朝倉と真田
永禄十年(一五六七年)一月 若狭国 後瀬山城 武田氏館
年が明けた。年始の行事を問題なく終わらせ、娘の牡丹と遊んでいると嶋新吉が俺を呼びに来た。どうやら来客らしい。こんな時に約束もなしに誰だと思ったのだが、堀久太郎であった。
「如何した?」
娘を連れて久太郎と向かい合う。牡丹は久太郎に向かって手を伸ばしていた。どうやら、久太郎の膝の上に乗りたいらしい。この娘、どうやら久太郎の将来性を理解しているようだ。
「はっ。御屋形様に是非とも召し抱えていただきたい御仁がおりまして、推挙しに参りました」
「ほう、推挙か。其方が言うのだから間違いはないだろう。誰だ?」
俺は久太郎からその名を聞いてすぐさま会う手はずを整えた。流石は名人。彼らを誑し込んできたとは。それだけで褒めてあげたいくらいである。翌日、俺はその人物をすぐさま呼び出した。
「待たせたな、喜兵衛。いや、明けましておめでとうが先か」
「はっ。明けましておめでとうございまする」
「あ……明けまして、おめでとうございます」
武藤喜兵衛だ。彼の後ろにもう一人、彼よりも若い男が一人平伏している。とは言いつつも、俺よりも四つ五つ年上の男だ。名を尋ねると加津野信昌と述べた。武藤喜兵衛が言う。某の弟であると。
どうやら真田昌幸と真田信尹の兄弟が俺のもとを訪ねてきたというのだ。名前が違うのはご愛敬である。さて、今度は何を信玄に吹き込まれてきたのだろう。俺、気になる。
「して、どのような用件で参ったのだ?」
「はっ。恐れながら伊豆守様にお願いがあり、参上仕った次第にございます」
「ほう。どのような願いだ?」
「某と弟の源次郎の両名を是非とも召し抱えていただきたく、お願いにあがった次第にございまする」
久太郎からも聞いていたが、冷静に考えてみると意外な願いである。まさか武田信玄のもとを辞して当家に来る理由がわからない。真田家は武田家でも優遇されているはずなのだ。何を不満に感じてやってきたのだろうか。
「それは願ってもない話だが、今一つ解せんな」
「ご尤もにございましょう。説明させていただきたく。まず、某と弟の源次郎が真田家を継ぐことはないでしょう。また、甲斐の武田家で立身出世も望めませぬ。皆は我らを妬たく思っているのです」
「妬い、か」
確かに真田家は武田家の中で幅を利かせていると言っても過言ではない。いや、優遇されている。信玄公に気に入られているというのが正しいかもしれない。
彼らの二人の兄は武田家の中で重要な役目を果たしている。小県郡は広大である。兵も千は軽く動員できるだろう。しかし、彼らはそれを動かすことは出来ない。ただ、兄たちに命じられるだけだ。
とはいえである。喜兵衛は信玄の奥近習である。将来の幹部候補なのだ。ただ、その奥近習も義信の事件に連座させられたり一枚岩ではないのかもしれない。
もしや、信玄から送り込まれているのだろうか。いや、それはない。それならば藤の侍女に紛れ込ませるなり飯富虎昌にお願いすれば良いのだ。となれば、本当に本心から自身の将来を悲観しているのだろう。
気持ちは痛いほど理解できる。この時代は個ではなく家を重視する。そしていくら優秀だからと三男、四男までも重用していると他家から反発が起きるのも無理はない。
甲斐武田は一枚岩でないといけないのだ。じゃなければ国衆が北は上杉、南は北条に流れてしまうのだ。三国同盟など今に崩れる。武田が今川に攻め込んで崩れるのだ。
いや、待て待て。これは俺が考えることではない。武藤喜兵衛が自分の意思で甲斐を離れ、若狭に来たのだ。俺はそれを受け入れるかどうかだ。問題を勝手に複雑化し過ぎだ。そして、それならば答えは決まっている。
「わかった。両名を喜んで迎え入れようではないか。名はそのままにする気か?」
「いえ、戻しまする。某は真田源五郎昌幸と。弟は真田源次郎信尹と改めまする」
これで真田家は安泰だろう。どちらかが沈んでもどちらかが生き残る。真田の家名を保つ技は天下一品だろう。いや、それを言うならば武田も同じか。
さて、彼らの待遇を決めなければならん。いくら優秀といえど、いきなり部将や家老に抜擢するわけにはいかない。それこそ周囲の妬みの対象だ。しかし、出世したくて当家に来たのだ。そこは配慮してやらねば。
「知行に関しては追って伝えよう。まずは五百貫にてその方らを雇う。戦になれば兵は百以上率いてもらうぞ。如何か?」
「ははっ。ありがとうございまする!」
少なくとも今よりは良い待遇のはずである。まずは徐々に当家に馴染んでもらうことが重要なのだ。そして最終的に城を任せる。そして任せたい場所も決まっている。
保坂だ。高島郡の保坂を押さえたいのだ。ここに城を築きたい。鯖街道の東の要衝が保坂なのである。保坂で若狭街道と西近江路に分岐するのである。そう思うと水坂峠も押さえたいな。
高島郡を押さえる名目は足利義秋から貰っている。そして、それを進めているのは堀久太郎だ。久太郎と昌幸は懇意にしているのだろう。近くに居た方が都合が良いはずだ。
「住まいを用意させる。連れてきた一族郎党の数を後で伝えよ。新吉、其方が差配してやれ」
「ははっ」
しかし、甲斐の武田でも人材が豊富ということで頭を悩ませるのだな。当家でも妬みや恨みはあるのだろうか。誰かを贔屓している自覚は無いのだが、無意識下で優遇してしまっているのかもしれない。自省しよう。
そんなことを考えていると、またもや来客である。相手は沼田上野之助だ。気心の知れた仲である。直ぐに会うことを伝え、入室を促した。
「この間ぶりだな、上野之助。如何した?」
「はっ。実は某のもとに朝倉中務大輔殿がお越しになり、某にこのような手紙を」
上野之助を何故頼ったのか。それは十兵衛から紹介されており、信頼が厚かったからだろう。上野之助から手紙を受け取る。
「この文には目を通したのか?」
「はっ。通してございます」
俺も目を通す。内容は簡単だ。景鏡に執拗に責め立てられて困っている。義景も景鏡の肩を持つ。肩身が狭い。義景から若狭の武田に世話になるのはどうかと勧められた。悩んでいる。相談したい。
そんな内容の手紙であった。どうやら景鏡が上手く事を運んでいるようだ。景鏡の他者を蹴落とす、社内政治の上手さには感嘆しか覚えない。
「わかった。朝倉中務大輔景恒を此処に呼ぶことは能うか?」
「かしこまりましてございまする」
「もうな。包み隠さず全てを曝そうと思う」
「ほう。それは良きお考えかと」
俺がにやりと笑うと上野之助が顔色の悪い顔でにやりと笑い返した。それから五日後、朝倉景恒が俺のもとへとやってきた。
「お初に御意を得ます。朝倉中務大輔にございまする」
「うむ。俺が武田伊豆守だ。わざわざよく来てくれた。そのことを嬉しく思うぞ」
俺と朝倉景恒、それから沼田上野之助の三者で話し合いをしている。そう、他には誰も居ないのだ。そして周囲には黒川衆を配置させている。
「朝倉中務大輔殿、も少し近う寄ってはくれまいか?」
そう告げるとずずいと躙り寄ってきた。俺はもう少しとさらに朝倉景恒を近寄らせる。困惑した様子の景恒であったが、上野之助が頷いたのを確認すると、さらに詰め寄ってきた。
「実はな、朝倉式部大輔殿を後押ししているのは何を隠そう俺である。何故、俺がそのようにしているかわかるか?」
「は、え、わ、わかりませぬ」
突然の告白に困惑している朝倉景恒。その景恒に対し、俺はさらに畳みかける。考える隙を与えたくないのだ。
「其方の方が優秀だからだ。隣国に、国境に優秀な人材が多いと困るだろう。式部大輔殿も優秀ではあるのだがな、如何せん我が強過ぎる。国の為というよりは自分の為に動く節があるからな。その点も俺に好都合だ」
そこまで話して一度区切る。ここから俺は景恒を篭絡しなければならないのだ。ゆっくりと毒を彼の思考の中に混ぜていかなければならない。
「叔父上も薄情よな。優秀であった其方の兄ではなく式部大輔殿を優遇するとは。更にその式部大輔殿の言葉にまんまと嵌り、其方達を追い出そうとしている」
「それは……お言葉ですが伊豆守様がお手をお貸しになるからではございませぬか」
「そうだな。其方の言う通りだ。しかし、今は乱世。俺はどんなことをしても生き残る。家臣を守ってみせるぞ。このことを叔父上に告げても構わないと思っている。だから、俺は今、其方に全てを曝け出し、真実を語っているのだ」
もし仮に朝倉景恒がこのことを義景に伝えたらどうなるだろうか。まともに取り合ってもらえぬだろうな。景鏡を失脚させたいがための方便だと思われ、心証をさらに悪くするだろう。そうなればこちらとしても好都合。
「隣国は弱い方が脅威でないからな。そして俺は其方が欲しいから朝倉家から追い出させた。其方の才能を埋もれさせたくはないからだ。兄のように死なせたくないからだ」
そう言って俺は朝倉景恒に近寄り、その手を握る。朝倉家を弱体化させ、そしてその時が来たら彼らを旗印に敦賀を奪う。そのためにも家臣にしなければならないのだ。
「俺のもとに来い! 俺は叔父上のように其方の兄をむざむざと死なせたりはせぬ!」
目を見て気持ちを伝える。朝倉家への忠義と俺の気持ちを天秤にかけているのであろう。しかし、朝倉は其方の兄を死なせ、そして其方を敦賀から追い出すぞ。
「か、考えさせてくだされ」
「もちろんだ。俺はいつまでも待っているぞ」
朝倉景恒が俺の前を辞す。彼は小姓に送らせ、残ったのは俺と上野之助のみだ。俺は上野之助に尋ねた。
「果たして上手く誘いに乗ってくれるだろうか」
「どうでしょうな。しかし、越前では式部大輔が幅を利かせていると聞きます。恐らくは上手く行くかと」
「だと良いのだがな」
そう。俺は自分の命と家族の命、そして家臣たち、領民たちの命を守るため、生活を豊かにするために戦っている。そのほかのことなど、気にしている余裕はないのだ。
外を見る。景恒が遠ざかっていくのが見えた。果たして、彼は転んでくれるだろうか。そればかりが気になってしまうのであった。