上洛への道
永禄十年(一五六七年)四月 近江国 太山寺城
竹中半兵衛と言葉を交わした後、俺は考え込むことが増えてきた。この乱世でどう生き抜くべきなのかを考えることが増えた。答えはまだ出ていない。
「御屋形様、真田源五郎殿から文が届いておりまする」
堀久太郎が俺に話しかけてくる。どうやら久太郎が取り次いでくれたようだ。文に目を通す。そこには六角が足利義秋に膝を折ったと記載されていた。どうやら説得に成功したようだ。
ということは家督が六角義治から六角定治に譲られたようだ。どのようにして説得を試みたのだろうか。帰ってきたら尋ねることにしよう。
しかし、これで朝倉、浅井、六角、北畠、畠山、そして我ら武田が足利義秋という神輿を担ぐことになった。問題は三好と争う気概が朝倉にあるかないかである。
さらに問題はある。松永久秀と三好義継がどちらに靡くかということだ。今現状であれば我らに靡くだろうが、それを鵜呑みにするのは拙い。足元をすくわれる結果となるだろう。
とはいえ、これで畿内の勢力図は固まった。足利義栄と三好三人衆。それに対し、足利義秋と朝倉、浅井、六角、北畠、畠山、武田である。うん、船頭多くして船山に上る結果しか見えない。
足利義秋を奉戴している朝倉に上洛の意思が無ければ、足利義栄が将軍位に座ることになるだろう。つまり、焦点は朝倉義景を動かせるか否かということだ。
無理、だろうな。いやしかし、朝廷が足利義秋という存在を枷にして足利義栄を将軍位に座らせないかもしれない。そうなれば三好は是非もなく仕掛けてくるだろう。そう仕向けることも可能だ。
三日後。真田昌幸が太山寺城に戻ってきた。どうやって六角義治を説得したのかと尋ねた。帰ってきた答えは
「説得してない」とのことであった。
「どういうことだ?」
「簡単なことにございます。美濃の一色が対浅井で盟を結びたいと申していたと伝え、そのまま追放したまでにございまする」
「追放して家督を相続か。はて、どこかで聞いたことのある話だな」
「今は乱世でございます。似たような話はどこにでもございましょう」
しれっとそう述べる昌幸。嘘も方便だ。そういうことにしておこう。では、我らの戦はこれにて仕舞いである。余談と称して昌幸にあることを尋ねてみた。
「ちなみに二千の兵を五千に見せかけるにはどのようにしたのだ?」
「現地の領民を用いました。荷駄を城に運び込むなど、移動を要するときに必ず旗を背負わせてございます。荷駄は細かく分け、何度も往復が必要にしており申した」
現地の領民に仕事を課したか。そして少しの銭を握らせる。これは考え方によっては高島郡で十分な開墾が進められず、国力が低下する恐れがある。我らへの依存度を高める狙いもあるとすれば、恐ろしい男だ。
「流石は父を追放して家督を継承した信玄公の奥近習だな」
「策を応用させていただいただけにござれば」
「ふふふ。いや、怒ってはおらん。策を上手く当て嵌められるかが才能よ。その点、流石だと伝えたかっただけだ。他意はない。さて、我らも陣を引き払って帰るとしよう」
「ははっ」
軍を解散し、太山寺城を後にする。これで六角騒動は一先ず終わりである。戦をせずに終わらせられたのは重畳だ。戦わずして勝つ。六角の膝を折ったのだ。これも立派な勝利である。
俺は足利義秋からお声が掛かるまで丹波の攻略に頭を使いたい。二人の将軍位の争いは均衡し膠着する。そう見ていた。
しかし、それは楽観視であった。あの義秋が堪えることが出来るわけがない。朝倉からの使いの者が来て我ら武田、六角、浅井は越前の一乗谷に集まるようにとの仰せであった。
北畠と畠山には戦準備を整えるよう、文を送ったらしい。どうやら朝倉を決起させ、三好と一戦交えるつもりのようだ。勝算はあるのだろうか。烏合の衆では勝てぬ相手だぞ。
「流石に心証を下げる訳にはいかんな。仕方ない、向かうとしよう。伝左衛門、供を致せ」
「ははっ。御屋形様と出掛けるのは久方ぶりですな」
「そうだな。手勢は困らない程度にしておいてくれ。長居をするつもりもないしな」
「かしこまりました」
そう言って伝左衛門が揃えた兵数は三百であった。少し多いとは思ったが、公方様に目通り願うのだ。少し箔を付けていくのが丁度良いだろう。
次はどんな無理難題を言われるのか。今から考えて胸が痛くなる。こうして越前は一乗谷に向かったのであった。
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