おい、受け取らないのか?」

 友人はそう言って東野圭吾の「容疑者Xの献身」を本棚に戻そうとする。その瞬間、俺の本棚がおかしくなってしまった。俺が持っていたはずの全集がすべて別の本に置き換わっていた。テレビやネットで話題になっている本に成り代わっている。俺が必死になって集めた一般流通していない本が消えていった。俺は友人が置いた本を取り出してビリビリに破り捨てた。そうすると世界は正常に戻る。どれが正確な世界であるか、俺には分からなかった。ベストセラーが並んでいる本棚が真実だったのかもしれない。日常生活で話題に上がらないような本が並んであるのが偽物だったかもしれない。少しだけ疲れている。昨晩食べた肉が腐っていたのかもしれない。この話は今の俺にとっては毒であろう。胃腸薬を本棚から探そうとする。汗が目の中に入って俺は瞼を閉じてしまう。

「あの、大丈夫ですか?」

 瞼を開けると俺はアスファルトに膝を付けて、手で腹を押さえていた。そんな状況を見て誰もが通り過ぎるが、ひとりの女性が声をかける。顔を上げるとそこには俺よりも少し年上の小綺麗な人がいた。その人は保育士だったため、自然と柔らかい表情をしていた。優しくされることに慣れていない俺はしどろもどろに礼を言った。伝わらなかったのか彼女は俺の顔を不思議そうに見ていた。女性と接する機会があまりにもないため、全身が震え始めていた。今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。

「起き上がれますか?」

 彼女は俺の肩を抱えて起き上がらせようとする。全身から汗が流れて彼女の服を少し汚してしまう。大丈夫ですと声に出そうとしたが、腐った肉が詰まっていたのか、喉が上手く開こうとしなかった。口の中に指を突っ込んで胃の中にあるすべてを吐き出してしまいたかった。そうすればこの状況も変わることができるのではないだろうか。

「あそこのカフェで休憩しましょう」

 彼女が指した場所は俺の父が営んでいるカフェだった。元々電気屋を営んでいたが、量販店に客をほとんど取られてしまい、経営が厳しくなって始めた店だった。そこには兄が集めていた本が置いてある。少なからず俺が残していた本もあるはずだ。懐かしい気持ちが蘇ってしまい、余計に死にたくなってしまう。俺は断ろうとしたが、それを彼女に伝えるための言葉を持っていなかった。

「安心して、お金は私が出しますから」

 店内に入るとそこに父はいなかった。父と一緒に暮らしている姉すらもいなかった。見知らぬ人間がそこにいた。俺は一度店を出て店名をもう一度確認した。声に出すのも恥ずかしい父の名前をもじった看板がそこにはあった。俺の記憶に間違いがなければ、ここは確かに父が営んでいるカフェであった。俺はその見知らぬ人間に父のことを訊こうとしたが、ここが親の店だと彼女にバレてしまうのだけは避けたかった。

「ここの店って落ち着くんですよね」

 彼女はどうやらこの店の常連客だった。店内に派手な装飾はなく、最新の流行りの音楽を流さずにクラシックのみを流していたため、彼女の言う落ち着く空間であることは確かである。そして本棚は若者が読むような本はなく文豪と呼ばれるものしか置いていないはずだった。彼女は席に座る前に本棚から一冊の本を取り出す。その本のタイトルは宮島未奈「成瀬は天下を取りに行く」だった。おかしい、ここにあるのは兄が今まで集めた本ばかりである。それなのに誰もが読んでいるような本が置いてあるはずがなかった。俺はカフェに置かれている本棚をもう一度見てみる。そこにあったのは友人が本棚に置いた時に成り代わってしまった本ばかりであった。俺は彼女の持っている本を奪い取って、すべてのページを破り捨てる。そしてカフェのトイレに駆け込む。和式であったはずのトイレがいつの間にか洋式に変わっている。俺は静かに呼吸をし始める。きっと何かの間違いだと体内で暴れている感情を落ち着かせようとする。瞼を閉じてもう一度だけを目を開ける。するとそこに見えるのは俺の過去だった。

「母が死にました」

 それは医師の言葉であろうか。だが、医師がそんな直接的な言葉を使うはずがなかった。これは父であるのか、それとも担任の先生であろうか。姉の可能性も出てきた。入院をしている兄かもしれない。母自身が最期の遺言として言った言葉かもしれない。それとも現実逃避している俺に対して、友人が現実に向き合ってもらうために声を掛けた言葉かもしれない。何もかもが曖昧であって、何もかもが明瞭になってくる。正しいか正しくないかなんて未来を生きている俺には判別がつかない。真実は過去にあって、それは俺がもう捨ててしまったものである。過去はもう現実ではなくなっているのである。記憶として、映像として、ひとつの映画として、それは存在し続けている。母が癌で死んだとしても、今の俺にとって母は癌で死んでしまった人でしかない。君には分からないだろうけど、俺もすべてが分かっているわけではない。それに上手く話すことができない。言葉が不自由なせいである。読書ばかりしているのにそれを表現するための言葉が見つからない。他人の言葉を理解することはできるが、それを伝えるための手段が俺にはない。

「強く生きなければならない」

 葬式の日に誰かが俺に対して肩を叩いて言った言葉だ。その人は見知らぬ人間だった。ああ、そうだあのカフェで働いていた人間とそっくりである。よくよく見れば高校生の頃の担任に似ているではないか。どうして今まで気づかなかったのだろうか。俺が高校を卒業してもう八年くらいは経っているのではないだろうか。俺は一度もあの忌々しい学校に挨拶しに行っていない。どうせ俺のことなんて誰も覚えていないだろう。葬式に来た人間たちが俺の顔を覗き込む。ちゃんと泣いているのかと監視をし始める。霊柩車に乗る前に俺は耐えることが出来ずに涙を流していた。霊柩車の中は俺のすすり泣く声だけが響いていた。父のように同情を誘うような泣き叫ぶ演技ができたらいいのに、姉のように状況把握が出来ない状態だったらいいのに、兄のようにイヤホンをして現実を遮断できればいいのに、母のように棺桶のなかで静かに眠れたらいいのに、俺はどこまでも中途半端だった。泣いているのか笑っているのか分からないくらいに感情がバグってしまっている。俺は強く生きることも弱く生きることもできない。俺はこの暗い気持ちを抱え込みながら日々を過ごさなければならない。姉や兄のように社会から隔離されることもなく、父のように現実に立ち向かうこともできず、母のように空へと旅立つことすらできない。俺はただ現状を受け入れることしかできない。時間が過ぎるのを耐えて耐えて、誰かのために生へとしがみつく。それが俺の人生だった。

「おい!いいからこっちに来い!」

 瞬きをしただけで世界が移り変わり始めてくる。現実、妄想、創造、過去、未来が混ざり合っていく。時間軸が裁断機へと無造作に突っ込んだかのように切れていく。バラバラになった時間軸を接着剤などにつけてもとに戻そうとするが、裁断される前の本来の姿を取り戻せなかった。俺の過去だったものが未来になったり、俺の妄想が現実になったりしている。正しいものなんてどこにもない。あるのは今目の前にある景色だ。全身汗が噴き出しており、そこから異臭を放つ。意識が失うほどのひどい臭いだった。どんなに身体を石鹼で擦っても落ちることはない。それはずっと俺の身体にくっ付いている。時間軸がどんなに崩れていたとしてもこの臭いだけは変わることがなかった。俺はちゃんと現実を生きているんだと自覚させる。何度も景色が移り変わることで矮小な脳の中で情報が倍増してすぐにパンク状態になってしまうが、この悪臭が俺の脳に溜まった情報を抜いてくれる。

「あの、大丈夫ですか?」

 誰かが俺の肩を叩いた。それは担任だった。それは父だった。それは兄だった。それは姉だった。それは母だった。それは友人だった。それはまったく知らない人間だった。それは俺自身だった。それはこの世界のどこにも住んでいない人間だった。俺はその正体不明な人間を殴ろうとした。そんなことをしても何の意味もないことは分かっていた。その殴ろうとした人間は、担任かもしれない。父かもしれない。兄かもしれない。姉かもしれない。母かもしれない。友人かもしれない。まったく知らない人間かもしれない。俺自身かもしれない。この世界のどこにも住んでいない人間かもしれない。そんな情報が混ざっている人間に対してやれることはひとつだけだった。瞼を閉じて、時間が過ぎるのを待つだけでいい。その中で俺は誰かを想像しているであろう。担任のことであろうか。父のことであろうか。兄のことであろうか。姉のことであろうか。母のことであろうか。友人のことであろうか。まったく知らない人間のことであろうか。俺自身のことであろうか。この世界のどこにも住んでいない人間のことであろうか。

 俺は閉じていた瞼をこじ開けた。

「働く気あるの?」

 どうして俺は今も働いているのであろうか。俺には夢があったはずだった。こんな専門知識ばかりが必要となるSEがやりたいのではない。きっと悪い夢を見ているに違いない。瞼を閉じて開ければ俺の望む世界がそこにあるはずだ。それなのに、そのはずなのに、どんなに瞬きをしても世界が移り変わることはなかった。チャンネルを切り替える部品が壊れてしまったのか、それとも本体である俺自身がおかしくなってしまったのだろうか。俺は自分の頭を何度も何度も叩いた。だが、出るのはフケばかりであった。現実は変わることはなく、俺は仕方がなく仕事をしていた。仕事に熱量がないのは当然のことだった。元々望んだ職業ではないからだ。生きるために仕方なく就職活動していたら、いつの間にか身の丈に合わない職に就いてしまったのだ。辞めていいというのであれば、今すぐにでも上司に辞表届を出せるのに。

 俺には夢があった。小学生の頃から抱いていた夢で、そのために色んな本を読んでいた。作品も数えきれないほど書き上げてきた。だが、どの作品もクオリティが低く誰にも評価されることはなかった。誰もが感動するような物語、誰もが驚愕するような物語、誰もが戦慄するような物語。俺にはそんなものを書く技量がなかった。人生で三回ほど新人賞に応募したことがある。一回目は織田作之助青春賞、二回目はメフィスト賞、三回目は文學界新人賞、全部ダメだった。届いたハガキは一次選考の落選の通知、電子で買った雑誌にはどこにも俺の名前が載っていない、店頭に並んだ雑誌を立ち読みしたがそこにも名前が載っていない。間違い電話のはずなのに、編集部からの電話だと勘違いして、着信があった番号に折り返し連絡して、自分が応募した作品のことを語った。電話口にいる男性は困惑しながら、間違い電話であることを丁寧に伝えていた。恥ずかしくなった俺は急いで電話を切って、泣きそうになりながらその場に蹲った。俺は才能がなかった。どんな作品を書いたところで俺が評価されることなんてない。だって何ひとつ面白いことが書けないのだから。

「向いていないよ」

 そんなことは初めから分かっていたよ。何もかもが中途半端だった。逆に教えて欲しいよ。俺は何が得意でどうすれば自信を持って、この仕事に精を出すことができるんだ。どんなに自己分析しても悪いところしか出てこない。こんな現実を望んだわけじゃない。きっと素敵な未来がそこにあるはずだと信じていた。だけど、そこにあるのはどうしようもない現実だった。俺はまた仕事を失敗する。上司に言われたことすらも満足にこなすことができなくなってしまう。原因不明な腹痛に悩まされる。何度も病院へ行く。処方された薬を飲む。それでも腹の痛みもなくならない。内視鏡検査をした次の日に救急車で運ばれる。会社や家族に迷惑をかけて、それでもこの腹痛の原因は分からなかった。もう俺は生きることに向いていないのかもしれない。いっそのこと死んでしまった方が世の為になるかもしれない。

「あの、大丈夫ですか?」

 俺は地面に向けて吐き出していた。朝も昼も食事をしなかったため、胃の中は空っぽだった。酸っぱい胃液だけを吐いている。誰もが素通りしていく中でひとりの女性だけが俺に声を掛けてくる。それはどこかで見たことがある女性だった。

「起き上がれますか?」

 俺の身体に触れようとしたその女性の手を振り払って俺は走り出していた。もうたくさんだった。どこか誰も知らない場所へと走った。もう俺のことを放っておいてくれ。そっとさせてくれ。あの人々のように素通りをしてくれ。君の言いたいことは分かるよ。そんな風にアピールしているだけで、本当は心配して欲しいんだろ。

 俺はかまってちゃんだよ!

 それも究極の質の悪いかまってちゃんだよ!

 君がそう納得してくれるんなら、それでいいよ!

 もう俺は見たくないんだ!

 現実を映さないでくれ!

 俺は瞼を閉じた。この暗闇の中でいるだけでいい。そうすれば、俺は現実から逃げ出すことができる。現実から目を背ける。この状態のまま一生を終えてしまってもよいかもしれない。この苦痛だって感じずに済む。

「おい!いいからこっちに来い!」

 俺たちが乗る船はあと数分もすれば沈没する。俺は海の底に沈んでしまい、二度と地上へと浮かび上がることはない。皆が必死に海から逃れようと身体を動かしている。船に侵入した海水を取り除こうとする者、海水が溢れ出している穴を塞ごうとする者、とにかくに上へと向かおうとしている者、呪文なのか念仏なのか分からない言葉を呟きながら神様に助けを求めている者がいた。そんなことをしたって状況は何も変わらないのに。俺たちの運命はすでに決まっているはずなのに。ここに希望なんていう言葉は存在しないのに。俺はもうすでにすべて諦めてしまっているというのに。

俺はもう笑うことしかできなかった。逃げる場所なんてどこにもなかった。この現実を受け入れることしかできなかった。いつの間にかチャンネルを切り替える機能が正常に戻っていることに気付く。ここがどういう場所であるのか改めて自覚させられる。さっきまで見ていた世界はただのバグに過ぎないのであろう。俺は瞬きをして、そのたびに世界が切り替わることを確認した。着実に俺はある場所へと向かっていた。海の底へと沈んでいくようにゆっくり進んでいた。きっと俺は助かることはないのであろう。ベストセラーにあるような劇的な最期を迎えることはなく、主人公である俺自身が成長する出来事が起こるわけでもない。ただ、苦痛が続いていくだけである。電車のホームにいるような気分であった。俺はそこで電車が通りすぎていくのをただ待ち続けている。

 瞼を閉じるとその内側から塩の混ざった水が生まれてくる。それは止まることなく、外へと流れ出そうとしている。蛇口を捻ったかのように、その水の勢いが強くなってくる。瞼だけでは抑えることができなくて、俺は目を開けてしまった。そこに映った場所は船であった。俺の目から流れている水によって船は沈んでいく。誰もが地上へと向かおうと必死になっている。俺だけが何もせずに涙を流していた。船は俺の涙で満たされてしまい海の底へと沈んでいく。そして船に乗っていた全員が溺れていく。俺自身も沈んでいる。暗い底の見えない海に沈んでいく。船はどこにあるのか、それを探したところでもう見つかることはないだろう。俺の意識は遠のいていく。

「おい!いいからこっちに来い!」

 海の上で空いた穴は手で抑え込んだだけではどうしようもなかった。そんなことをしたって何の意味もないことは分かっているはずである。現に俺は海に沈んでいる。もう少しすれば息絶えて、この世界との接続が切れてしまう。それでもその男はずっと俺に助けを求めていた。他の人間がいるなかでどうして俺だけに対して叫び続けているのだろうか。何もできない俺よりももっと頼れる人間がいるはずだった。沈む船の中で俺だけがすべてを諦めていた。海の底へと沈むことを望んでいた。

「あの、大丈夫ですか?」

 俺は地面の上にいた。そこで溺れかけていた。俺は空気中にある酸素を急いで肺に取り込もうとして咽てしまう。その勢いで胃の中にあったものを吐き出してしまった。俺が吐き出したものは胃液ではなく、破り捨てた本の切れ端の大群だった。飲み込んだ記憶なんてはないが、そんな曖昧な情報に対してわざわざ正しさを求める必要はないだろう。今破り捨てた本の切れ端を吐き続けている、それだけの事実があれば過程なんてどうでもいい。俺はまだ吐き続けていた。きっと一冊の本になるまでこの行為は続いていくだろう。ようやく吐き終えたときは、俺の予想した通り本は一冊になっていた。切れ端だったものがパズルのようにひとつひとつ嵌っていく。俺が手を動かしてやっているわけではなくて、自然の摂理であるかのように勝手に嵌っていく。そして、その出来上がった一冊の本は俺が書いたものだった。出版なんかされていないため、これはただの空想である。俺はその本を破り捨てた。

「おい!お前何しやがる!」

 ある日、家へ戻ると本棚の前に友人が立っていた。俺の知っている友人であるかどうかは判別できなかった。いつも家に来る友人と別の人間が混ざっている気がした。何かマズイことが起こっているのではないかと疑い始める。本棚の前にいる友人の肩に手を置いた瞬間、そこに電源スイッチがあったのか友人は急に本棚に並んである本を乱暴に取り出して、敷いてある布団の上に叩きつけた。本棚に並べてあるすべての本は俺が普段寝ているベッドの上に集められていた。そして、友人はポケットからマッチを取り出して火を付けた。それを積まれている本の上に投げ捨てようとする。

「おい!お前何しやがる!」

 俺は友人の腕に嚙みつこうとした。そこには俺の人生が詰まっている。頼むから燃やさないでくれ。俺の必死の頼みも彼には届きはしなかった。色んな書店を巡って手に入れたものやネットで見つけた怪しげなサイトから購入したものが炎によって灰に成り代わる。俺は叫んでいた。友人は俺の顔面を思いっきり拳で殴った。その瞬間、脳内が揺れて俺の意識が失う。記憶が、映像が、妄想が、ミキサーの中に入れたように混ざり合って、俺の頭が正常に働かない。景色が移動している、地球の自転と公転の周期が地球儀を回しているかのように滅茶苦茶になっている。そして、その進みゆく景色の中で君が笑っている。未だに視点が定まっていない。

「あの、大丈夫ですか?」

 誰かの声が聞こえている。お前は誰だと俺は必死に訴えているが、その声が届くことはないだろう。なんだよ、俺をそんな目で見るなよ。お前の魂胆は分かっている。どうせ俺が目を瞑れば何事もなかったかのように舞台から降りるくせに。心配しているのはきっと今だけに違いない。

「おい!いいからこっちに来い!」

 瞼の裏側にある景色が俺の現実へと浸食してくる。もうやめてくれ!俺から何も奪わないでくれ!必死になって俺は目を閉じた。その間にもいくつもの声が重なって聞こえてくる。俺は静寂になるのを待ち続けた。ひとつのスクリーンに無理矢理いくつもの映画を流そうとしているようだった。その上演が終わるのを俺は静かに待ち続けている。そして、目を開ければそこには白衣を着た男性がいた。それだけの情報でここがどこで今自分が置かれている状況を瞬時に理解した。限界を迎えていた。もう俺はどこにもいない。これからは何もかも失ってしまう。

俺は最後に目の前の男にひとつだけ訊いてみた。

「なあ、今の俺はどんな色をしている?」

































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