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ニューヨークの番長  世界ミドル級チャンピオン ロッキー・グラジアノ

作者: 滝 城太郎

シルベスター・スタローン主演の映画『ロッキー』の主人公ロッキー・バルボアの原型は、世界ヘビー級チャンピオンだったロッキー・マルシアノだが、同じイタリア系でマルシアノ以前に全米を沸かせたもう一人のロッキーがいた。それがここに紹介するロッキー・グラジアノである。

 ファイティング・ニック・ボブというリングネームで一時期リングに上がっていた父親のニックから三歳から兄と一緒にボクシングを教わったのが、グラジアノとボクシングの出会いだった。

 少年時代はロアーイーストサイドのストリートギャングの一員として喧嘩に明け暮れ、シャバと少年院の往復を繰り返していたが、ボクシングを通じて更正し、アマチュア選手として活躍する。

 ストリートギャング時代に知り合ったワル仲間の一人が、彼より後に世界ミドル級チャンピオンになるジェイク・ラモッタで、ストリートファイトで一時間も殴り合いながら決着がつかず、互いを認め合う仲になった。

 ストリートファイトで鍛えただけあって、アマチュアでもトップクラスの実力を誇っていたにもかかわらず、グラジアノは練習嫌いのため、当初はプロで飯を食うつもりはなかった。しかし、アマの大会で獲得した金メダルが十五ドルで売れたことで、ボクシングが金になるスポーツであることを悟り、プロ入りを決意したという。

 途中に軍隊生活を挟み、長らく下積みに甘んじていたグラジアノが、一躍注目を浴びるきっかけとなったのは、一九四五年三月九日に行われたビリー・アーノルドとの一戦である。

 十八歳のアーノルドは、デビューからわずか一年半のキャリアで二十六勝一敗(二十四KO)一引分けという素晴らしい戦績を誇るオーソドクスな強打者で、ジョー・ルイス二世の呼び声も高かった。二ヶ月前に元世界ウェルター級チャンピオン、フリジィ・ジビックの百戦錬磨のテクニックの前に強打が空転し、若さを曝け出してしまった(僅差の判定負け)とはいえ、グラジアノのようなブルファイター相手なら力でねじ伏せてしまうだろうという見方が圧倒的だった。したがって賭け率は六対一で、グラジアノが圧倒的に不利だった。

 副大統領のハリー・トルーマンまでが観戦した注目の一戦は、リーチとフットワークで劣るグラジアノが初回から打ち込まれる苦しい展開だったが、恐るべきタフネスで窮地を凌ぐと、三ラウンドには逆襲に転じ、三度のダウンを奪って逆転KO勝ち。アップセット・オブ・ジ・イヤー(年度最高の番狂わせ)に選出されたこの一戦をきっかけにグラジアノが一気にスターへの階段を駆け上っていったのとは対照的に、アーノルドはその後鳴かず飛ばずのまま短いリング生活を終えている。


 ここからグラジアノの快進撃が始まった。現役世界ウェルター級チャンピオン、フレディ・コクランとのノンタイトル二連戦(六月、八月)で、いずれの試合も最終十ラウンドに劇的なナックアウト勝利を飾ると、同年九月には二十一連勝中のミドル級トップランカー、ハロルド・グリーンを右一発でKO(三ラウンド)。翌一九四六年三月には、世界ウェルター級王座についたばかりのマーティー・サーボをこれまた番狂わせの二ラウンドKOで仕留め(ノンタイトル戦)、ミドル級世界戦をぐっと引き寄せた。

 マーティー・サーボ戦は前年に引き続き「アップセット・オブ・ジ・イヤー」に選出されているが、それもそのはず、アマチュア時代から数々のタイトルを手にしたサーボは、プロ入り後も四十二連勝を記録したこともある一流のテクニシャンである。過去の二度の敗戦はいずれもシュガー・レイ・ロビンソンに接戦の末敗れたもので、実力的には「中量級最高のリングマスター」と甲乙付けがたいものがあっただけに、荒削りなグラジアノでは勝負にならないと見られていた。

 ところがグラジアノの喧嘩殺法はまさしく規格外で、二ラウンドに右フックで鼻を粉砕されたサーボはあえなくKO負け。しかも鼻の怪我が完治せず、その後間もなく引退に追い込まれたのだから、箔付けのつもりでグラジアノとの対戦を安請け合いしたアル・ウィル(後のロッキー・マルシアノのマネージャー)にとってはまさに踏んだり蹴ったりだった。

 ビリー・アーノルドに続いて、またしても次代のホープを叩き潰したグラジアノは、今やヘビー級のジョー・ルイスをも凌ぐ人気ボクサーとしてニューヨーク中にその名を轟かせる存在となった。


 一九四六年九月二十七日、ようやくグラジアノに世界挑戦の機会が巡ってきた。当時の世界ミドル級チャンピオンは『鋼鉄の人』と謳われた屈強なタフガイ、トニー・ゼールである。一九四〇年に世界タイトルを奪取したゼールは、すでに三十二歳のベテランながら鉄槌のように重い左フックの破壊力にはいささかの衰えも見られず、この試合も初回からいきなり左フックで挑戦者からダウンを奪う好調な滑り出しを見せた。

 グラジアノも負けてはいない。二ラウンドには叩きつけるような右フックでお返しのダウンを奪うと、若さにモノを言わせて息つく暇もない連打で王者を追い詰めてゆく。そして迎えた六ラウンド、すでにグロッギー気味の王者にとどめを刺そうと大振りのパンチを振るうグラジアノのがら空きのボディを、ゼール渾身の右アッパーが深々と抉った。あまりの衝撃に一瞬動きが止まったところに返しの左フックが命中。首がねじ切れんばかりの一撃に、グラジアノは後頭部からキャンバスに叩きつけられそのままカウントアウト。劣勢だったゼールの見事な逆転KO勝利だった。

 勝利はゼールがつかんだが、シーソーゲームの展開をみてもわかるように、この時点での両者の実力は全くの互角だった。ところが試合前の賭け率は何と十対一でグラジアノ支持が圧倒的だった。なぜこんなことが起こったかというと、全てはグラジアノ人気の成せる業だった。いかに多くのファンが、賭けによる儲けは度外視してでも、グラジアノに勝ってもらいたかったかの証である。


 この第一戦が『リング』誌選出による一九四六年度の最高試合に選ばれるほどの熱戦だったため、十ヶ月後の七月二十六日、早速リターンマッチが実現した。

 序盤はほぼゼールのワンサイドだった。ゼールの正確なパンチで左瞼を切り裂かれ、視界のおぼつかないグラジアノは、三ラウンドにノーカウントのダウンを喫するなど防戦一方のまま五ラウンドを迎えた。カットマンが傷口から血を吸い出してくれたおかげで一時的に視界が甦ると、起死回生の右クロスでついにゼールからダウンを奪い返した。

 続く六ラウンドは、この夜の異常な暑さで予想外に体力を消耗していたゼールの動きが明らかに鈍くなっていた。グラジアノとしてはこの機に乗じて得意の乱打戦に持ち込みたいところだったが、左のカウンターを浴びては元も子もない。そこで正攻法を捨てて、腰のバネを利かせてジャンプして飛び込むような右フックを繰り出すと、これが面白いように命中した。トリッキーな動きに幻惑されて距離感がつかめないゼールは、左を合わせるタイミングがつかめず全く反応出来なかった。

 このパンチこそ、グラジアノの十八番“ルーピング・ライト”と言われる独特のロングフックである。

 グラジアノの右は破壊力はあっても、モーションが大きいため、射程距離をある程度見切ってしまえば左のカウンターを合わせやすい。ところがルーピング・ライトは、爪先がキャンバスから離れるほど伸び上がって打ってくるため、その時の跳躍距離によって射程距離が変わり、普通のフックと思ってよけたつもりが、予想以上に伸びてきてクリーンヒットになってしまうやっかいなパンチなのだ。

 前回の勝利で、グラジアノの怒涛の喧嘩殺法も、じっくりカウンターで狙い打てば勝機が見出せると確信していたゼールは、逆にカウンターが封じられたことで舞い上がってしまったのだろう。いつもの冷静さを失い、一方的に打ち込まれた。

 最後は成すすべもなくロープに寄りかかったゼールに情け容赦ないフックの連打が浴びせられたところで、レフェリーからストップが入った。この瞬間、かつてのイーストサイドの不良少年が世界ミドル級の頂点に立ったのだ。


 地元ニューヨークでの凱旋パレードはまさしく圧巻だった。今やニューヨークっ児のアイドルとなったグラジアノは、一昔前までは自分を目の仇のように追いかけ回したニューヨーク市警の警官隊を護衛に従え、得意満面の笑みで万雷の拍手と歓声に応えていた。

 しかし、絶頂の時期は短かった。ゼールとの第二戦も一九四七年度の最高試合に選ばれたとあっては、巨額の収入が見込めるラバーマッチの機会をみすみす逃してしまうようなプロモーターなどいようはずがない。

 十一ヶ月後の一九四八年六月十日、両雄は三たび激突した。今回も最初のダウンを奪ったのはゼールだった。一ラウンド半ば、思い切りよく踏み込んだゼールが左のダブルを叩きつけると、グラジアノはロープまで吹っ飛ばされカウント3のダウンを取られたが、これでギアが入ったのかすぐさま立ち上がり左右のフックをぶんぶん振り回しながらゼールに肉薄する。

 前回の対戦でゼールをKOしたグラジアノは、自信過剰に陥っていたのかもしれない。二ラウンドは互いに右の強打をクリーンヒットさせ会場は大いに盛り上がったが、ヒートアップするグラジアノに対して、ゼールはあくまでも冷静だった。

 三ラウンド、頃合を見計らっていたゼールがグラジアノの左をショルダーブロックでかわしざま、腰ダメの左を弧を描くように振りぬくと、ノーガードの顎の先端を直撃されたグラジアノは大の字になって倒れたままカウントアウト。またしてもゼールの左フックの生贄になった。


 ゼールはグラジアノとの三連戦で燃え尽きたのかもしれない。この三ヶ月後にマルセル・セルダン(仏)にナックアウトされ、リングを去ったが、グラジアノにはもう一人雌雄を決するべき相手がいた。ウェルター級時代から対戦を望みながら叶わなかったシュガー・レイ・ロビンソンである。

 グラジアノの方が先にミドル級に転向し、世界タイトルを握った時も、ロビンソンはウェルター級チャンピオンの座にあったので、対戦は実現しなかったが、減量苦のロビンソンが一九四九年にタイトルを返上して階級を上げたことで、ビッグマッチの可能性が現実味を帯びてきた。


 当時のミドル級タイトルはグラジアノのストリートギャング時代の悪友ジェイク・ラモッタの手にあった。

 『ブロンクスの牡牛』の異名を取る突貫ファイターのラモッタは、グラジアノと同時期にボクシングに目覚めてプロ入りしたが、ギャングの片棒を担いで八百長に手を染めたりしたおかげで、なかなか世界戦のチャンスが巡って来なかった。それでも、向かうところ敵なしのロビンソンにプロ・アマを通じて初の黒星をつけた実力は本物で、グラジアノとともに地元ニューヨークでは圧倒的な人気を誇っていた。

 また偶然とはいえ、グラジアノとラモッタに次ぐニューヨークの人気者トニー・ジャニロもグラジアノの親友という関係だったので、ロビンソンを除けばミドル級はまるで内輪争いのようなものだった。   

 このうちラモッタ対グラジアノ戦は実現寸前で流れてしまったが、ジャニロとグラジアノは三度グローブを交えている。実力的に拮抗していた両者の対決は見応え十分で、親友同士とは思えないような派手な殴り合いに、周囲が本気で二人の関係を心配したほどだった。

 第一戦(一九五〇年三月三十一日)を引き分けた後、第二戦は接戦の末、グラジアノが判定勝ち。世界タイトル挑戦権を懸けた第三戦は、最終ラウンドにグラジアノが逆転KO勝ちを収めるまで、双方がマウスピースを飛ばしあうほどの壮絶な打撃戦を演じている。ここまで本気で戦いながら、試合が終わると、顔中に絆創膏を張った二人が肩を組んで口笛を吹きながら会場を後にしたというから、彼らのプロ根性も相当なものである。


 ラモッタが一九五一年二月十四日に、リング版『聖バレンタインデーの虐殺』と称される凄惨な試合の末にロビンソンにKOされると、いよいよ戦わざるライバルによる世界戦の機運が高まってきた。ミドル級に転向後も全く非の打ち所のないボクシングを続けるロビンソンに対し、グラジアノも再起後二十連勝(十七KO)と絶好調を維持し、一九五二年四月十六日、ついに両者が激突した。

 グラジアノはゼールを苦しめたルーピング・ライトでロビンソンを追い回すが、サイドステップとヘッドスリップでことごとくかわされてしまう。足を止めれば槍のような左ジャブが顔面を襲い、ジャブを出せば右クロスか右ボディを合せてくるロビンソンに完全に翻弄されっぱなしのグラジアノだったが、三ラウンドにロビンソンが右を出そうとした瞬間に放った捨て身のルーピング・ライトが見事、側頭部に命中した。

 バランスを崩したロビンソンは思わずよろめいて膝をついたが、パンチが浅かったため、ダメージは少なかった。

 「さすがは、グラジアノだ!」それまで歯ぎしりをしながら試合を見守っていたグラジアノファンがようやく活気づいたのも束の間、今度はロビンソンの右で顎を打ち抜かれたグラジアノがダウン。

 すぐさまロープをつかんで立ち上がろうとするも、足が言うことを聞かず無情のテンカウント。グラジアノの意識がわりとはっきりしておりファイティングポーズまでとっていただけに、レフェリーのカウントアウトのコールが早すぎたのではないかというクレームもあったが、試合を再開してもロビンソンの勝利は揺るがなかっただろう。それほど、両者のボクシングスキルには隔たりがあった。

 一九五三年、タレントボクサーとして人気のあったチャック・デイビーに判定負けしたのを機にグラジアノはリングを去ったが、彼にはもう一つの才能があった。

  

 一九五五年、自らの半生をつづった自伝小説『Someone up there likes me』がベストセラーとなり、翌年にはポール・ニューマン主演で映画化され、これまた世界中で大ヒットを記録した。この映画は日本では『傷だらけの栄光』という邦題で公開され、ボクサー志望の若者たちに大きな影響を与えた。

 またグラジアノは俳優としても非凡な才能を発揮しており、数多くの舞台や映画に出演しているが、彼をこの世界に誘ったのは、ボクシングファンで知られるトルーマン前大統領の令嬢マーガレットだった。マーガレットは歌手から演劇に転じたばかりで、共演者としてグラジアノとラモッタに声をかけたのである。

 皮肉なことに、この舞台はマーガレットではなく、元チャンピオンコンビの演技に人気が集中し、共に芸能界で活躍するきっかけとなった。日本では昭和三十八年に放映された『マイアミ二十四時』という連続テレビドラマで、毎週ギャング相手に立ち回りを演じるグラジアノの姿が見られたが、名うてのストリートファイターから世界チャンピオンにまでなった殴り合いの達人だけに、アクションスターなどとは一線を画する迫力だった。

 一方、役者としてのグラジアノの才能を見出しながら、自身は演劇の世界では評価を得られなかったマーガレットも、後年推理小説作家として名を残し、その作品はわが国でも紹介されている。


 世界チャンピオンとしての活躍期間は短かったが、一九九六年に『リング』誌が選んだ「最も偉大な世界タイトルマッチ100選」の二位と五位にグラジアノ対ゼール戦がランクされているように、そのラフファイトのインパクトは強烈で、記憶に残るボクサーだった。




私の手元には1949年9月14日に行われたロッキー・グラジアノ対チャーリー・フサリ戦のプログラムがある。この試合はグラジアノが最終ラウンドに逆転KO勝ちした名勝負としても知られるが、ノンタイトル戦のプログラムにもかかわらず、数十年後の日本の世界戦のものより二回りほど大きく、頁数も多い。また記事も充実していて映画のプログラムより立派なくらいである。日本では月刊誌の大半が仙花紙だった時代に、たった一試合のためにこれほど上質なプログラムを用意できるアメリカの豊かさに脱帽すると同時に、戦って勝てる相手ではないことを痛感してしまう。


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