浅井の脅威
永禄三年(一五六〇年)十月 近江国 小谷城 熊谷伝左衛門
立派な門が目の前にあった。流石は聞こえし堅城の小谷城である。
某は今、御屋形様の名代として浅井新九郎を訪ねるために北近江の小谷城へと向かっている。要件は関係の改善だろう。向こうから誘いの手紙が来たのだ。
それを御屋形様は「伝左、行って参れ。一任致す」で済ませてしまうのだから困ったものである。これを信頼されていると取るべきか、それとも面倒ごとを投げられたと思うべきか。
と言うか、そもそも我が武田と浅井は戦などしていないので、関係改善と言うのはおかしな話なのだが、浅井新九郎は不慮の事故で武田伊豆守様を討ち取ってしまったのだ。これを気に病んでいるのだろう。
いや、違うな。気に病んでなどいない。浅井と六角の戦で背後を突かれるのを嫌ったのだ。そして御屋形様は浅井と朝倉の両家に攻められるのを嫌った。互いに利害が一致したのだ。
それで浅井久政が葬儀に派遣されたのだろう。この親子、仲が悪いなどと言うのは嘘だ。小谷城に赴いて理解した。浅井を大きく、強くするためにそう動いているに過ぎない。
これは早めに六角と潰し合ってもらわねば。いや、この際だ。三好と潰し合ってくれても構わないぞ。どうにかして浅井の肥大化を抑え、我等を大きくしなければ。
某と供の市川右衛門は小谷城の一室に通され、待たされる。待たされているが、これは敢えて待たせているのだろう。某の反応を伺ってるのか、それとも自分が上だと示威したいのか。
「遅くなり申した。某が浅井新九郎にござる」
やって来たのは十五、六の壮健な若武者であった。目が獲物を狙っているそれである。傍には父である久政とお付きの武者――後で聞いたのだが、遠藤直経とのこと――が控えていた。
「なんの、この小谷城からの景色を堪能させていただいており申した。私が名代の熊谷伝左衛門にございまする」
「伝え聞いておるぞ。孫犬丸殿の傅役だそうだな。よろしく頼むぞ」
「ははっ」
余裕の笑みを浮かべながら首を垂れる。こんなことでいちいち苛立っていられるか。
新九郎は某のその様子を、一挙手一投足見逃すまいとじっと見つめていた。
「此度、浅井下野守殿に御呼ばれ致しまして伺わせていただいた次第にございまする。して、ご用件は?」
何の用ですか、と尋ねた。いや、勿論理由は分かっている。だが、要件は其方から切り出してくれよということだ。既に主導権争いは始まっているのだから。
「わざわざ御足労痛み入りまする。他でもない、孫犬丸殿の御父上に関してにござれば。首をお返し致す」
下野守殿がそう言うと女中が抱えられる程の箱を持って部屋に入ってきた。あの箱の中に伊豆守様の首が入っているのだろう。それを受け取り、右衛門に渡す。用件はこれだけだろうか。
「某としては武田殿と争うつもりは毛頭ございませぬ。戦のこととは言え、この通りにござる」
意外にも頭を下げる新九郎と久政。それから遠藤喜右衛門の三名。此処で素直に頭を下げてくるとは思わなかった。もっと対等に話し合ってくると思っていた。
それも御屋形様ではなく名代の某にである。これは素直に驚いた。こういうとき、御屋形様であればどのように考えるであろうか。深呼吸する。
いや、違う。これは某が更に下手に出なければならないのだ。御屋形様の声が聞こえる。『頭を下げるだけならばタダよ』と仰っている御屋形様の声が。
そしてそれを浅井新九郎は理解している。そう思うと目の前の御仁が御屋形様に匹敵するほどの手強い一癖も二癖もある武将に見えてきた。
もしかすると若狭に攻め込む口実を作り出そうとしているのかもしれない。それであれば下手なことは口走れないぞ。慎重に言葉を選んで発しなければ。
御屋形様からも今は浅井と争う気はない。下手に刺激するくらいならば涙を呑んで下手に出よと仰られていた……気がする。今はただ耐えるのみだ。
「……何を仰られますか。勝敗は兵家の常にございます。負けて討ち取られたのであれば、ご先代様がそこまでだったのでしょう。新九郎様には何の非もございませぬ。頭をお上げ下され」
某はこう言うしかなかった。こう言わされたのだ。何故なら攻め込まれたら勝ち目は無いから。
此処で和睦へと導く他、残された選択肢は無かったのだ。新九郎には若狭に攻め込むという選択肢もある。これが武力か。
御屋形様の気持ちが今ならば少し理解できる。強くなければ食われるだけ。御屋形様も強くあろうと藻掻いているのだ。某も見習わなければ。
今回は御屋形様の後見人である公方様の顔を立てるため、和睦に切り替えたのだろう。そうとしか思えない。
では、新九郎は我らに何を求めているのか。思い当たるのは一つ、六角との和睦の仲介を求めているのだろう。
公方様に六角と和睦して三好を討てとでも言われただろうか。公方様ならは言いそうではある。我らとしても六角、浅井、三好の三家が争ってくれるのであればこれ以上、有り難いことは無い。その間に力を蓄えることが出来る。
ここで得心が言った。御屋形様が出立する前、某に述べたことをここで思い出す。浅井を三好にぶつけろ。そのためならば多少の無茶はするつもりだ、と。
頭で話の持って行き方を組み立てていく。御屋形様と連れ添って幾数年。段々と御屋形様に思考が感化されていくのがわかる。
「当家としては浅井殿に何の敵意もございませぬと主人が申しておりました。もし、六角左京大夫様とも和睦される心積もりなら僭越ながら我が仲立ち致すとも」
「おお! 左様にございまするか、忝い」
浅井としては六角と対等に成れたらば戦に勝ったようなものである。しかし、某としてもこのまま話を進めるのは癪なので、少しだけ難癖を付けさせてもらうことにした。
「しかし、某が御屋形様を説得するには手ぶらでお願いに伺う訳には……。六角左京大夫様を説得が能うかどうかも……」
つまり、何か寄越せと問うているのである。手ぶらで帰ったのであれば御屋形様にどやされてしまう。銭かもしくは銭に準じるものを寄越せ。それがあれば御屋形様は喜んでくれよう。
銭で独立が買えるのであれば安いものであろう。浅井も稼いでいると聞く。やはり淡海に領地を持っているのは強いのだな。御屋形様が知ったらば淡海を欲しがるだろう。
「承知いたした。では手付に五百貫。和睦で必要ならば、相成ればさらに五百貫支払おうぞ。そうお伝えいただきたい」
「……承知仕った」
新九郎も馬鹿ではない。我らにいくらか中抜きされるのは想定内だろう。それを慰謝料と判断しているのかもしれない。しかし、五百貫をぽんと出すとは。どれほど銭を持っているというのだろうか。
既に浅井と六角の仲立ちは御屋形様から公方様に依頼してもらうしかない。多少の無茶をしても良いと仰ったのは御屋形様だ。某は悪くない。
六角には浅井を三好攻めの急先鋒に仕立て上げるとでも述べておけば承諾してくれるのではないだろうか。そして六角は三好と浅井が弱ったところで浅井を喰らう。そう言う筋書きであれば話が通るように思う。
そして我等が武田は我関せずに丹後の一色を喰らう。浅井はそれからだ。まずは戦で疲弊してもらわないことには始まらない。御屋形様の仰る通り、今の我らと浅井の戦力は雲泥の差なのである。
「それでは御屋形様に御執り成しをお願いしてございまする。これにて野良田の件は手打ちとするよう、進言いたしましょう」
「おお、有り難い!我らは隣国故、今後とも良しなにお願い申す」
浅井はそう簡単に呑み込めん。力を付けなければ喰らうことは出来んのだ。それまでは先代様の仇とは言え、臥薪嘗胆の思いで待つのみである。
御屋形様が某を名代として遣わしたのは、浅井のその大きさを身をもって体験して欲しいと思ったからではないだろうか。そう考えれば全て辻褄が合う。
「それでは私は是にて」
「いやいや、待たれよ。そう急く必要もござらんではないか」
某が席を立とうとしたところ、新九郎が呼び止める。長居はしたくないのだが、無下にすることもできない。ああ、非常に面倒だ。そんなこちらの気持ちなど無視して一方的に話し始める新九郎。
「実は我が姉が京極長門守に嫁ぐことになってな。祝いの品が何が良いかと頭を悩ませておるのだ。伝左衛門殿、何か良い案はござらんか?」
嫌な話を聞いてしまった。これは浅井長政による優位性の誇示だ。名門である京極家を取り込んだぞ、という新九郎の誇示。下剋上を成し遂げたぞという喧伝。
つまり、名実共に北近江の国主は自分であると暗に伝えたかったのだろう。
「……そうですね。名門のお家柄でございますので御屋敷などをお贈りするのは如何でしょうか?」
屋敷を提供するのには意味がある。住む場所をこちらで決めることが出来るのだ。周囲に変な虫を寄せ付けることもない。そして目を離すと厄介になる。つまり、管理が楽なのである。
「ほう、それは良いことを聞いた。土地を選んで豪華な屋敷を建てることにしよう。感謝いたす」
浅井は着々と台頭してきている。その事実を見せつけられ、焦りが募る。早く丹後を吸収せねば。次に喰われるは我等かも知れぬ。
「いえいえ。そう仰っていただけただけでも重畳というもの。それでは」
「御足労感謝いたす」
新九郎が席を外す。それに合わせて某も足早に小谷城を後にした。焦りのせいか、歩く速度が心なしか早い。右衛門が慌てて俺についてくる。
こうしては居れない。帰ったら御屋形様に全てを報告しなければ。悠長なことは言ってられないのだ。
御屋形様が何とかしてくださると思い込んでいた。褌を締め直す。自分が優位だと何処か慢心しているところがあった。そんなことはない。油断した者から喰われていくのだ。
某は覚悟を新たにして、後瀬山へと戻るのであった。
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