第三話 境界前夜
──5月15日 午後
実際に作戦地に入るときには、必要以上の準備をしていく事。
それはもう耳が痛いくらいに言いつけられている事で、私は〝新宿〟潜入を前にして念入り以上に装備の確認をしていた。
持って行くものはそう多くはない。
持っていくのは、水、非常食、そして弾薬をできるだけ多く。
あとは〝新宿〟内部のマップと、いざって時に使う小型の爆薬。
持って行くのなんかは、あとは防寒着くらい。そんなもんだ。
〝新宿〟が異変を起こしてからまだ一年も経っていない。
それでも一部の地域では、電気も水もまだ生きてる。
料金なんて払われてないけど──「生存者の可能性」に賭けて、政府が止めてないらしい。
勿論ケーブルとかが物理的に切断されている場合には、どうしようもない。
けど、少なくとも水道管が繋がっていて、電気が通る環境であれば最低限の設備は確保されているという事になる。
残念ながら、中で人間が生きているという可能性は、限りなくゼロだ。
少なくとも数回の調査ではペットだったのだろう動物たちを救助することには成功したけれど、人間の姿は確認出来なかった。
外に逃がした動物たちも、すぐに死んだ。
あの中と外にどういう違いがあるのかは、分からない。
だって中に入った人間たちは、中と外を行き来しても死ぬことはなかったんだ。
「人間」と「動物」で何か条件が違っていて、そのせいで死んだ──と考えるのが普通だろう。
有害な物質──それか、長期間置き去りにされた動物たちが摂取していてもおかしくはないもの。
……主に水に、毒素が混じっている可能性が高いと、私たちは考えていた。
だが生物は水なしには生きられない。
食事は何日か我慢しても死ぬことはないが、水だけは最低限確保しなければいけないものだ。
毒素があると分かっていても飲まないわけにはいかない状況だって、ある。
持ち込む水が尽きてしまえば、現地調達しなきゃいけなくなるんだ。
飲んで死ぬか、飲まずに飢えるか。
これはもう、究極の選択だ。
「廻、水質調査キット忘れんなよ」
「今更調査した所でね……」
「……コンビニでも生きていればいいんだけどな」
「水分は最低限、だな」
液体は重い。
ただでさえ私は重火器を背負わなければならないし、爆薬だってそこそこの重さがある。
そうなると、あまり余計な荷物は持ちたくないのが本音だ。
カートなんて中に持ち込むわけにはいかないから、愛用のザックの隙間に入れることが出来る分だけ。
──どの程度が必要最低限なのかは、わからんけども。
私がメモを取りながら銃弾の数やバッテリーなんかをチェックしてザックに詰め込んでいると、ふと相棒がホテルの窓から外に視線を向けた。
ホテルと言ってもここはすでにオーナーが権利を放棄した、一言で言えば廃墟ってやつだ。
だが〝内側〟と同じで電気も水道も、ガスだって使える。
そのせいか頻繁に誰かが使用していた痕跡もあって、中にはラブホ代わりにしたような痕跡がある部屋もあった。
問題はここからほんの100メートル足らずの所に〝新宿〟との境界線があるってことだけ。
だとしても、あの樹のお膝元のホテルをよくもまぁラブホ代わりにしたな、なんて気持ちにもなる。
オーナーも気の毒に。
まぁでも、目の前に壁のある立地条件でこういうホテルがあるのは、私たちみたいな奴には有難いもんだ。
壁は眼の前だが、【悪魔】がこの中にまで侵入した形跡は今のところ無い。
少なくとも、ここでは温かいシャワーを浴びれるし、ベッドで眠れるってことだ。
〝内側〟に入る前にひとっ風呂浴びれるかな。
そんな事を思いながら準備を続けていると、私の注意を引くためか相棒が刀の先でコンコンと床を叩いた。
顔を上げて、相棒が外を見ている事に首を傾げる。壁の方向だ。
「なん。どした?」
「人が居る。子供だ」
「子供?」
指で窓を示されて外を見ると、確かにまだ中高生くらいの少年が壁の目の前に立っていた。
いや、少年だけじゃない。
人影がいくつか。
どれも同じくらいの年代みたいだ。
時計を見れば、時刻は5月15日の午後1時44分。
まだ昼を少し過ぎた程度だけれど、黙示樹の影の影響の強いこの変はもうそろそろ暗くなってくる時間帯だ。
3時にでもなれば、ここだって夜とそう違いない暗さになってしまう。
「……中に入ろうとしてるのか?」
「まさかぁ。そんなわけないだろ」
そう言って、ヘラヘラとオペラグラスを持ち出した私だったけど、次の瞬間には背筋がゾワリとした。
子供たちはどれも同じ制服を着ていて、入り口でも探しているのか壁を見上げながらウロウロしている。
──おいおいまさか。何を考えてんだ。
思わず相棒を見ると、相棒も無表情に子供たちを見詰めていた。
人影は、4つ。そのうち1つは女で、残りは男だ。
先頭に居る背の高い男がリーダーなのか、残りの3人はうっかりすると離れて行きそうになっているそいつを慌てて追っている。
これは……どうしたものか。
はてどう対処したものやら、と頭を掻いていると、相棒は無言で窓から離れて、ザックを背負った。
──つまり「行くぞ」の合図だ。
私の方の持って行くもののチェックはまだ途中だったが、武具の整備は終えている。
ザックの中身はまだ未補充だけれど、どうせまた戻ってくるだろうし、それだけでいいだろう。
まさか、このまま〝内側〟になんかは行かない、だろう。多分。
食いそびれた昼飯だけはちゃっかりポーチに詰め込んで、それだけは持って出る。
適当に作ったサンドイッチだが、ここでは貴重な食料なのだ。
ねずみの餌にしてしまうのは、流石に惜しい。
ホテルを出ると、相棒はいつでも抜刀出来るように柄に手を置きながらホテルのドアに凭れ掛かっていた。
視線は、さっきの子供たちの方に固定されたままだ。
どうしたんだと思っていると、なにやら人数が増えている。
2人。小太りの男と、髪の長い女だ。
長髪の女が先にいた4人に向かって叫んでいる。
その後ろでは、小柄でぽっちゃりした男がオロオロと右往左往していた。
多分、女の方が先に来ていた連中を止めているんだろうと、その光景だけで察する。
そりゃそうだ。良心的なのが一人でも登場してくれてよかった。
「貴方たちは何を考えているんですか! あの樹の研究は確かにウチの班の研究課題ですけれど、許可なくこの中に入るなんて許されるわけがないでしょう!」
「来たくないなら来なくていいのよ。私たちは行く」
「そん……っ、許すわけないでしょう! 私は班長で、学級委員なのですよ!」
先に来ていた連中の中に居る眼鏡を掛けたキツそうな顔の女、がキーキーと騒いでいる学級委員だという女を睨みつけていて、2人の間ではもう一触即発。
その女どもの後ろには半泣きの男が一人ずつ居て、残りの男2人はすっかり我関せず。
いやいや止めなさいよ。オトコノコでしょ!
とりあえず分かったのは、あの学生たちはこの周辺の学校ではよくある、あの樹の研究を自由研究だか何かの題材にしているという事。
それから、連中は同じ研究班だか何だかで、中に入るかどうかで揉めているという事だ。
若干メンバーの年齢層に幅がありそうな気がするが、そこを気にしても仕方が無い。
入ろうとしたら実力行使で止める。
今私たちがしなければいけないのは、それだけだ。
実際、こういう手合いの連中はよくいるんだ。
中に居るかもしれない家族を助けに、とか。
中がどうなっているのか調査をするために、とか。
あの樹を絶対にぶっ倒すとか言う正義感でいっぱいのヤツ、とか。
そんでもって、そんな理由で中に入っては、帰ってこない。
それでもそういう馬鹿な正義感を持った連中は月に最低1組くらいは必ず居て、その結果行方不明者がどんどん増えている悪循環。
いい加減悟ってくれないもんかね。あの樹が普通の人間の手に負えるモンじゃないって事を。
そんなことを考えながら学生たちを見ていると、先頭にいた背の高い男子が女子たちの喧嘩を尻目に手に持っていた木の棒を振りかざし、そのまま──迷いなく、壁に叩きつけた。




