三 運命に導かれて
魔導帝国マナリアの支配するニヴルヘイム大陸の最北に、ガンガルディア山脈と呼ばれる峻険な魔の山が存在する。その方角より飛来する一頭の巨大な飛影。
『急がなければ。急がねばこの子の生命の灯火が消えてしまう』
巨大な飛影は自身に似た小さな命を咥えながら、南へ南へと飛んでいった。
◇◆◇◆◇
ある日の宵。その日中原の空は北のローデル川上空にかけて分厚い雲に覆われていた。雨こそ降っていないものの、星の光も月明かりも遮断され辺りは暗闇に包まれている。
殆どの店が既に店仕舞いした大通りをこの日も街の治安維持を兼ね見回りをしていたビアンカ。ふと北の空を眺めると、暗い空の遥か遠く、分厚い雲の切れ間にほんの一瞬だが何かの飛影が見えた。
常人ならば見えるはずのないソレを捉えたビアンカは瞬時に左の瞼を閉じ、右の碧眼だけで空を睨める。この碧眼には特殊な能力があり、極々僅かな光さえあれば何時でも変わらぬ視界を確保でき、ガスや霧の濃い場所でも視界が遮断されることはない。更にその視力も常人の域ではなく、飛影が翼を生やした巨大な生物である事、そしてそれが東の鉱山地帯に落ちるように消えていったことを確認した。
「今のは一体……」
未知の飛行物体を視認したとなれば、当然上官への報告が急務である。そして規律に厳格なビアンカがそれを違えるはずがない。しかしこの時のビアンカは違った。
それはまるで運命に導かれるように、ビアンカの足は自ずと鉱山地帯へ向けられたのだった。
◇◆◇◆
その日の職務を終え、帰宅したラファエルは部屋の明かりがついていない事を不審に思った。結婚してからこの方、ビアンカがラファエルの帰りを待たずに休んでいた事は一度もない。もちろんラファエル自身が強要しているはずがなく、いくら説得してもビアンカは先に休む事を拒むのだ。
休んでいるならば起こしてはいけない、ラファエルは物音を立てないようにゆっくりと家の中に入った。すると入ってすぐの所に一片の紙が落ちている事に気がつく。慌てて明かりを付けその紙を拾い上げると、そこにはビアンカの字でこう書かれていた。
『ラファエル様へ
お帰りをお待ちできない不逞をお許しください。
気になるものを発見した為調査に出て参ります。
明日の日暮れ時までには帰還致しますのでご心
配なさらないでください。
ビアンカ』
彼女らしくない、慌てた文字の羅列に胸中に不安が過る。今までにこのような事は一度もなかった。しかし冷静に状況を確認すると、筆跡は間違いなくビアンカのものであり、部屋に争った形跡は皆無。仮に何者が相手であろうとあのビアンカが遅れを取るとも思えない。
一抹の不安こそ拭えないが、ラファエルは手紙にある翌日の夕刻まで彼女を信じて待つ事にした。
◇◆◇◆◇
東の鉱山地帯へ伸びる街道。暗闇にも関わらず馬蹄が疾駆する音が響き渡る。
ビアンカはラファエルへの書き置きを残すと、馬に跨りすぐさま出発した。
鉱山までの距離はおよそ三〇キロメルトほどあり、馬の脚を飛ばしてもは辿り着くのに半日は掛かる距離である。加えて鉱山への道はなだらかではなく高低差のある丘陵が多い。夜ということも考慮すれば道中にある村で宿をとるのが無難だが、ビアンカは一刻も早く先程捉えた飛影の正体を突き止めねばならないと感じていた。
距離がありすぎた故、流石に詳細な姿を確認する事はできなかったが、ビアンカには既存の確認された鳥類ではないように思えた。あれは翼開長した大きさが控えめにいっても七メルトは超えていた。鷲などの猛禽を目にする機会は幾度となくあるが、到底及ばない大きさだ。
それこそ神話に登場する不死鳥や、翼竜等の伝説上の生き物を彷彿とさせた。
そして何よりあの瞬間、僅かな雲の切れ間からその姿を捉えた事は偶然ではないような気がしたのだ。恐らく、今日の空模様では気がつく可能性があったのは世界広しといえどもビアンカだけ。少なくともビアンカと同様の特異な視力を有する者だけであったろう。
単なる偶然だとしてもそれを確認するのは自らの使命であると、ビアンカにはそう思えてならなかった。
鉱山地帯までの距離が一〇キロメルトのところに差し掛かった頃、速い速度で移動させていた馬の体力に限界が訪れる。
丁度良く近くに宿場があった事もあり、ビアンカは店主に話をつけて馬だけを繋がせてもらえるように頼み、自らは休むことなく先を進むのだった。
◇◆◇◆◇
やがて深夜を迎える頃、ビアンカの追っているそれは鉱山地帯の窪地でその身を休めていた。
鰐を思わせる装甲のような黒い鱗が身体を覆い、翼はコウモリの羽根のような巨大な飛膜でできている。ギョロリとした鋭い眼光、前方に伸びた顔の先端に大きな鍵鼻があり、その下の口には槍の穂先のような歯がずらりと並んでいる。
そう、この生き物は先にビアンカが連想した神話に登場する翼竜に他ならない。中原以南に暮らす人々はもちろん、北のニヴルヘイム地方を治める帝国内であってもその存在を知る人は極少数に限られる。それもそのはずで翼竜は魔の山ガンガルディア山脈の奥地にのみ棲息しており、そこから出てくる事は殆どないからだ。
つまり今この翼竜が此処にいる事はユグドラシル大陸の歴史からみても余りにも稀有な事であった。
『これ以上は……私ももう無理ですね。しかし、このような不毛な地で限界を迎えてしまうとは』
翼竜は脚下で力無く横たわる小さな竜を見て嘆いた。
生まれて間もない、体長一メートル程の小さな我が子はその生命の灯火を今にも消そうとしている。しかし命が危ないのは自らも同じであり、これ以上は飛ぶ事はおろか、僅かに動く事もできない。病魔に蝕まれた身体に加えて、墜落同然に岩山に叩きつけられた外傷は、命を刈り取るのに十分過ぎるものであった。
『せめて、この子だけでも、なんとか、生かして……』
今にも崩れ落ちそうな身体を必死に支える母竜。するとその時、何者かの足音がこちらに向かってくる気配を鋭敏な聴覚が捉える。足音の種類的にそれは人間のものであると悟る母竜。
『何たる不覚。雲の中を飛んでいたつもりが視認されていたのか? かくなる上は』
母竜は足音のする方向に向かってその大きな口を開いた。体内にある炎臓で生成される火炎吐息を浴びせるつもりだ。しかし極限状態の身体で火炎吐息を吐き出す事は文字通り生命を吐き出すに等しい。しかしこの母竜にとって我が子を守る手段は他になかった。
やがて足音が目前の岩山の頂上まで迫り、双方がその姿を視認した。




