六角左京大夫義賢
弘治二年(一五五六年)十月 近江国 観音寺城
ということで、その祖父に会いに行くため観音寺城へと向かっている。
「いやぁ、絶好の旅日和ですなぁ! 若様、伝左殿、そう思いませぬか?!」
そう騒ぐのは市川信定。歳は伝左よりも少し下だろうか。伝左と違うのはその身体つきである。何といっても胸板が厚い。しかし、その分だけ脳味噌に栄養が行き届いてない様にも見えるが。
「はぁ」
思わず溜め息が漏れてしまう。いや、この溜め息は何も信定に限ったことではない。一番の悩みは祖父が何処へ行ったか探るのに一か月も掛かったことよ。
恐らくは近江だと思っておったが、それが定まるまでに時間が掛かり過ぎている。忍び、素っ破、草の者、何者でも良いから配下に欲しい。
今回、観音寺城を訪れるのは祖父を連れ帰るためである。流石に六角の手元に武田の当主を置いておく訳にはいかない。まだ父は若狭守護を祖父から正式に譲り受けていないのだ。ただ、事実上の守護は父になっているようだが。
しかし、このままでは祖父は首を縦に振らないだろう。何かと条件を付けなければ帰ることはあるまい。その条件をどうするか、である。まず、祖父は逸見昌経が治める砕導山城に送る。これは決定事項だ。
それは父と祖父に物理的な距離を置くという意味もある。だが、それだけでは首を縦に振らないだろう。それもこれも父が強過ぎるのだ。少し、祖父に肩入れしなければ釣り合いが取れない。
であればどうするか。粟屋勝久を呼び戻すのも一手である。祖父、逸見、粟屋の三人を砕導山城に集め、父への対抗をさせるのだ。平時であれば揉めるだろうが、父という共通の敵がいれば問題無いはず。
これで大飯郡はほぼ祖父の手に渡るだろう。実際は逸見と粟屋のものだろうが。しかし、それでも決め手に欠ける。とは言え、父を弱らせることは出来ぬ。情に訴えてみるか。それは賭けだな。
預かり先の六角もどう思っているのか気になるところではある。疎ましく思っているのか、それとも良い手駒が手に入ったとほくそ笑んでいるのか。後者だった場合、簡単には手放さぬだろうから厄介だ。
「伝左、俺が向かうことは六角様に伝わっているのか?」
「はい、勿論にございます」
「そうか。右衛門、先触れで一走りしてもう直ぐ到着すると伝えて参れ」
「ははっ!」
返事をし、馬を走らせる信定。俺は伝左の前で馬に揺られながら延々と思考を巡らせるのであった。
そして、程なくして現れる観音寺城。
「こ、ここか」
首が疲れるほど空を見上げる。それ程まで観音寺城が大きいのだ。特筆すべきは郭の多さよ。国吉の城も見事であったが、観音寺城と比べると……いや、比べることが烏滸がましいのだ。
「武田孫犬丸様にございましょうや?」
俺が観音寺城に見とれていると一人の男が進み出でて跪いていた。俺は下馬して――正確には伝左に降ろしてもらって――静かに頷く。
「遠いところ、よくお出で下さいました。某、山崎丹波守と申しまする。御屋形様がお待ち故、ご案内仕る」
そう言って歩き始める山崎宗家。俺は伝左と彼の後を追った。追うのだが、一向に本丸に到着しない。
いくつの郭を通っただろうか。足がパンパンになってきた。伝左が俺を気遣う素振りを見せるが、俺は先んじて「気にするな」と告げる。ここで甘えては舐められてしまう。
「この先に御屋形様がお待ちでございまする。お付きの方はこちらに」
汗まみれになってやっとの思いで到着したかと思えば、直ぐに六角義賢に会えと。俺は確信した。どうやら試されているらしい。それであれば相応に振舞おうではないか。
手拭いで汗を拭い、服装を正して軽く両頬を叩く。今回の目的はあくまでも祖父を連れ帰ること。それを間違えてはならない。小姓が開けた襖を通り、伏し目がちに進み出でて座り、平伏する。
「武田孫犬丸にございまする。此度は私のためにお時間を割いて下さり、感謝の意を申し上げまする」
自分でも驚くほど怜悧な声が出た。そして何故だか前世をふと思い出してしまった。
それは営業に赴いた時のことを思い出したからだろう。わざわざお忙しいところを時間を割いていただき、すみません。ありがとうございます。成程、それと一緒ではないか。小さく笑みが漏れる。
「面を上げよ。そう畏まるでない」
その言葉に従い、顔を上げる。周囲には沢山の人が左右に座っていた。後藤、進藤、平井、蒲生、三雲、目賀田の六角六宿老は勿論のこと、布施、山中、多羅尾など錚々たる顔ぶれが居るに違いない。ま、誰が誰だか分からんが。
しかし、その中に祖父の顔は無かった。どうやらこの場に呼ばれていないようだ。と、いうことは今日この場に俺が来ることが伝わっているかも怪しい。
そして正面に居るのが六角義賢だ。やや小太りな男ではあるが、王者の風格が備わっている男だと肌で感じた。たおやかな表情を浮かべており、全てを許すような包み込むような包容感のある大名であった。
そして傍に若い男。歳は十三、四といったところだろうか。恐らくは義賢の息子だろう。こちらを侮蔑するような、優越感に浸った顔で見下していた。どうやら自尊心の強い男らしい。
「よう遠いところを参られた。儂は其方の大伯父。身内も同然ぞ。さ、もっと近う寄れ」
そう言われて膝をついたまま躙り寄る。「もっと近う」と言われるので更に躙り寄った。俺と六角義賢の距離はちょうど人一人分程である。俺は静かにゆっくりと脇差に手を伸ばした。六角の重臣達が目を見開く。
「誤解されても困ります故」
そう述べてから脇差を腰から鞘のまま抜いて眼前に置く。流石にこのような所で抜く馬鹿ではない。六角を敵に回すような真似をする訳がないだろう。六角は近江を支配している大大名。関係はまだ崩したくない。
「如何であったかな? この城は」
六角義賢はそれに触れる事無く、俺にこの観音寺城の感想を求めてきた。つまり、忖度してヨイショしろということだろう。それであれば全力でヨイショさせていただこう。
「このような大きな山城は初めてにございまする。郭の数も数え切れぬ程多く、宗滴公でも攻め落とすことは能いますまい。左京大夫様のお力には感服致しました」
よくこの巨城を織田信長は落としたな。いくら弱体化した六角とは言え、落とすのは一苦労だったに違いない。
俺だったら絶対に攻め掛かりたくはない。包囲して飢え殺しにするだろう。
「そうかそうか。気に入ってくれたようで安心したわ。孫犬丸もゆるりと滞在しても良いのだぞ?」
「そうも参りませぬ。名残惜しくはございますが、御祖父様をお連れして若狭に帰らねばなりませぬので」
笑顔でそう告げる。商談では常に笑顔を浮かべていろと俺は習った。そしてこれは商談である。更に言うと俺の方が立場が下だ。発注側でなく受注側なのだ。ならば常に笑顔で対応しなければ。
ここで父上から預かった手紙を渡す。勿論、六角義賢本人ではなく、傍にいる男。後藤賢豊に手渡し、本人に手渡してもらう。義賢がそれに目を通す。
「そうであったか。しかしな、義兄殿は帰りたくないと申しておる。若狭に戻ると息子に弑されるのだとか」
「斯様な冗談はおやめ下され。子が親を殺すなどあるはずもないでしょう。根も葉も無い噂にございますれば。そのようなこと、御祖父様が仰るはずがございません。恐らくは誰かが大伯父上に歪め伝えたに違いございません。さて、左京大夫様にそのような二心を抱く輩は何方かな?」
そう言って周囲をゆっくりと睨め付けるように見渡す。各人の反応が様々で面白い。俺の発言に怒る男。俺を歯牙にもかけない様子の男。その反応は十人十色と言っても過言ではないだろう。
「儂はそのように伺ったが、はて、違ったのか? 楢崎太郎左衛門」
「い、いえ! そのようなことはございませぬ。某、本人の口からはっきりと伺い申した。『武田は子が親を喰らい、大きくなるのだと。甲斐の武田のように』と申されておりましたぞ!」
祖父の言葉を取り次いだであろう武士の一人が懸命に声を上げている。この男は嘘を吐いていない。嘘を吐いているのは俺だ。祖父は父に殺されると思っているに違いない。俺もそう思う。
だが、祖父に会わねば話が進まんのだ。言った言わないの水掛け論に持ち込めば、祖父をこの場に引きずり出すことが出来る。その場で改めて祖父を説得すれば良いのだ。
「さて、困ったのう。孫犬丸と太郎左衛門の意見が食い違うておる。孫犬丸よ、太郎左衛門がそう耳にしたと申しておるのだし、納得してはくれぬか?」
「これは異なことを。然らば御祖父様をこの場にお呼びいただけませぬので?」
俺と六角義賢の視線が絡み合う。どうやら義賢としてはどうしても祖父をこの場に呼びたくないらしい。
孫に会わせると里心が付いてしまうと考えたか。正直、俺としては祖父が亡き者になっても構わない。いや、むしろ帰ってきてくれないのであれば、それを願ってしまう。
重要なのは若狭に攻め込む大義名分を与えないことだ。祖父を握られてるのは若狭の心の臓を握られていると同義である。勿論、攻め掛かられても追い返せるやもしれんが、被害は大きい。避けられるなら避けたい。
俺の問いに義賢は答えない。とは言うものの、このまま強気で押し込むか悩ましい。
「まあまあ孫犬丸様。落ち着かれなさいませ」
俺は落ち着いているが。何をどう見て俺が落ち着いていないと判断したのか、小一時間問い詰めたい。お前の言葉で俺の冷静さが失われそうだ。
そうしゃしゃり出てきたのは一人の男。五十を目前にした仏頂面の男であった。俺を見下しており、なんともいけ好かない男である。
「どうでしょう。まずは観音寺をゆるりと見物なされては如何かな?」
それは祖父に会うのを諦めろ、と。暗にそう伝えているように見えた。さて、ここは大人しく従っておくべきか。それとももう少し粘ってみるべきか。その貼り付いたような笑顔が俺の神経を逆撫でする。
「どちら様にございましょう?」
「おお、これは申し遅れました。某は蒲生下野守と申す。以後、お見知りおきをば」
そう言いながら床に手を付き頭を下げる。この男が高名な蒲生定秀か。ここは蒲生定秀の顔を立てるべきか。それとも定秀の顔を潰すべきか。毎度、二択問題が迫ってきて嫌になる。
「蒲生殿、私は左京大夫様とお話しております。余計な口出しは無用に」
「しかし——」
蒲生に二の句を告げさせず六角義賢に向き直り話し掛ける。もう知らん。蒲生の面子も潰して何もかも手早く終わらせてしまおう。空手形でも何でもしてやる。所詮は稚児の戯言よ。
「左京大夫様、何やら浅井が怪しげな動きをしているようにございますな。その裏では朝倉が動いているとか。しかしながら左京大夫様は私の大伯父上。切っても切れない縁がございまする。そして若狭は越前にも通じておりまする」
つまり、俺は六角の味方だよ。今はね。ということを告げているのだ。そして、俺が居ることで浅井を挟撃することが出来る。そして朝倉からの援軍を抑えることも出来るのだ。そんな俺を不機嫌にして良いのか、と。
「しかしながら朝倉の御当主であらせられる左衛門督様の母君は私の御祖父様の妹にございまする。朝倉は浅井と昵懇の仲らしいですね。はてさて、戦となった時にどちらに協力をするべきでしょうや。私に判断できませぬ」
それらを伝え、少し間を置いてから再び願い出る。「御祖父様を若狭にお連れしたい」と。
観音寺城を静寂が支配した。先程の蒲生も黙り込んでいる。
「其方が今此処に居ることは伊豆守殿もご承知なのかぇ?」
「勿論にございます。また、我が父の母は伯父上の妹御にございますれば。母を裏切る子が何処におりましょうや。ただ、申し上げました通り、私にとっては朝倉左衛門督様も我が叔父にあれば」
そう言って明言を避ける。言質は取らせない。俺は朝倉とも縁があるのだ。実は現当主の朝倉義景の母は俺の曽祖父に当たる武田元光の娘である。つまり、義景とは又従弟になるのだろうか。いや、もっと遠いか。
俺はどちらにも味方できる。そういう立場であると六角義賢に伝えたかったのだ。
ただ、いざとなれば俺が単身で援軍には来れる。兵は百でも連れてくれば良いだろう。
それくらいならば俺の力でも何とかできるはずだ。今は祖父を連れ戻すことこそが肝要。それ以外のことは後に考えれば良い。父に怒られても構わん。
「有事の際には存分に働いてもらうぞぃ」
「左京大夫様の許で初陣を飾れるとあらば武人の誉れにございまする。腕が鳴りましょう。ああ、それまでに元服を済ませねばなりませぬな」
にやりと笑う。お互い、言質を取らせないよう話を進めていく。つまり、祖父を返す代わりに浅井と朝倉が攻め込んできたら助力しろと。そういうことなのだろう。
ということは、どうやら祖父は若狭に返していただけるようだ。そうしてこの場はお開きとなった。ホッと肩の力が抜ける。何とか当初の目的を達成することが出来そうだ。
と言っても六角義賢は「祖父に会わせる」や「祖父を若狭に返す」などの言質を何も取らせてくれなかった。俺の言質が取られただけである。そして小姓らしき男が此方へと俺に近付いてきた。その後を付いていく。
「御祖父様!」
「おお、孫犬丸や。儂に会いに来てくれたのかい?」
案の定、祖父はそこに居た。どうやら、今さっき何が起きていたのかすら知らされていないようであった。それであるのならば、俺は何も言わない。
「勿論にございまする。さ、若狭へ戻りましょう」
「……孫犬丸や。儂はもう若狭には戻れぬ。若狭に戻った途端に殺されようぞ」
「そのようなことはございませぬ。逸見駿河守殿と粟屋越中守殿が御祖父様をお待ちですぞ。逸見殿の砕導山城であれば父上に会うこともございますまい」
「そうか……そうじゃな。そうしよう。実は儂も若狭へ帰りたかったのじゃ」
しゅんとしながら呟く祖父。どうやら故郷の若狭が恋しかったようだ。それはそうだ。六角の所ではさぞ肩身の狭い思いをしていたのだろう。
俺は祖父の手を握る。皺と傷跡が刻み込まれた手を。この手で祖父は若狭を守り抜いてきたのだ。その点に関しては尊敬の念しかない。最近は連歌や蹴鞠など京遊びに傾倒されているが。
「帰りましょう。若狭に」
俺は祖父と共に若狭へ帰る。その道中、色々な話をした。これまでの祖父の武勇談や趣味の連歌の話。そしてこれから先の身の振り方など色々な話を。俺はそれを伝左達と時に笑い、時に驚きながら耳にするのであった。
しかし、俺は知らなかった。どうやら将軍が六角に祖父を若狭に返すよう、根回しをしていたのだ。父上の根回しだろうか。ほくそ笑んでいる六角と蒲生の顔が目に浮かぶ。
つまり、俺は要らぬ約束を交わしてしまったことになる。これは、抜かった。
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