売れなかったバンド
「解散しようぜ」
リハスタのソファに沈み込みながら、シンゴがそう言った。ギターの弦が一度だけ「ビィン」と唸った。誰かが無意識に触れたのかもしれない。それ以外は、静かだった。
俺は思わず笑った。というか、笑うしかなかった。だって、あまりにも当然のようにその言葉が出てきたから。いつかはこうなると思っていた。いや、思ってなきゃやってられなかった。
「マジで言ってんの?」とカズが言ったけど、その声に怒りはなかった。ただ、空っぽな確認の響きだけがあった。
「うん、マジで。もう限界だろ」
シンゴの口元にはタバコがあった。吸うでもなく、ただ燻らせている。けむりだけが、ぼんやりと天井に向かって揺れていた。
俺たちのバンド、「ナインフレーム」は、今年で結成十一年目だった。
初めてライブハウスに出たのが二十歳の夏。チケットノルマに泣き、録音したCDを手売りし、SNSに毎日投稿し、ありとあらゆるコネに頭を下げて頭を下げて、頭を下げてきた。
一度だけ、インディーズ雑誌の隅っこにインタビューが載った。地方ラジオで深夜に曲が流れたこともある。でも、それだけだった。
誰かが言っていた。「バンドって、売れる前に心が折れるか、仲が壊れるかだよ」って。
たぶん、俺たちは前者だった。
「俺は……やれるもんなら、まだやりたいけどな」
ぽつりと呟いたのはハルだった。ドラム担当。普段は無口で、誰よりも感情を見せないやつだ。でも、こういうときだけ、正直になる。
だけど、誰も何も答えなかった。
言葉を失っているというよりも、もう、言葉を交わすだけの情熱が残っていなかったのかもしれない。
沈黙が続いた。アンプの電源はまだ入っていた。真空管の淡いオレンジが、かすかにスタジオの壁を照らしている。
そのときだった。
「最後に、もう一回だけライブやんない?」
意外なほど明るい声だった。発したのは、カズ。ベースで、ムードメーカーで、そして誰よりも現実的だったやつ。
「は?」
「俺の結婚式で。ライブやってくんない? サプライズで。嫁、俺らの曲で泣いたことあってさ。『灯台のうた』、覚えてる?」
シンゴが目を細めた。「あれか。海沿いの公園で録ったやつ」
「そう。あれ流して、プロポーズしたんだよ。そしたら、即OKだった」
ハルが吹き出した。「なんだそれ。俺らの曲が恋愛成就に使われる日が来るなんて」
「いいじゃん。最後に一発、ちゃんと音鳴らして終わろうぜ」
誰も、断らなかった。
─
結婚式当日。都内の小さなホテルの宴会場。照明は温かく、どこかくすんでいた。式そのものは質素だったけれど、ちゃんと気持ちのこもった式だった。新婦は涙を浮かべていた。
俺たちは、会場の隅の即席ステージに立った。
マイクスタンドがグラグラする。リハもろくにできない。PA(音響)のボランティアスタッフは、どうやら楽器に詳しくないらしく、音がところどころ割れていた。
それでも、俺たちは立った。
シンゴがギターを鳴らす。ハルがカウントを取る。カズが静かにベースを構え、俺はマイクを握った。
一曲目は、「灯台のうた」。
初期の曲だ。下手くそで、青くて、でも俺たちのすべてだった曲。
Bメロで音が外れた。サビの最後、俺は声が裏返った。でも、それでよかった。そういう音だった。
会場の中で、誰かが泣いていた。知らない誰かだ。たぶん新婦の親族。シンゴも泣いていた。
そして最後、曲が終わると、温かい拍手が起きた。どこか照れたような、でも真剣な拍手だった。
─
夜。帰りの電車の中で、俺は式の動画を見返していた。
粗い音。にじむ映像。ステージ袖に映るカズの新郎衣装が、ちょっとだけダサくて笑えた。
でもそこには、ちゃんと「バンド」があった。誰にも届かなかったような音楽が、確かに、誰かの胸に届いていた時間だった。
スマホの中のフォルダの名前を変えた。
「解散ライブ」から、「ラストライブ」へ。
売れなかった。でも、たしかに誰かの人生に触れた。
それでよかったんだと思う。
たったそれだけの奇跡で、バンドをやってきた意味は、たしかにあった。