「冒険の書三十六:陰星」
「のう、ヴォルグよ。おまえの夢――このワシが叶えてやろう」
ワシの言葉に、ヴォルグは不審そうな目を向けてきた。
「……どういう、ことだ?」
「これは内緒だがな。姿形こそ違えど、ワシはガルム。おまえが言っていた、ノインフォートレスで大暴れしたドワーフよ」
「……っ!!!?」
ワシの内緒話を聞いたヴォルグは、電流に打たれたように背筋を伸ばした。
気持ちを落ち着かせるためだろう、深呼吸を二度、三度と繰り返した。
「嘘だと思うか?」
「思わない、その構え、その気合い、到底、エルフの娘、に、出せる、ものではない。転生の、術。ある、聞いた。たぶん、それ」
そう言うと、ヴォルグは口の端を歪めた。
気合いと力みと、恐れと喜びと、それらすべてを内包したような、複雑な形に。
「僥倖、だ。ここまで、無様に、生き永らえて、き、た。甲斐、あった」
再生能力があるせいだろう、ヴォルグの体に大きな傷はない。
だが、心の傷は癒せなかった。
それがおそらくは、その言葉に集約されている。
「無様に生き永らえてきた」
その一言に。
「ガルム、感謝、する」
ヴォルグはニヤアぁぁぁっとばかりに口の端を広げると、これ以上ない極上の笑みを見せた。
両足を肩幅に開くと、両腕をぐぐっと持ち上げた。
拳をぎゅっと握った、『男同士の殴り合い』の構えだ。
「拳を握って殴りまくる……か。潔い戦法だ」
ワシもまた同じように笑むと、足を肩幅に開いた。
両腕を持ち上げ、高く構えた。
「右の頬をぶたれたら左の頬をぶち返す、というぐらいの男らしい殴り合をしてやりたいところなのだがな、いかんせんこの体だ。多めに見ろ」
「……?」
「その分、先手は取らせてやる。そら、打ってこい」
「はっ……」
ワシの言葉を挑発と受け取ったのだろう。
ヴォルグは楽しそうに笑うと、全力で殴りつけてきた。
――ドガ!
まずは右拳で。
――ドガ!
次は左拳で。
――ドガ! ドガ! ドガ!
左右の拳の連打はみるみるうちに速くなる。
一撃の重みも増し、回転力が増していく。
その様は、まさに竜巻だ。
しかも大量の岩塊の巻き上げられた、恐るべき竜巻。
――ドガガガガガガ!
普通の人間ならとうに粉々になっているだろう恐ろしき連撃。
しかしこれを、ワシはことごとく弾いた。
右拳で打たれれば右手首の内側を右拳で打ち。
左拳で打たれれば左手首の内側を左拳で打ち。
ヴォルグの拳が決して体に当たらぬよう、弾き続けた。
打撃の基本は『最も勢いのついた先端部を相手に当てること』。
橈骨と尺骨の間の脆い部分を打って弾き、この前提を崩してやったのだ。
「どうしたどうしたっ、当たらぬぞっ!?」
「くっ……っ!?」
「それで終わりかっ!? 戦士の意地を見せてみんかいっ!」
「おっ、のっ、れえぇぇーっ……!」
無駄だとわかりながらも、ヴォルグは攻め方を変えなかった。
蹴るでもなく、武器を使うでもない。
ただただ愚直に、殴り続けた。
それはたぶん、最も信用できる武器が己の拳だったからだ。
「ハア……ッ、ハア……ッ、ハア……ッ」
およそ二分間にも及ぶ連打を終えたヴォルグは、疲労の極地にあった。
しとどに汗を流し、肩を上下させている。
打たれた手首の内側は赤く腫れ上がっている。
疲労もあいまって、すぐには動かせないだろう。
「ハア……ッ、ハア……ッ、ハア……ッ」
「どうして、という顔をしているな? 修練を積んだはずの自分の拳が、どうして当たらんのかと」
「ハア……ッ、ハア……ッ、ハア……ッ」
「理由は簡単だ。どうしようもないほどの、簡単な理屈だ。ワシはなあ、おまえが積み重ねてきたよりも遥かに多く、修練を重ねてきたのだ。十年二十年どころではない、もっと長い果てしのない年月を、人生の大半を費やしてきたのだ」
「……っ!?」
「おまえの拳は大した硬さだ。勢いも、重さも充分。左右の連打も極めて速い。正直、エルフの小娘の体で真っ向から殴り合うことはできん。だが、術を使えば話は別だ。もともと『ドラゴ砕術』は体の小さな者が大きな者に勝つための術。『相手の末端を崩し、中心を打つ』。そのための方法はいくらでもあるのだ」
「ドラゴ……砕術……」
「ヴォルグよ、おまえはよくやった。長い年月を魔王やその側近のために費やし、おそらくは今もそうしているのだろう。くだらぬ命令に従い、動いているのだろう。だが、それも今日までだ。ワシがおまえを解き放ってやる。武人なりのやり方でな。では、行くぞ――一撃だ」
言葉を切った瞬間、前足の膝から力を抜いた。
重力に伴い、体が前傾する。
落下力で生み出した勢いを逃がさず、足の裏全体で押すように前に出た。
体がぐんと急加速した――勢いのまま、彗星のように跳び出した。
拳の形は正拳ではなく縦拳。
軌道は相手の心臓に向かってまっすぐ。
決して力まず、捻じりを加えない。
体を上下に揺らさず、気合いは漏らさず己の内に向ける。
「……っ!!!?」
ヴォルグが反応し、両腕を上げてガードを試みた。
しかし、その時にはもう手遅れだった。
起こりを見せぬよう徹底的に編み上げられた秘拳が、ヴォルグのガードの間をすり抜けた。
気で強化された拳が、深々と心臓に突き刺さった。
「ドラゴ砕術奥義――『陰星』。とくと味わえ」
ワシが拳を引き抜くと同時に、ヴォルグの体が崩れ落ちた。
そしてそれが、魔戦隊長ヴォルグの最期だった。




