次なる戦
永禄十年(一五六七年)十月 若狭国 後瀬山城 武田氏館
今年は豊作の年となった。どうやら地道に進めていた農業改革が実を結んだようだ。流石に合鴨農法をすべての水田で導入することは出来なかったが、田鯉農法は導入が完了している。
塩水選や田植え定規も導入されており、水田以外の土地では大根や南瓜、蕎麦の実が栽培されている。早くイモを手に入れたいところだが、焦りは禁物だ。
「城にはきちんと食糧を保管しておくよう厳命しておけ。日持ちする食べ物を正しく詰め込むようにと」
「ははっ」
小姓の井伊万千代に告げる。どこからも攻められる予定はないが、だからと言って安堵は出来ない。越前の朝倉や近江の六角が爆発してもおかしくは無いのだ。
いかんな。考えが悪い方へと流れている。少し水を入れよう。代わりに産まれたばかりの孫犬丸の様子でも見てこようか。
「御屋形様、火急の知らせにございます」
そう思い、立ち上がろうとしたときに襖越しに声を掛けられる。聞き覚えのない声だ。万千代に襖を開けさせる。見覚えはある。確か沼田上野之助の家臣だ。名前までは覚えておらなんだ。
「其方は確か上野之助のであったな」
「左様にございます。某を覚えておいでにございますか」
すまない。名前までは覚えてはいない。ただ、朧げながら上野之助の傍に侍っていたのだけは覚えている。そんな全員を覚えられるほど俺は優秀ではないのだ。
「ま、まあな。それで如何したのだ?」
「はっ、それが越前の朝倉より遣いが参られまして……その、足利義秋様が後瀬山城へ向かわれているとのことにございます」
「そうか」
どうやら平島公方が将軍位に据えられることを耳にしたのだろう。それを俺が取り成したかまではわからないだろうが、義栄が将軍になるのは既定路線だ。
「構わん。それであれば其方が迎えに行ってくれ。お見えになったら此処にお連れするのだ」
「ははっ」
何を言いたいのか手に取るようにわかる。なので、俺もどう対処すれば良いか明確に見えていた。そのために俺は文を認める。祐筆ではなく、俺の直筆の手紙だ。
それから曽根虎盛を呼び出す。これで準備は整った。いつ来ても構わんぞ、叔父上。なんて思っていたら明後日にやってきおった。顔を真っ赤にして部屋に入ってくるなり上座に座る。
「全く! どうなっておるのじゃ!」
どしんと座る叔父上。付き添いである三淵藤英と米田求政の表情も硬い。俺はそんな三名に対し、朗らかにこう述べた。
「何を仰いますか叔父上。このように目出度いことなど、そうそうありませぬぞ」
そう述べた瞬間、室内の温度が三度ほど下がった気がした。叔父上の鋭い視線が俺を射抜く。幕臣どもも俺がとち狂ったと思っているようだ。小姓たちは直ぐに下がらせる。部屋にいるのはこれで四人だけだ。
「何が目出度いというのだ、豆州」
「簡単なことにございます。平島公方が将軍位に収まることが確定的となった。平島公方の後ろ盾は三好。そして三好には敵も多い。だが、肝心の三好には代替わり以前の求心力は無い」
そこまで言って言葉を区切る。彼らに考える時間を与えるためだ。そして静かに、力強くこう述べる。
「好機ですぞ」
叔父上を、幕臣どもを焚き付ける。そう、彼らが反三好の旗頭となれば良いのだ。そうなれば畿内は再び荒れるやもしれん。しかし、それがどうした。そんな甘いことを言ってられる時分はとうの昔に終わったのだ。
「如何なさいますか、叔父上。このまま平島公方に対し指を咥えて見ているか。それとも平島公方に取って代わるのか。ここが勝負所ですぞ」
ごくりと喉を鳴らす叔父上。叔父上が甘く、温く見える。それは俺が擦れてしまったからだろうか。自分が戦国大名へと変貌していくのが手に取るように理解できた。
俺はただ、叔父上が声を発するのを待つ。静かだ。遠くから鳥の声が聞こえる。外はこんなにも長閑なのに、この場の空気は重く、冷たい。
「やるぞ、豆州。儂はやる」
「かしこまりました。この豆州、頂戴した刀にかけて微力ながらお手伝いいたしましょう」
修理亮盛光を腰から外し、丁寧に床に置く。今は亡き義輝様から賜った大切な太刀だ。今思えば、この太刀も俺の身体に合うようになってきた。賜った当時は大き過ぎて腰に差すこともできなかった。
「おお、そうか。其方が手伝うてくれるなら百人力じゃな」
「叔父上、まずは尾張に下向くだされ。織田殿の力をもって京へとあがるのでございます」
叔父上の言葉を無視する。そして尾張に向かうよう頭を下げた。織田の力なくして三好は退けられん。我ら武田が独力で当たっても勝てるかどうかである。
もし、我らが三好を駆逐して天下を獲ったとしても、織田と事を構えてしまっては意味がない。それならば織田に天下を獲ってもらった方が合理的というものである。
「こちらに文を用意いたしました。織田殿にお渡しください」
手紙を米田求政に手渡す。それから尾張までの護衛として曽根虎盛以下百名を付ける。間違っても叔父上を襲う馬鹿は居ないだろう。そんな人物が居たら四方八方から叩き潰されて終わりだ。腐っても足利である。
「善は急げと申されます。道中の手配も済んでおりますれば、急ぎご出立を」
「う、うむ。そうするとしよう」
輿を用意させ、叔父上をさっさと追い払う。出立する曽根虎盛を捕まえて耳打ちをする。彼にお願いするのは尾張までの護衛の他にもう一つあるのだ。
「尾張からの帰り道、京に寄ってくれぬか?」
「京にでございますか?」
「そうだ。そこで今出川の家を訪ねてくれ。おそらく曾祖父である武田陸奥守様がいらっしゃるはずだ。挨拶を頼む。孫犬丸に会いに来てくれと」
「かしこまりました」
武田信虎は京にて活動を続けており、飛鳥井雅教や万里小路惟房ら公家衆や南部信長ら諸大名と交流をしている。引き込めるなら引き込みたい。
「おまかせくだされ」
にやりと笑って曽根虎盛は自信満々に出立する。これで嵐は過ぎ去った。織田が俺の渡した手紙に好意を示せば、戦になるだろう。西での戦が終わったばかりだというのにだ。
「戦の準備をするか」
可愛い孫犬丸に癒されながら近江で起こるであろう戦に備えるのであった。
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