五 多幸なる時
「ビアンカ! 遅かったではないか!」
「只今帰還いたしました。報告していた刻限より遅れた事、申し訳ございません」
ビアンカが無事に帰ってきた事に心底安堵した表情を浮かべるラファエル。街中の明かりが消えた真夜中に帰ってきたにも関わらず、ラファエルは眠りもせずに待っていたようだ。
「大丈夫か? 怪我などしていないか?」
「はい。お休みになられず待っていてくださったのですね。私の事ならば御心配には及びませんのに……」
「そうもいくまい。君は優秀な軍人である前に私の妻だ。愛する妻を心配しない夫などこの世に必要ない」
真剣な眼差しをビアンカに向けてラファエルは言う。ビアンカは己の軽率な発言を恥じると同時に、真っ直ぐに伝えられた熱い想いに赤面した。
「申し訳ありません」
「いや、無事ならいいんだ。それにビアンカが時間を違えるなんてやむを得ぬ事情があったのだろう。調査に出向いた内容を聞かせてくれるね?」
「はい、ラファエル様。実は翼竜を発見し保護致しました」
「え?」告げられた突拍子もない内容に、ラファエルは鳩が豆鉄砲を喰ったような表情で固まった。
これは、ビアンカの冗談なのか? 私を揶揄っている? いやいや、だとしたら喜ばしいことだ。ビアンカと結婚してからこの方、いや出会ってから今まで彼女が冗談を口にした事があっただろうか? これからは軽口も交えたより笑顔の絶えない生活を送っていけそうだ。
「そうか! 翼竜を発見し保護する為に出向いたのか! いやはや、さぞ大変であったろう。時間通りにいかぬのも無理はない」
「帰還が真夜中になったのは人目を憚る必要があったからなのです。その甲斐あって直ぐそこに連れて来ています」
「ははは、まだ続けるのかい?」
ビアンカが玄関の扉を開けると、チャッチャッと鉤爪が床を叩く音を鳴らしながら、跳ねる翼竜が部屋の中へ入って来る。ビアンカの隣にピタリと寄り添うように立つその姿を見て、笑っていたラファエルの顔がそのまま固まった。
「この子がそうです」
「クワァッー」元気良く挨拶をするように嘶く翼竜。
「ええぇぇぇぇぇぇぇー!?!?」
真夜中にラファエルの絶叫が響き渡った。
◇◆◇◆◇
「そういうことであったか」
ビアンカからより詳細な経緯を聞いたラファエルは取り敢えず落ち着きを取り戻した。
「ラファエル様、この子は神話に登場するモンスター翼竜なのでしょうか?」
「私は学者ではないから断定はできないが、この姿を目の当たりにすればその可能性は高いと言わざるを得ないな」
「やはり」
「昔『北方見聞録』という冒険譚を読んだことがあるが、ニヴルヘイム地方の最北に連なる峻険な魔の山脈に竜を駆る一族が存在するという記述があったのを思い出したよ」
「北方見聞録……とても興味深いです。その書物を読ませて頂けませんか?」
「ああ……いや、すまない。著者が無名の書物であったし、全く信憑性に欠ける内容だったので、手元に置いていないのだ」バツが悪そうにラファエルは所々跳ねた癖毛をガシガシと掻いた。
「そうですか、それならば仕方ありません。ラファエル様、この子を育てる事は可能なのでしょうか? お許し頂けるのなら、私の手で育てたいのですが」
ビアンカの申し出を半ば予想していたラファエルは驚きもせず、顎に手をあてがい見解を述べる。
「やはり現状としては人々の目に付かせるわけにはいかないな。王都で育てるのは憚られるが、北のトゥラースの森ならばいいかもしれない」
「トゥラースの森ならば馬で駆ければ四半刻もあれば向かえますね。森の少し奥に行った所で育てたいと思います」
「そうだね。様々な面で不安が無いと言えば嘘になるが」
「だけどラファエル様、この子はとても賢いのですよ。ここまで誰にも見られず来られたのはこの子が私の言う事をよく理解し実践してくれたからなのです。まるで人の言葉を理解しているみたいでした」
「私達にとっては未知の生物だ。もしかしたら並外れた知性を有しているのかもしれないね。よし、では交代で面倒を見るとしよう。一人で森と王都を行き来するのは大変だろうからね。だが、その子は私にも心を開いてくれるのかな?」
ラファエルは不安げに翼竜を見る。翼竜もラファエルの顔をじぃっと見つめていた。その瞳はビアンカの右眼と同じ、サファイアのような碧眼である。
「大丈夫ですよ。ラファエル様の優しいお心はきっと伝わります」
「そうだとよいのだが……ところで、この子に名前はまだ付けていないのかい?」
「勝手ながら、レイヴンと名前を付けさせていただきました」
「レイヴン……伝説の竜騎士ソラリスの愛騎の名だな」
「はい、かの英雄譚は最も好きな所でして。厚かましいかとは思ったのですが、名付けさせて頂きました」
「良いではないか。いずれはビアンカをその背に乗せて大空を舞うかもしれないのだ。伝説の再来を彷彿とさせる」
「そんな、気が早いです。私はただ元気に育ってくれれば十分なのですから」
「ははは、そうだね。なんだか私としても子供ができたような気分だよ。レイヴン、これからよろしくな」
ラファエルがレイヴンの鼻先を優しく撫でると、レイヴンも目を細めて嬉しそうに小さく鳴いた。その様子を見て、更に嬉しそうなラファエルがビアンカに向かって『やったぞ!』と声に出さず口だけを動かした。
ビアンカは幸福を感じていた。そしてふと、お腹に手を当てる。
言うのなら、今がいい。
「あの、ラファエル様、一つお伝えしたき事が」
「ん? なんだねビアンカ」執拗いくらいレイヴンを撫で回しながら顔だけをビアンカに向ける。
「実は……おそらく、授かっているのです」
「授かっている? 授かっているとは、一体何が……」
このラファエルという男、ヴェリア一の軍略家であり大凡の事は鋭い観察眼で察知するのだが、平時においては呆れた朴念仁であったりする。
沈着冷静なビアンカがいじらしげに目を伏せお腹に手を当てる様子に、然しものラファエルも目を見開いた。
「まさか……!」
「はい。私とラファエル様の子を宿しましてございます」頬を朱色に染めビアンカは告げた。
「誠かッ!? で、でかした!! 誠でかしたぞビアンカ!!」
見た事もないようなラファエルの興奮ぶりに、ビアンカは思わず吹きだしてしまう。ラファエルならばきっと喜んでくれるという予感はあったものの、いざ伝えるとなると多少の不安は過ぎるものだ。しかし予想以上のラファエルのはしゃぎようにビアンカの胸も温かな気持ちに満たされていく。
「なんとめでたく多幸な日なのだ。間違いなく、私の人生最良の日だな。ビアンカ、お腹の子とレイヴンを二人で大切に育み、幸せな家庭を作ろう」
「はい、ラファエル様」
幸せそうな二人を交互に見渡し、レイヴンがキュルッと鳴いた。




