領地が広くなれば内政も大変になる
永禄五年(一五六二年)五月 若狭国 後瀬山城 武田氏館
なんとか此隅山城を落とすことができた。これで但馬国の出石郡を制圧したと言っても過言ではない。そして垣屋も我らに降ってくれた。万々歳の結果である。
そして何と言っても山名祐豊を捕らえることができた。それだけではない。彼の息子である徳石丸、それに奥方も捕らえてある。これで但馬国の山名は全てだろう。いや、因幡に出張っているのがいるか。
山名の一族郎党は褒美として垣屋に全て譲った。彼らが山名氏を根伐りにしてくれるだろう。いや、せざるを得ない状況なのだ。しなければ、俺達からも何を言われたか分かったものではない。
だが、そんな柵が無くても垣屋氏は山名氏を撃ち滅ぼしていただろうな。それほどまでに両者の関係は拗れていたのだ。どこもかしこも主従間で争っていてイヤになる。
俺としては自分の手を汚す事無く山名を排除することができた。残るは山名豊数と山名豊弘だが、彼等はできることなら手懐けたい。
俺が山名一族を処断していたら難しかったろうが、処断したのは垣屋だ。俺は関係無いぞ?
飴と鞭は必要だ。そして公方からも厚遇するよう言われるだろう。垣屋を脅す手段として山名の血は残しておきたいのだ。そして反目させる。上手く扱わねば。
此隅山城を落としてから改めて各国衆に使者を送る。前回は協調の使者だが、今回は臣従の使者だ。日和見をしていたのだ。扱いは変わる。でないと垣屋が可哀想だ。
太田垣が直ぐに臣従を誓ってきた。俺はそれを受け入れ、そのまま竹田城の城主に任命する。決断力では垣屋に劣るな。その後、塩冶と田公の両名も臣従を誓った。
それから田結庄だ。彼は臣従するかどうか迷っているようだ。というのも、垣屋に遅れをとった以上、垣屋氏以上どころか同等の扱いは望めないからである。
勿論、俺は田結庄が臣従を誓ってきたら垣屋の配下に置くつもりである。垣屋は美含郡と気多郡の他に城崎郡も渡すことになる。石高は調べた結果、四万五千石となるが致し方ない。
それに田結庄を上手く扱えるとも思えん。一枚岩でいることは叶わんだろうな。勿論、失政したら難癖をつけて取り上げるつもりである。最初に褒美を与えて、後で徐々に削ることにしよう。江戸幕府方式だ。
更に言うなら周囲は全て固めてある。これ以上、領地を伸ばす方法が無いのだ。領地が欲しいのなら俺を攻めなければならない。垣屋にそれができるだろうか。
そして最後に養父郡の八木氏である。しかし、残念ながら養父郡の八木氏は攻め滅ぼすことにしている。だから彼には使者を送っていない。
もし、万が一、彼が臣従を申し出た場合、非常に厳しい条件にせざるを得ない。なにせ、養父郡にはまだ発見されていない中瀬金山と生野銀山があるのだ。俺の直轄地にしたい。
これで石高は合計して二十万石に届かない形となった。しかし、まだまだ朝倉と肩を並べることができない。
領内の仕置を進めたいところだが、その前に一つの問題を片付けなければならない。因幡国である。因幡の西側は毛利に臣従を誓っている国衆、つまり毛利の領地なのだ。
東側は武田高信が抑えてある。俺は彼を毛利との盾にするつもりだ。なので、彼には因幡を丸っと治めてもらいたい。今なら因幡を攻め落とすことができるだろうか。武田高信をけしかけてみよう。
どうして因幡国の西側の国衆に対し、毛利が調略を進めているのか。それは尼子を挟撃したいからに過ぎない。
因幡国の国衆は毛利に臣従しているが、毛利はまだ因幡と接していない。その間に尼子があるのだ。尼子が滅ぼされる前に因幡を抑える。因幡国の西側を尼子と我らで挟撃できるのが理想である。
と、これが理想だが我らと武田高信にそれができるか。求められたら支援はする。代価として因幡国の郡を少しもらうことにするが。さて、お手並み拝見といこうじゃないか。
「御屋形様。ご報告にござる」
これから此隅山城攻めの褒美をどうしようか考えていたところ、黒川与四郎が襖を開けて執務室に入ってきた。許可を得ずに入ってくるあたり、火急の知らせの様だ。
「如何した」
「三好勢と畠山勢が教興寺でぶつかった模様。総勢十万の大戦にござる」
「十万!」
思わず腰が浮いた。農繁期だというのに、どうやって兵を集めたのか詳しく尋ねたい気持ちでいっぱいだ。戦の詳細を聞くと、三好が六万で畠山が四万も動員したと言うではないか。どこからその様な兵力が湧いてきたのか教えていただきたいものである。
「そして三好が勝ち申した。畠山も数は揃えましたが所詮は烏合の衆。後手に回った模様で。三好はそのまま大和に雪崩れ込んでおりまする」
やはり腐っても三好だ。一度は体勢を崩しかけたが、すぐに持ち直した。畠山は再起不能だろう。そうなると六角と浅井はどう出るだろうか。一当てするか。それともすぐに和議を結ぶか。
恐らく前者だろうな。一度、当たってみてきりの良いところで講和を持ちかける。あくまで引き分けであるという建前が欲しいはずである。となると、我が武田にも参陣の声が掛かるだろうか。
今回、我らに声が掛からなかったのは高を括っていたからであろう。そもそも、畠山と我等は何の繋がりも無い。
そして公方もこれが見えていたから三好と行動を共にしているのだろう。意外と先見の明があり、決断力もあるのではないだろうか。認識を改めよう。
「厄介なことになったな。やはり畿内はまだ三好の天下だろう」
西からは毛利が迫り、南からは三好が迫る。東からは朝倉が迫ってくるのだから、もう始末がつかない。早く領内の仕置きを終わらせなければ。
まずは領内の関の数を減らし、若狭で行なっている市場政策を丹後と但馬にも導入させる。幸いにもどの国も海沿いだ。物流は悪くないだろう。
それから港町の整備だ。関銭と艘別銭は廃止させる。勿論様子を見ながら段階的に廃止させていくつもりである。一気に廃止すると反発が大きい。それよりも貿易船の方が利があると思わせるのだ。
後は稲を栽培させる。平地はほとんど米だ。それから棚田も導入していく。小浜で行なった棚田が上手く行っているのだ。それを横展開していこう。
食料の増産と同時に金と銀の採掘を進める。若狭武田家も一気に列強の仲間入りができそうな気がしてきた。あくまで気だけかもしれないが。
そしてこれが一番大事な点だが、垣屋の領地には介入しない。彼らは協力相手であって家臣ではない。対等な立場なのだ。だから介入しない。関も残す。例えどうなってもだ。
此隅山城を落城させた褒美として山内一豊を但馬国は出石郡の郡代に任ずる。勿論、此隅山城の城主である。彼が、彼こそが此隅山城を落としたのだ。これくらいはあっても良いだろう。石高は四千程だろうか。
何と言うか、棚から牡丹餅。果報は寝て待てのような落城であった。光秀に気が付き、敵方の兵が慌てて迫りくる光秀と利家に夢中になっている隙を突いて一豊が落としたのだ。まあ、これも策といえば策だ。
ということで一豊が実質的な西の要になるだろう。出石郡以西はまだ信用ならない。その後ろには光秀も控えている。問題は無いと思いたい。
光秀と利家には感状と太刀を下賜した。手厚く保護、奨励した刀鍛冶である中島来派の宗長、宗吉の兄弟から献上された太刀を二人にそのまま渡したのだ。
それから熊谷直之だが、彼には銭と感状を渡した。彼は何もしていないと謙遜していたが、押し引きが非常に上手く、兵の損失を出さずに敵方の兵を釘付けにしてくれていた。その功績は大きい。
また、一色重之と逸見虎清の両名は二千石の加増とした。彼らの兵站が無ければ此隅山城を落とすことは出来なかった。これを以って兵站の大事さを理解してもらいたい。
そして目下の悩みは孫四郎である。どうやらまだ蟄居させられたままの様だ。これは口を出しても良いのだろうか。いや、光秀に任せたのであればそのまま任せるべきである。
やはり、領地が増えても悩み事というのは尽きないものだなと痛感させられるのであった。
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