未来への備え
天文二十四年(一五五五年)八月 若狭国 後瀬山城 武田氏館
「いやはや! 孫犬丸様の御慧眼、恐れ入りましてございまする」
源四郎が屋敷にやって来るなり、俺に平伏した。人目の付かない、俺の自室に通しておいて良かった。
慌てて頭を上げさせる。目立つ行為は避けていただきたい。身分差がある以上、四歳児に頭を下げる商人という構図はおかしくないが、外聞がよろしくないのは確かだ。
「はて、私の慧眼とは一体何のことにござりましょうや?」
「はい。あの後、一月後に本当に毛利が戦を始めましてね。これから大戦に発展しそうでして。たんまりと儲けさせてもらいましたわ。いやぁ孫犬丸様、様様にございますれば。ここから大戦に発展しましょうぞ」
同じことを二度言ってから俺の前に箱を置いた。それ程までに儲けたのだろう。源四郎の顔から笑みが止まることがない。文が俺と伝左、源四郎の三人分の白湯を運んでくる。
俺は伝左に箱を開けさせる。すると、中には大量の銭が入っていた。恐らくは五百貫はあるだろう。こんなに稼げたのだろうか。いや、そんなはずはない。
五百貫がどれだけ大金かというと、帝が崩御されたときに行う葬式、つまり御大葬を行う費用がおよそ千貫程であると言われている。
朝廷ではその銭すら捻出するのが難しいと言われてるにも拘わらず、源四郎はその半金をポンと端銭の様に扱っていた。まあ、朝廷や武士に関して言えば誇りが邪魔をしている感は否めないが。
現在の日本円の貨幣価値に換算すると、五百貫はざっと七百万くらいだろう。それを源四郎はにこやかな笑顔と共に俺に渡してきたのだ。これで怪しまない訳がない。
訝しんでいる俺に源四郎はこう述べた。すると曰く、前金でもあると。どうやら源四郎の奴、俺がまだ戦の情報を持っていると睨んでいるようだ。こんな稚児に戦の知らせなど降りてくるものか。
受け取るのは悪手である。これを受け取るということは今後も源四郎に情報を流し続けなければならない。情報が無ければ失望されて切られるのだ。そのような危険な橋は渡れない。
「こちら、お返しいたす。全ては受け取れぬ。稼いだ分を頂戴できればそれで良い」
銭が詰まった箱に手をかける。重たい。欲望に負けそうになるが、頭を軽く振って箱を押す。目先の利益に惑わされてはいけない。源四郎はじっと俺の行動を見つめていた。そして声を殺して笑い始めた。
「くっくっく。いや失敬。あまりにも見た目とはかけ離れた行動をなさるものですから、つい。孫犬丸様は本当に稚児なのか分からなくなりますなぁ。では、代わりにこちらをば」
そう言って源四郎は俺と伝左の前に麦こがしの乗った皿をずずいと進める。俺に断られることは想定済みだったのか、それとも銭を与えた上で菓子にて手懐けようとしたのか。そして、さっそく懐柔された男が一人。
「然り。それは某も常々感じておりました」
口いっぱいに麦こがしを頬張ってそう言うのは伝左である。そう突っ込まれて俺は内心で冷や汗を流していた。
確かに子供らしくは無い。だって中身が大人なのだから。しかし、このまま子供のフリして時を過ごすと滅亡が確定してしまう。どうすれば良いというのか。
「いやあ、子供など、誰も彼も今はこのような感じであろう。ははは」
笑って誤魔化すしかなかった。乾いた声が室内に響く。祖父も父も俺に大した興味を抱いてなかったから、バレることはなかった。
いや、興味が無いと言うか他で手一杯と言った方が良いかもしれない。だが、伝左と源四郎は違う。俺個人に注目しているのだ。これは盲点であった。
「まあ、私にとってはそこはどうでも良いのです。とりあえず、この銭はお納め下さいませ。こちらは私の賭け金にございますれば」
源四郎が銭の入った箱を俺の前へと押し戻す。銭が再び俺の目の前まで転がり込んできた。どうする、本当にこの銭に手を付けて良いのだろうか。判断材料として、まずは源四郎の言葉の意味を探ることにする。
「賭け金とは?」
「言葉の通りにございます。私は武田の若殿様に『賭ける』のでございます」
そして源四郎はじっと俺を見る。俺はほぅと息を吐いた。段々と理解できた気がする。
つまり、源四郎は賭けると申しておるが、リスクを分散して投資しようとしているのだろう。俺は武田の嫡男だ。懇意にしてもおかしくはない。
俺が若狭の国主になった暁は優遇しろ、ということだろう。そもそも若狭の国主に成れそうもないのだが。
正直、祖父と父の関係は拗れに拗れてきている。それはもう、本家である信虎と晴信のそれと同じかそれ以上に。
なんだ。武田家は親子で争う仕来りがあるとでも言うのだろうか。祖父と父の争いだ。必ず俺にも飛び火してくる。そう考えると、この銭は受け取っても良い気がしていた。
「分かった。では、この銭を全て使って米を買い、毛利か陶に高値で売り付けて欲しい」
「おや、これ以上儲けるおつもりでございますか。それでは私どもの商売が上がったりにございますれば」
「みなまで申さずとも理解しておる。儲けた銭で戦後に毛利か陶から武具を買い叩いて熊川の沼田上野之助の許までお送り願いたい」
熊川は俺の隠れ蓑だ。ここで力を付けて来たる日に備える。熊川であれば武者が四人、雑兵が二十人といったところだろう。ざっと千石の領地だ。
俺はこれを十倍まで増やしたい。相当無茶をしなければ成せないが、それでも少ないくらいなのだ。
戦が終わった後の毛利か陶と伝えたのは、敵方の武具防具を二束三文で買い込めるからである。雑兵も売れないよりはマシだ。これを買い叩いて安く仕入れる。ま、おそらくは毛利だろうが。
「承知いたしました。武具と申しますと兜に腹巻、袖に胴丸、槍と弓に太刀でよろしいでしょうか?」
「いや、兜は要らぬ。鉢金のみで。袖も胴丸も高いから不必要。腹巻のみで構わぬ。太刀や槍よりも弓を多く仕入れていただきたい」
「承知いたしました。ではそれを熊川の沼田様にお届けいたしまする」
どうやら源四郎の読みでは武具が二百は用意できるとのこと。やはり武具は中古とはいえ高い。いや、そんなに必要ない。その半分の百を用立ててもらうことにする。
本来ならば種子島、すなわち火縄銃に飛びつくところだろう。だが、あれは数を揃えることで効果を発揮する。
しかも一五五五年の種子島となれば性能も知れているというもの、買い揃えるのであれば後で構わない。
今は高く、性能も良くない。この後は安く、質の良い種子島が出回るのだ。それであれば急いで買う必要もないだろう。
こんな話を現代で聞いたことがあった。種子島の名手、橋本一巴が弓の名手である林弥七郎と相まみえた。その結果、互いに痛み分けで終わったと。つまり、まだまだ種子島の精度、連射共に難しい面があるのだ。
種子島の強みは練兵の期間にあると考えている。弓よりも種子島の方が兵は早く扱いを覚えるのだ。弓兵は育成に時間を要する。しかし、今、時間はあるのだ。それであれば弓兵を育てるべきである。
「まあ、これだけは貰っておこう」
「やはり銭の誘惑には勝てませぬか」
「そうではない。この百貫は民のために使うのよ」
そう言って俺は百貫文だけ懐にしまう。この百貫を何に使うか。それは粟屋と逸見を買収するために使うのだ。たったこれだけで買収できるとは考えていない。俺に心を寄せてくれればそれで良いのだ。
その百貫の中から伝左に借りていた三貫を返す。
領内で戦が起きれば困るのは民百姓だ。百貫でそれが防げるのであれば安いものである。
「左様でございましたか。孫犬丸様はお優しいですな」
そう言って立ち去ろうとする源四郎を俺は呼び止める。まだまだやってもらいたいことは山ほどあるのだ。
「いや、まだだ。源四郎殿、残った銭で米を買っていただきたい」
この場に居た誰もが頭の上に疑問符を浮かべただろう。米を仕入れて戦の最中である毛利、陶に高値で売る。そうすると決めたはずなのに、また米を買えというのだ。特に伝左は慌てた顔をしていた。此奴には腹芸を仕込まねばならぬな。
「わ、若様。若様の仰る意味が――」
「慌てるな、伝左。今、其方にも理解できるよう噛み砕いて説明しよう。俺が欲しい米はな、収穫後に豊作だった米だ。いや、米じゃなくても構わん。粟でも稗でも蕎麦でも良い。安く大量に買える食い物を買い叩いて熊川へ運びたいということよ」
そう言うと伝左ではなく源四郎から「成る程、承知仕りました」という声が上がった。どうやら俺の意図を汲んでくれたらしい。伝左はまだ理解が追い付いていないようであった。源四郎が更に優しく説明する。
「つまり、孫犬丸様は豊作の地域から米や蕎麦等を安く買い入れようというのでございます。毛利家と陶家の戦は刈り入れ前、つまり米が一番高い時期にございますれば。豊作だったところから買い戻せば……。いやはや、やはり神童にございますな!」
手放しで俺を褒める源四郎。やはりこの男は油断ならない。いや、商人という生き物が油断ならないと言っても過言ではないのかもしれない。
そして商人である源四郎が米の転がし方を知らぬ訳がない。つまり、武家であり稚児である俺がその手法を取り入れることを驚いているのだろう。問題は輸送だが、此処は若狭。そして小浜もある。海運が使えるならば、仕入れるとすれば越後だろうか。
もう一度、俺はずずと銭の入った箱を源四郎の前に動かした。これで話は終いである。もうこの話はしたくない。何か、話を逸らす良い方法は無いものか。そう思った時、こちらに向かってくる複数の足音を耳にした。
俺は立ち上がり、すぐさま戸を開けた。すると、そこに居たのは俺の母親である幸であった。歳は未だ三十手前。いや、下手をすると二十半ばかもしれない。俺の母親はどれだけ若いのだ。
しかし、これは幸いだ。俺は童心に返り、無邪気な笑みを浮かべて母親に近付く。そう、俺は源四郎との話を逸らすために母親を利用しようと考えたのだ。母の侍女である八重も一緒だ。
「おや、孫犬丸。そんなところで何をしているのです?」
「はい、母上、源四郎なるものが某に刀を贈ってくれるというのです。母上もご一緒にいかがでしょう?」
「これこれ、母の手を引っ張るでない」
「お方様!」
母と侍女を部屋に招き入れ、上座に座らせる。伝左も源四郎も伏せて事の趨勢を見守っていた。
母が歩く度に金色に輝く打掛がひらひらと舞う。これは相当な浪費家と見た。
「良い良い。伝左も源四郎なる者も頭を上げよ」
そう述べる母。どうやら母は組屋源四郎のことを存じないようだ。これは源四郎に恩を着せることが出来るかもしれない。主導権を握って話を進めていくとしよう。
「源四郎殿、某に刀を戴けるとのことでしたな。如何なる刀でしょうや?」
年相応に無邪気に述べる俺。別に刀など貰えなくても構わない。話を逸らすことが出来ればそれで良い。
そして用意できる刀で源四郎の力量が図れるというもの。それ次第では母に取り次ぐのも吝かではないぞ。
ただ、問題は更に財政を圧迫してしまう点にある。まあ、まだ家督を継ぐ訳でもない。父上に頑張ってもらうことにしよう。自分で借りた借銭は自分で返してくれ。
「そうですなぁ。若狭には中島来派の宗長、宗吉の兄弟、更には相州派の冬廣などが居られまする。また、若狭より南に下った山城国は刀鍛冶の盛んな国にございますれば。古くは三条派、粟田口派、来派、最近では信国派や鞍馬派等がございまする。私共の伝手を辿って名刀の小脇差を一振り、手に入れて御覧に入れましょう」
どれもこれも某ゲームで聞いたことのある刀工である。やはり当時から名刀と名高い刀派だったようだ。
そう申して頭を下げる源四郎。俺はその頭をわざとらしくぺしぺしと叩きながら大きな声で「大儀であるっ!」と述べた。源四郎はそれに乗っかり「ははーっ。勿体無きお言葉」と返す。お互いに笑いを堪えるのが大変だ。
俺は母の侍女である八重に「若様、そのようなことをしてはなりませぬ」と窘められてしまった。野暮ったい返事をして母の横に甘えるように座る。いや、枝垂れかかる。母から甘い香りがした。
「母上も何かこの源四郎に頼んでみては如何でしょう? 母上はいつもお綺麗ですから打掛を源四郎に頼むというのはどうでしょうや」
母が俺を優しくゆっくり撫でながら「そうねぇ、お願いしようかしら」と述べる。ただ、勘違いしないでいただきたい。俺も母も銭は一切持っていない。そう、父上から毟り取るのだ。
「源四郎。其の方、我が父と懇意にしておるか?」
「ええ、それはもう」
「では、父上にお伝えいただきたい。母上が打掛を欲しがっていると」
「承知仕りましてございまする」
それから目で合図を送る。俺が出来るのはここまでだ、と。ここから先は源四郎の手腕にかかっている。だが、この言質を引き出せたのは大きいはず。源四郎なら上手くやるはずである。
俺ならば、征夷大将軍を使って父を篭絡する。母は征夷大将軍である義輝の妹。着飾らせない訳にはいかない。そして俺は征夷大将軍の甥だ。義輝は剣豪としても名を馳せている。刀を与えるべきだ、と。
「伝左衛門殿、源四郎殿、今少しこちらに」
母の侍女である八重が二人にそう声を掛け、別室まで先導していく。どうやら、母が八重に頼んで席を外してもらったようだ。部屋に残ったのは俺と母のみである。
「孫犬丸や」
「はい、母上。何でございましょう」
「あまり我が侭を申してはなりませぬ。貴方のお父上も今はお苦しい立場となっているのですから」
顔を伏せて悲しい顔をしながらそう述べる母。どうやら俺にまで辛い思いをさせると考えているようだ。
ふむ、これは父が廃嫡される未来も想定して動いた方が良いのだろうか。申し訳ないのだが、若狭武田の詳細な系譜は覚えていない。祖父の失策がそこまで響いているのか。
そして母の言う父の苦しいお立場。これは俺も理解している。現当主である祖父、武田治部少輔信豊は足利が足枷になってきているのだ。そして家臣達もこれに賛同している。では、何故足利が邪魔になって来たのか。
それは足利義輝が「三好を討て」しか言わないからだろう。三好が嫌がることであれば何でもする。今はそうなっていると聞く。さぞ、朽木谷に籠もって抑圧された日々を過ごしているのだろう。
「承知いたしました。申し訳ございませぬ」
とりあえず謝罪をする。上辺だけの謝罪など、ビジネスマン時代に嫌という程、行ってきた。
心苦しいのは母が俺が本当に心から改心したと思っている点だけだ。「分かれば良いのです」そう述べて再び頭を優しく撫でる。
どうやら、まだ俺の命は安泰ではないらしい。母に撫でられながら今後の行動計画を練るのであった。
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