淡海へと
若狭に帰るその道中、俺は沼田上野之助と細川藤孝の両名から懇々と有り難いお言葉をいただいていた。俺としてはただただ反省することしかできない。しかし、内藤重政が退いた今、俺を窘めてくれる人材は重要である。
「御屋形様、若狭に戻りましたら有職故実をとまでは申し上げませんが、礼儀作法をしかと学び直しましょう。今後、朝廷にて恥をかかないためにございます」
「左様でございますぞ。御屋形様の志は素晴らしいとは思いますが、それを成すためにはもっと学ばなければなりません。そのお手伝い、僭越ながら上野之助が致しましょう」
それからあれよあれよと俺の予定が埋められていく。確かに、一度ここで地に足をつけるのも大切かも知れない。理由は二つある。
一つ目は領地の内政に力を注ぎ、新たに盗った国を盤石なものにしなければならない。若狭武田の領地としたいのだ。そしてもう一つは広げたくても広げられないという事情である。
治められる人材が不足しているのだ。これ以上、無暗矢鱈に領地を広げることはできない。もし、広げてしまったら破滅を意味するだろう。
その二つの意味で雌伏の時なのだ。広げるとしても美作のみである。備中は難しいだろう。美作であれば草刈の縁でなんとか治めることは能うはずだ。
どうやら明智十兵衛、沼田上野之助、細川藤孝、黒田官兵衛、本多正信の五名が俺に色々と指導してくれるらしい。まだまだ勉強である。当主とはいえ、未だ数えで十五。まだまだ孺子と言われても仕方がない。
後瀬山城に帰ると、一人の男が俺の帰りを待ち侘びていた。蒲生賢秀の先触れである小倉何某であった。どうやら蒲生賢秀が俺に会いたいというのだ。
用件は理解している。手紙の件だろう。そして恐らく俺が足利義秋に会いに越前に向かったことも筒抜けのはずだ。俺は義秋派として蒲生賢秀と会うことになる。彼らも義秋派のはずだ。
小倉実隆に蒲生賢秀と会う旨を伝えてから五日後、本当に蒲生賢秀が俺のもとへやってきた。人払いを済ませ、俺と賢秀の二人で会う。と見せかけて武者隠しに本多正信を忍ばせている。
「お初にお目にかかりまする。蒲生左兵衛大夫にございまする」
蒲生賢秀と言葉を交わすのはこれが初めてだ。彼の父である蒲生定秀とは何度も言葉を交わしたのだがな。互いに悪態を飛ばしながら。
「武田伊豆守だ。以後、良しなに頼む」
「この度、伊豆守様にお目通り願いましたのは、この文に関してでございまする」
そう言って賢秀が一通の文を差し出した。俺が以前、蒲生定秀に送った文である。それを息子の賢秀が持って俺の前に現れた。そして核心を突いてくる。
「この文、六角家中を乱す御積もりにございましょう。案の定、右衛門督様は怒り心頭にございますぞ」
「ふふ。右衛門督殿がお怒りか。戦になるやもしれぬな」
六角が攻めてくるのならば好都合だ。俺の得意とする、防御からの逆侵攻を行うことが出来る。弱体化した六角相手にどこまで通用するか試してみたいものだ。
「ならないでしょう。お察しの通り、六角家中は乱れておりまする。いや、既に乱れていたという方が正しいかもしれませぬ」
やはり観音寺での後藤親子殺害が尾を引いているみたいだ。それを伝えにわざわざ来たとは思えない。これは蒲生が我らと六角を天秤にかけていると判断するべきだ。
「家督を弟の次郎左衛門尉様にとの動きも。このままでは六角は衰退するでしょうな」
賢秀ははっきりと言い切った。衰退すると。かつては栄華を誇った六角定頼の威光も空しく、六角も尼子のようになるのだろう。偉大な先人が築き上げてきた、その全てを崩してしまうのだ。
「盛者必衰か」
ぽつんと呟く。六角定頼、尼子経久、朝倉宗滴、そして毛利元就。彼らは偉大過ぎたのだ。偉大過ぎたが故に後進の者が受け止めきれなかったのだろう。いや、朝倉はどうなるかまだ分からんか。
「とは言え、それを俺に知らせに来たわけではあるまい」
「もちろんにございます。我ら蒲生を始め後藤、進藤、平井、三上、永田、池田などが六角から離反しましょう」
蒲生は重臣。後藤と進藤は両藤だ。平井は娘が六角義賢の養子になっている。六角六宿老の四氏が離反するとなれば大事だ。三上も永田も六角氏式目に連署している。池田は浅井に擦り寄っているようだ。
「ほう。其方も離反いたすのか」
「せざるを得ぬでしょうな。それほどまでに進退窮まっておりまする」
「しかしだ。其方の領地と此処とでは距離があり過ぎる。有事の際に味方にはなれんぞ?」
「承知しておりまする。ただ――」
「ただ?」
「伊豆守様は織田上総介様と懇意にされていると伺いまして」
ああ、成程。流石は蒲生だ。国衆というものを理解している。彼の腹はこうだろう。六角に従いつつも我らと織田とを天秤にかける。
六角で何かあれば俺が介入することが可能だ。六角は大叔父に当たるのだ。それを期待しているのだろう。そして織田も虎視眈々と西進を目論んでいるはず。
しかし、北畠が邪魔だが、六角の下にいる以上、北畠は攻めてこない。六角が瓦解すること。織田が西進することを見越して俺のもとにやってきたのだ。出来る。
「わかった。織田殿にお伝えしておこう」
「ありがとうございまする。今後とも良き関係を築いて参りましょう」
「そうかそうか。では我らからも頼みがある」
「何でしょう?」
俺は地図を引っ張り出した。畿内の地図だ。そしてある一点を指す。高島郡である。ここの調略を進めているのだが、芳しくない。我らと浅井を比べて値踏みしているようだ。
「ここを切り取って近江海に出たいのだ。そうすれば其方のもとにも向かいやすくなるだろう。何か良い手立てはないものだろうか?」
特に厄介なのが朽木だ。彼らを攻め滅ぼすことを足利義秋が許すとは思えない。そもそも世間が許さないだろう。そこで頭を悩ませているのである。
高島に朽木を攻めさせればと思うかもしれないが、高島に嫁いでいるのが三淵晴員の娘だ。細川藤孝の姉である。つまり、彼らも根からの幕臣なのだ。高島が朽木を攻めるとなれば、義秋が仲裁に入るだろう。
いくら高島が朽木の当主を討ったという禍根があるとはいえ、朽木と高島を争わせられない。義秋派となった以上、それは出来ぬしさせられぬのだ。
「何を迷われておられます。ならば、伊豆守様が盟主となられるのが良いでしょう」
「ああ、そうか。そういうことか」
目から鱗が落ちるとはこの事を言うのかもしれない。難しく考え過ぎていたようだ。高島七頭が義秋派だというのであれば、その名目で俺が庇護者になれば良いのである。そのために義秋を使うのだ。
「流石は蒲生殿」
「いえいえ、伊豆守様であれば遅かれ早かれお気づきになられていたでしょう。某からも高島と朽木に文を送っておきましょう」
「忝い」
どうやら蒲生とは良い付き合いができそうだ。蒲生もそれを感じたであろう。南近江が大きく揺れようとしていたのであった。





