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少女

01


 隣で横になっている、その少女は寝返りを打った所だった。


 *


「道、教えて」

 か細い、まるで今にもぽきんと折れてしまいそうな声で呟いた少女は十歳くらいにしか見えない。彼女は白い、貫頭衣を連想させるような衣装を着こなし、小柄な体で僕を上目遣いに見やり、僕にそう言った。変わった衣装だ。シンプルだし、この少女にとてもよく似合っているとは思うが……どこに行けば手に入るんだろう?

「なんで? ……電車の中で頼むことなのか? それ」

 彼女は服と同じくらいに真っ白な肌をしている。僕はとても不健康そうだと思った。しかし、彼女は何を目的としているのか……道に迷ったのか? だとすれば、なぜ電車の中にいる? 電車の降りる駅がわからなくて困っている、とかかもしれない。

 僕は午前中の塾を終え家に帰るところで、電車は空いている。さっきの駅で最後の客が降り、電車の中は僕と彼女の二人だけになっていた。

「……携帯貸してもらうのでもいい」

 彼女はか細いだけでなく感情もわからない声で、そう言った。

 十歳くらいの少女にあるべき元気や、表情の豊かさなどは何処にも見当たらなかった。

「電話? 道を教えるんじゃないのか?」

「……親に電話したいから。迎え」

 きっと彼女はコミュニケーションとか、そういうことをしたことがないのだろう。彼女の言葉の中で単語はぶつ切りになっていて、僕が彼女の言いたいことを理解するのには普通よりだいぶ時間がかかった。

「……でも、名前も知らない君に携帯は貸せないよ」

「——私の名前は皐月(さつき)。漢字で皐月」

 僕の言葉を聞いて、彼女はすぐに名前を言う。それが幼い彼女なりの誠意なのかもしれなかったが、僕から何としても携帯を借りようとする思いの表れのようににも感じた。

 皐月。旧暦の五月だったはずだ——今日は五月の初めの土曜日だった。その一致に、少し不気味さを感じる。

「あ……でも今携帯持ってない」

 嘘だった。

 僕は携帯を持っている。しかし、怖かったのだ。この謎の、全く意味のわからない、行動にも言動にも脈絡のない少女が怖かった。長く艶のある黒い髪、やや潤んだ黒い瞳、ほっそりとした四肢、その他体の部分全てが完璧に整っているこの少女がとても怖かった。

 まるで僕が『こんな少女が居たらいいよな』と想像するような少女がそのまま具現化したかのように思えた。だからそんな皐月のことを、僕は心から恐怖していた——だから、携帯も貸したくなかった。この少女に携帯を貸すことで、僕は帰ってくることのできない何処かに連れて行かれてしまうのではないかという気がしたのだ。

 でも——この時点で、きっと僕は手遅れだった。

 このがらんとして客のいない、昼間の電車の中に僕とこの少女が二人きりになってしまって、そして僕がこの少女を視界に入れてしまった時点で既にもう、僕は帰ることのできない何処かにいるのだ。

「そうなの?」

 少し残念そうに——あるいは、残念そうな声をわざと作っているのかもしれないとも思ったが、彼女は無機質に言った。僕は若干の罪悪感を覚えて、気分が悪くなった。

「ねえ」

 と、少女は言う。少女は上目遣いをやめて、僕の胸のあたりを見つめている。

「もし良ければ——なんだけど……」

 彼女が喋りだしたのを、僕は静止する。

「もう小学校も高学年だろう? 親に来てもらわなくても、大丈夫だと思う。地図が要るなら、一緒に地図を見てあげるから」

 このまま彼女の空気に呑まれてはいけない、と僕の本能が告げている気がした。

 しかし彼女に僕の言葉は全く届いていないらしく、彼女は僕の言葉が終わるのを待って、ただもう一度繰り返しただけだった。

「もし良ければ、君の家に連れて行ってほしい。……電話を貸してもらうだけなの、両親を呼ばなければならないから」

 とても小さな声だったはずなのに、彼女の言葉は僕に届いた。その言葉が僕に届かなければ良かったのに。——と思っても、しかし僕が彼女の言葉を聞いてしまったという事実は変えることができない。誰もいない静かな車内に、彼女のか細い声が響いていた。

 しかし、この少女は何を考えているというのだろう。携帯も貸したくない僕が、こいつを家に連れて行くと思うのか?

「分かった分かった、他の人に電話を貸してもらえるか聞いてみような、僕の家に着くまで探してやるから」

 それでも僕は精一杯の反応をしてやる。本当ならこんなことすらする必要はないのだ、だって最初の彼女の要求はただの道案内だったはずなのだ。

 でもなぜか僕は理解していた——彼女には逆らえないのだ、と。

 僕のその諦観を裏付けるように、僕は僕の家に帰るまでの間、一人の人間にも、どころか何の動物にさえも出会わなかった。街が妙に静かだった。僕の家の最寄り駅は無人だったが、それ以外にも、本当に誰にも出会わなかった。

 ——僕の住んでいる街はこんなに田舎だったか?

 彼女は頑なに僕の家まで付いて来て、そのまま僕の部屋に上がりこんでいく。

 土曜日だというのに両親とも留守で、家には誰もいなかった。

 その時僕は理解した。

 この少女が電話を欲しがったことも、両親に連絡すると言ったこともきっと全部嘘だ。

 彼女は僕の部屋にこうやって這入るためだけに、僕に声をかけてきたのだ。根拠のないただの直感だったが、なぜか確信していた。

 僕は静止を諦めて、ただ廊下にくず折れた。


 *


 それ以来——皐月は僕の部屋にいる。

 そうして、半年間が過ぎた。




02


 泣きたかった。しかし、ここで泣いたら、僕の中の何かが崩壊してしまいそうな気がして——僕は床を蹴る。

 一回ドン、という音がするたびに、突き刺すようなクラスメイトの視線は様々に変化した。恐怖、怒り、呆れ、嘲笑、後悔、そしてまた恐怖。僕は何も考えることもできず、机を蹴り続けた。

 ——ミナの顔がフラッシュバックして、僕の胸は張り裂けそうなほど痛くなる。

 こんなことになってしまったのは————全部皐月のせいだ、と思ったのと同時に、僕の瞳から涙が零れた。


 *


「食事とか……本当に取らなくて良いのか?」

 その日家に帰った僕は彼女に問う。何回尋ねた問いだかわからないが、納得できる答えを貰ったことは無かった。半年前、僕の部屋に住み着いた皐月が僕の部屋から出ていったり、あるいは僕の部屋に入ってくるところを僕は目撃したことがないので、おそらく彼女は僕の部屋から半年間一歩も外へ出ていないだろうと思う。

 僕は彼女に食事も与えていないし、風呂に入らせたり体を拭いてやったりしたこともないのだが、なんで今まで生きているのか不思議だった。とっくに餓死していないとおかしいし、異臭でもしていないとおかしいのに、なんでこんなに普通に暮らしているのか。

 気になって食事を渡すこともあるのだが、必ず断られていた。きっと、僕が学校に行っている間とかに、適当なものを食べているのだろう、と思うようにしている。

 皐月は実は人間ではなかった、という結論よりはよっぽど現実味があるだろう。

 臭いは……分からないが、あまり臭わない体質とかがあるのだろう。それとも、やはりそれも僕が学校に行っている間になんとかしているのだろうか。

 食事を渡しても絶対に興味を持たない皐月だったが、本にはとても関心を示した。彼女はよく、というか常に本を読んでいた。

 僕も本は好きな方なので、部屋には僕の本がたくさんあるのだが、彼女は常にそれを読み漁っていた。食事もしなければ部屋の片付けの手伝いもしてくれたことはないが、本についてだけは積極的になるようで、やや難し目の本でも、与えると読んだ。——読んでいる間も無表情なままだったが……。

「いい」

 皐月は長い時間、答えを考えていたようだったが、結局いつも通り短くそう言うことにしたらしい。

「いじめられている?」

 その話はもう良い、とばかりに、彼女は僕の方に向かってそう言った。その言葉に、何故か僕はデジャヴを感じる。

「なんだ? それ」

 僕は内心の動揺を隠す。僕がいくら皐月のせいだと思っても、それをこいつが知っているはずはないのに……なぜ僕の問題をこいつは知っているのだろうか?

「やっぱ、いじめられてるんだ」

 無機質な声が、僕を非情にも鋭く突き刺すように思った。

「そんなことは、ない」

 強く否定する。強く。

 それは彼女の言葉に対する否定であると同時に、僕の内心に対する否定でもあった。


 *


 ——半年前まで、僕は普通の男子だったと思う。

 普通に友達がいたはずだし、僕にこんな風にわかりやすく異変があって——教卓を蹴りつけるなんて異常だ——も心配してくれないなんてことはなかった。と思う。

「今日、一緒に帰れるか?」

 今から半年前——彼女が僕の部屋に上がり込んできた翌日のことだった。月曜日で、僕には普通に学校があった。

 その日の放課後、僕は友達に声をかけられた。……友達もいたのだ、その頃は。

 なんでも彼には興味のあるCDがあるらしく、僕にタワーレコードに一緒に来て欲しいのだという。オンラインで買えばいいだろうに、わざわざアナログにタワーレコードまで行きたいという彼のセンスが僕は嫌いではなかったが、しかし僕は彼の誘いを断る事にした。

 僕が部屋にいない間に、あの皐月と名乗る少女が何をしでかすのか、僕には想像もつかなかった。

「ごめん」

 僕はそう謝って、僕の家まで急ぐ。学校にいる間も、ずっと彼女のことばかりが気がかりだったのだ。

 学校に行く前、彼女には僕の両親に絶対に見られないように、と念を押してある。僕の部屋の中の、できればクローゼットの中に隠れてくれ、と言って大量に本を与えておいたが、彼女はどうするんだろうか……別に彼女に常識は求めていないが、ただ、なぜか僕の両親に彼女を見られるのはまずい気がした。

 なぜ連れて帰ってきたのか、と両親に聞かれても僕には答えようもない。まあ僕の両親は共働きだから、普通に考えて皐月を見られる心配はない。でも嫌な予感はするのだ。彼女が僕の部屋から出て、何か人類全体の不利益になるような悪いことでもしそうに思った。

「ふぁぁあ」

 帰り道——僕は徒歩下校だった——欠伸をする。半年後のことを思えば呑気なものだ。昨日は皐月をベッドに寝かせたので僕は床で寝たから、とてもではないが寝付けたものでは無かった。僕は眠くてよく働かない頭でぼんやりと彼女のことを考える。結局、皐月は自分の正体を明かしていないよな? あのくらいの年齢なら、親が探しているはずだろう。——しかし僕は彼女や、彼女の親のことを心配してはいなかった。彼女について、全く根拠なく大丈夫だという確信があった。

「居るかー?」

 家に着く。僕の部屋は二階にある。とりあえず一階から声をかけてみたが、家はしんとしていた。今は僕の家は両親がいないのでがらんとしているが、皐月がいなければおかしいはずだ。

「居ないのか?」

 若干の心配を覚えて、僕はもう一度、僕の部屋の方に向けてそう叫んでみる。しかし、何も音がしない。

「入るぞ」

 僕は僕の部屋に入る。一応、異性がいる……はずの部屋に入るのだから、ある程度デリカシーみたいなものはふまえておくべきだろう。

 ——彼女はいなかった。

「皐月?」

 部屋の中はしん、としている。

「皐月……」

 僕はだんだん心配になってきたが、もう一度正気を取り戻して、クローゼットを開ける。

「びっくりした?」

 彼女はそう、微笑んだ……その感情の無い顔の、唇だけが動いた。

 正直、僕はかなり驚いていた。クローゼットに彼女が居たことに驚いているのではなく、彼女が笑顔でいた事が衝撃だった。こんなに幼いのに一人で狭い場所に閉じ込められて……怖いとか、寂しい、とか思わないんだろうか……?

「はは、ははは……」

 本気で心配してしまった僕がとても恥ずかしかった。彼女はクローゼットの中から出てきて、大きく伸びをする。とても白い腕が脇から見えて、僕はそれに目を奪われてしまう。

「ずっとクローゼットの中で丸まっていたから。疲れた」

「……ずっと?」

「だって、君にクローゼットに居ろ、って言われたから」

 従順なのか狂的なのか……しかし彼女はまぁまぁ満足しているようだ。

「面白かった」

 傍に積まれていた本の大部分を返す。

「これ、もう全部読んだのか?」

「うん」

 赤毛のアンや大草原の小さな家みたいな児童文学も置いておいたが、大人向けの本もかなり読んでいるらしい。

「これ」

 そう言って彼女が指さしたのはミヒャエル・エンデのモモだった。なかなかセンスがあるな、と僕は感心する。

「面白かった、他の本も読みたい」

「ミヒャエル・エンデの他の本だな?」

 彼女はこくり、と頷く。

 この辺りは小学生らしくて可愛いのにな、と僕は思った。

 こうしている間にも僕の人生が取り戻せない物になっていくなんて、悲しいかな、その時の僕は知る由もなかった。

「今度、図書館で借りてきてやる」

「うん」

 彼女は微笑んだ。この微笑みは彼女の本心であるだろう、と僕は信じることにした。


 *


「昨日来なかったのは、やっぱ勿体無かったよ」

 彼はそう言っていたが、僕は行くわけにはいかなかったと思う。もしも僕があれよりも後に帰っていたら……本を読み終わった彼女が、何をするのか。わかったものではない。

「なにせ、ミナが居たんだぜ?」

「誰だよ」

「知らないのか?」

 なんとなく名前は知っていたが、その知っている名前の印象からして僕の苦手なタイプだ。だって下の名前に『ミナ』を付けるなんて、親がやさぐれている方だとしか思えない。源氏名かよ。

「この学年一の美少女で有名なんだぜ? なんで知らないんだよ、もうこの中学校も三年間通ったんだから、学年一の美少女のことくらい把握しろよ」

「ふーん」

 ばっかじゃねえの、と言いたかったが、黙ることにする。こういう男子のノリみたいなものは、反応すればするほどヒートアップする。

「興味なさげだな」

 彼は僕が無関心であることが納得いっていないみたいだったが、そんなの僕の知ったことではない。

「で、どうしたんだよ、ミナが」

「俺が買ったCDと同じCDを、ミナも買ってたんだよ!」

「たまたまだろ」

「たまたまでもいいんだよ。だって学校のマドンナなんだから……」

「お前、そういうキャラだったっけ?」

「会えば興味持ったはずだって」

「まぁ、会わなかったから、今更だけどな」

「で、なんだけどさ」

 彼の口調が、唐突に真面目になった。少し沈黙。

 さっきまでの話題の明るさとは打って変わって、こいつは人生で一番真剣な表情になっていた。

「誘っちゃった」

「誰を?」

「……なんで分かんないんだよ、ミナだよミナ」

「どこに?」

「タワレコだよ!」

「……良かったな」

 彼の緊張や感動や興奮でいっぱいいっぱいになっている姿を文章にするのはなかなか難しいのだけれど、一言で言うと限界オタクだった。

「好きなんだな? ミナのことが。女性として」

「……いや、そういう訳じゃないんだけど」

 どっちなんだよ。それで隠しているつもりなのだろうか?

「タワレコ。まじで。ほんとに、嬉しい。おんなじ歌手が好き、ってだけでこんなにお近づきになれるなんて」

 語彙を喪失したかのように、彼は興奮を顕わにしていた。

「で? 僕は何をすればいいんだよ」

「ついて来てくれ」

「ごめん、……今日も無理なんだ」

 話の流れで、大体想像はついていた。しかし、僕は皐月のところに行かなければいけない。

「なんだよ、今日も塾か?」

「うん」

 本当のことを言うわけにも行かないから、僕は塾に行くということにしている。

「塾なんか、サボった方がいいと思うけどなぁ……」

「っていうか、好きなんだろ? 一対一の方がいいだろ」

「いや、違うんだよ、昨日誘ったらさ、『他の人も誘ってもいいですか? よければあなたも誘ってください』って! 敬語なのはさすが清楚、って感じ」

「……うん。脈は無いかもしれないけど、頑張れよ」

 ここで行っておけば。行っておけば……とその後の僕が何回思ったか知れないが、ともかく僕は家に帰った。……そもそも、ここで行っても行かなくても、僕の未来は変化しないのかもしれないとも、最近では思う。

 とにかく僕は、学校図書館でミヒャエル・エンデの『果てしない物語』と『鏡の中の鏡』を借りていくことを忘れなかった。


 *


「どうも」

 彼女——つまりミナに会ったのは、六月の終わり頃だった。僕が住んでいるこの辺りでは梅雨真っ只中で、その日も曇りだった。

 昼間だというのに日の光はなく、嫌なことが起こるにはこれ以上ピッタリの日はないとすら思えた。

「初めまして」

 彼女に声をかけられて、僕はそう応える。

 ミナは名前の印象の通りちゃらちゃらしていると思った。髪は確か校則で禁止されていたはずなのに茶色に染めている。光の反射かもしれないが黒い部分もあるようだったので、地毛ではなく、本当に染めているんじゃないかと思った。

「……初めましてじゃないよ」

 彼女はやや不安げにそう言う。見た目はちゃらちゃらしているけれど、もしかしたら本当はそうではないのかもしれない、とぼんやり思った。

 しかし……これまでどこかで会ったことがあるのだろうか? 記憶の中にはないが……。

「覚えてないなら、別に良いけれど——」

 と、彼女は思わせぶりに呟いた。俯く彼女の顔はよく見えない。

「次は忘れて欲しくない」

 この時僕たちが会ったのは放課後、学校の中庭でのことだった。僕は皐月を待たせているから、本当はもっと急いで帰りたい所ではあったが、あいつの好きな人であるらしいミナがどんな人なのか、興味もあった。

「ねえ——」

 彼女はそのギャルのような雰囲気とは対照的にゆっくりと喋る。言葉を選んでいるみたいだと思う。

「なんで君は来なかったの?」

 ミナは言う。

「どこへ?」

「あの時——中井と一緒に来てくれなかったじゃない」

 そこで、僕は頭を鈍器か何かで殴られたようなショックを覚えた。彼の名前は中井だったらしい。こんなに仲が良いはずなのに、僕は友達の名前を知らなかった。

「あ、ああ、中井ね」

 なぜかそこで、皐月のことを思い出した。僕は皐月と初めて会った時、『名前も知らないお前』なんて言ってしまったけれど——本当は僕なんて、誰の名前も知らないのかもしれない。

「——大丈夫」

 唐突にミナはそう、静かに呟いた。

「何が?」

「……」

 ミナの言葉が誰に向けてのものだったのかは分からない。あとになって分かった彼女のその時の状況——相当追い詰められていただろう——を思えば、もしかしたら彼女自身に向けての言葉だったのかもしれないが、しかし僕は僕に向けての言葉だと思うことにした。

 名前なんて、名前を知っているということなんて大して重要ではない、と。

「あの、タワーレコードの時だよな」

 うん、と彼女は深く頷いた。彼——中井は僕が断ったことをわざわざミナに言った、ということになる。しかし、なんでその話を今されなければいけない? だって、それは僕と彼の問題であって、ミナとの問題ではないはずだ。——だがそんなことは、おそらくこの時のミナにとってはどうでもいいことだったのだろう。

 なんにせよ、確かに彼女は柔らかく微笑んでいた——その瞬間まで。

「あれは——塾があって」

「嘘よ」

 彼女はそこでだけ、言葉を選ぶ時間を作らずに、即答した。即答で、しかも断定した。

 彼女の微笑みは崩れた。目は鋭く——あるいは見る人によっては虚ろになったと思うかもしれない。そこで彼女の中の何かが決壊したのだろう、と僕は思っている。

 追い詰められて、彼女はそこから落ちていったのだ。帰ってくることができないほど遠くへ。

「私——聞いたのよ」

「……」

 物事が悪い方向へと進んでいるような実感だけがあり——ミナは最早戻ってこれないような先へ行ってしまっている事を確信する。

「君は、君の家へ帰った」

「それは、塾の道具を取りに……」

「……違う。塾なんて、無かったのよ」

「……」

 僕はここで、真実を打ち明けておくべきだったのかもしれない。しかしそうやって僕の嘘がばれてもなお、少女と同棲状態にあることの羞恥心が僕の身動きを取れなくしていた。

「塾がないのに……なんで私との行動を断って家に帰ったの?」

「……」

「……ずっと会いたかった、ずっと、ずっとよ? 何年間も……君を探していた。中井くんと君がとても仲の良いように見えたから、私は中井くんから君と接点を持とうとしていた——でも、それは間違っていたのね」

 彼女が言いたいことの、百万分の一も分からなかったが、しかし彼は本当にミナに脈は無かった、ということははっきり分かった。

「もう、いい」

 最初から最後まで、ミナは一方的だった。ミナは僕が進もうとしている方向とは反対方向に進んでいき、見えなくなった。

 しかし僕は、皐月を見張らなければならない——


 *


 家に帰って来た時、皐月はまたクローゼットの中にいた。

「なんか、この狭苦しい感じ、いいかもしれない」

 皐月の感覚はよく分からないが、『苦しい』と形容している時点で、あまり良くはないのではないかと思う。皐月はクローゼットの中から這い出てきて、大きく伸びをした。

「……?」

 クローゼットの中に違和感を感じて、僕ははっとする。

「卒業文集——読んだのか?」

「?」

 皐月は首を傾げてみせるけれど、その反応はきっと読んでいるんだろう。小学校の卒業文集なんて、三年後の今既に黒歴史になってしまった。にわかに恥ずかしさと怒りがこみ上げてくるが、しかし僕は彼女を叱ることができなかった。いや、むしろ彼女に感謝したいくらいだ。僕の中で点と線が繋がった。ミナ——小学校の時、同じ学校だったはずだ。

「はぁ……」

 小学校の卒業写真を見てみると、ミナは後ろの方の列で良い笑顔を見せていた。とても楽しそうな笑顔——あの鋭く、かつ虚ろな目をしたミナが本当に同一人物なのかとすら思えたが、でもそれ以外の特徴は一致していた。髪はその当時から茶色かったようだ。——もしかしたら本当に地毛なのかもしれない。そうだとしたら、悪い決めつけをしてしまったものだ。文集まで開くのはさすがに恥ずかしかったので、やめておくことにする。

「お役に立てたようで、何より」

 皐月はそう、言った。相変わらず感情のわからない、無機質な声だった。


 *


「なあ、お前風呂にも入ってないんだろ?」

 僕は皐月に尋ねる。僕は皐月を家から追い出すことを諦めたから、ベッドは二人で使うことになっていた。既に時間は十二時を過ぎていて、本当なら十歳くらいの彼女が起きていていい時間ではない。

 ……もしかしたら今の僕たちは添い寝とか呼ばれる状態なのかもしれないが、僕には関係のない話だ。他の人に見られていないのならなんでもいい。

「だから何?」

 彼女は『風呂に入る』という概念をまるで知らないんじゃないかというくらいせいせいと言う。

「僕のベッドなのに……風呂にも入ってない人が寝てるのはなんだかな、って」

「昨日は寝かせてくれたじゃないの」

「……まあ、それはそうか」

 僕は彼女に抵抗するのも面倒で、彼女を放って眠ることにした。

 彼女が背中に居るのを感じていたから、やはり寝にくいことに変わりはなかった。


 *


 次の日、いつも通りに登校したはずの僕だったが、どこか違和感を感じた。僕を指差して、小声で喋っている人がいるような気がした。

 もしかしたら昨日のミナとの会話について、良くない噂が立っているのかもしれない——なにせ、彼に言わせればミナは学年のマドンナらしいから。だがあの中庭に僕とミナ以外人は居なかったはずで、そんな噂が立つことはありえないだろう、きっと僕の勘違いだ、と僕は楽観的に考えることにした。


 *


「これ、面白い」

 と、皐月は言った。

 ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』だった。連作短編集で、ブラックユーモアと言葉遊びに塗れた、かなり大人向けの小説だが、まだ十歳くらいであるはずの皐月でもこの面白さは分かるらしい。

 僕も皐月ぐらいか、皐月より少し大きいくらいの頃に『鏡の中の鏡』を初めて読んだが、その時はあまりのおぞましさに若干えずいた。これは誇張ではなく、本当にとても強烈な本だった。

 だからこれを面白いと感じる十歳というのは、かなり異常だと僕は思う。

「他の本も待ってる」

 ミヒャエル・エンデの長編は、もう子供向けの『ジム・ボタン』くらいしか残っていないが、きっと彼女は好き嫌いを言わずに読むのだろうな、と僕は思った。

「——ねえ」

 唐突に皐月は真面目なムードになる。皐月は僕の目をじっと見据えた。

 思春期の男子として、異性にこんなにまじまじと見つめられるのはやや照れる部分もあるのだが——しかしどうやら、そんな風に冗談を言っていられるような軽い話題ではないようだった。

「君は死ぬことについて、どう思っている?」

「そりゃあ——死にたくない、と思ってる」




03


「死にたい」

 口に出したらきっと負けだと思っていたが、それでも口に出してしまった。ああ、僕は虐められているんだ。周りのみんなが僕を虐めている。きっとその原因はどこにもないんだろう、と僕は思っている。僕がミナのことを忘れていたこと、それにショックを受けたミナが僕を陥れるために僕についてのデマを流したことが直接の原因ではあるかもしれないが、しかしそれだけではない。

 誰かを悪者にすることで自分のポジションを守ろうとするクラスメイトたちにも問題はあるだろうし、そのクラスの問題に首を突っ込むのを嫌がる他のクラスの生徒や先生にも問題はあるだろう。積極的に助けを求めず、状況に流されるままにここまで来てしまった僕にも責任はある。

 しかし、原因を見つけることなんてできない。最早これはミナが始めたことから進みすぎている。僕とミナの関係など、この学年で僕を虐めている彼らのうち知っている人が何人いるのか?

「——やっぱり」

 皐月の言葉すら僕を軽蔑しているかのように感じられて、僕はとても辛かったけれど、同時にとてもありがたいとも思った。——僕が話す相手はまだここにいるのだ、と思えたから。


 *


 今日、僕は知ってしまった。——僕が床を蹴るほどに辛かったのは、そのことだった。ミナと、彼——中井は付き合っていたらしい。六月の末——つまり、ミナが僕を突き放したあの日。そしてミナが僕を陥れたデマとは、『僕がミナを強姦した』というものだったのだ。

「死ね」

 とだけ言って、彼は僕の前から一方的に去ったのは、一ヶ月前のことだった。その時おそらく彼は僕がミナを強姦したというデマを掴まされたのだろうと思う。きっとミナ本人からだ。

 それが確信に変わったのが今日の朝だった。僕の耳に、ひそひそ話が聞こえてきた。

「——あいつ、ミナを犯したやつ?」

「そう、中井の彼女なのに——酷いよね」

「ミナも可哀想だよ、あんなやつに穢されたなんて——中学生だよ? まだ」

 僕にはもうそれを愚痴る相手もいないのだと気づいた時——僕は思わず、床を蹴っていた。

 ドンッ、という音が教室に響き渡る。休み時間でついさっきまでガヤガヤしていた教室は一斉に静まり返る。それでも、僕は蹴るのをやめなかった。僕の心は羞恥でボロボロで、もう家に帰りたい、帰りたいと念じながら——それでも僕は黙ったまま涙も零さずに床を蹴り続けた。

 気付いたら、今日の学校は終わっていたが——しかし、心の中は罪悪感で一杯だった。被害者は僕のはずだというのに——それでも、皐月を加害者だと信じてしまう僕のことが僕は嫌だった。こんな風になってしまった原因を皐月に求めたい、と思ってしまう。そんな自分が恥ずかしくて、辛くて、苦しくて、死ねばいいと思っていた。

 さっき言ったことと矛盾するけれども、客観的に見れば悪いのはミナなんだろう。だって、僕について根も葉もない噂を立てたのはほぼ確実にミナだ。半年間、それを信じるに足る色々な証拠を見てきてしまったからだ。

 でも僕はミナを悪者にしたくはなかった。あの時僕をタワーレコードに行かせない原因を作った、この小さな少女を悪者にしなければ、僕の自我は保てない、と分かっていた。

「もう君は——分かっているはずよ」

 放課後の中庭——ミナは僕にそう宣告する。

 僕がなぜミナにどんなに虐められても救いを求められなかったのか、それはつまり。——僕はきっぱりとミナに言う。

「僕はミナが、好きなんだと思う」


 *


 卒業文集を読みたくなかったのは、僕が書いた作文の内容が恋愛についてだったからだ。そしてその相手はミナだった。

 ミナは小学校の頃、いつも輝いていた。その頃はまだ学年のマドンナと言うほどに一目置かれる存在ではなかったが、僕が一目置いていた。

 なぜ僕は彼女のことを忘れてしまっていたんだろう?

 僕はあんなにも彼女のことが大好きだったはずなのに。しかし、僕はこうやって思い出した——彼女の記憶を、思い出した。ミナを思い出した。

 卒業文集を引っ張り出して、読む。手書きの文章をコピーしただけの文集は読むに耐えないほど醜い字だったが、それでも当時の自分の記憶がはっきりと蘇ってくる。

『僕には好きな人が居ます』

『名前を出すのは控えるようにと先生に言われてしまったので書けませんが、茶色い髪がとてもきれいな同級生です』

『とても楽しい思い出で一杯です』

『授業中、彼女が寝ていたのを鉛筆でつついて起こしたこと、ドッヂボールで男女混合で試合をした時に男子の僕が彼女に当てられてしまったこと、はにかんだ笑顔、怒られた時の泣き顔、眠そうな顔、彼女と一緒だった全ての時間が宝物です』

『……同じ中学校に進学できることになって、僕はとても嬉しい』

『僕たちの楽しい思い出を、僕は中学校になっても、大人になっても、ずっと忘れたくない』

 どうして——どうして、忘れてしまっていたんだろう。

 僕は卒業文集を乱暴に床に置いて、そのまま駆け出していた。五分くらい走ったあと、僕の足が学校に向いていることに気がついた。まだ完全下校時刻ではないから、今から行けばもしかしたら彼女に会えるかもしれない、と思っていた。

 僕は涙を拭く手間も惜しく、泣きながら走った。ミナがもしも学校に居なかったら——なんて、考えようともしなかった。

 僕は風になったような気持ちがした。今ならどんなに走っても疲れないと思った。

「ミナ!」

 ミナは——学校の中庭に居た。

「僕がもっとミナと話していればよかったんだ」

 僕は彼女に向けて叫ぶ。

 日はもう沈み始めていて、夕焼けが彼女の後ろに広がっていた。

 息が上がっていてまともな声は発せなかったが、きっとミナには伝わっていると信じて僕は必死に叫んだ。

「ミナの気持ちを考えられなかった僕が悪かった、話す機会を設けようともせず、ただ目の前の少女のことくらいしか考える余裕のなかった僕が悪かった!」

「……」

 彼女はぎょっとしたような目で、僕を見据えた。彼女の目は虚ろだとは思わなかった。ただ驚きで、大きく見開かれていた。

「——好きだ!」

「……ごめんなさい」

 彼女はそう、僕に言った。

「ごめんなさい!」

 彼女は、僕に深く、深く、……ずっと頭を下げていた。

「大丈夫なんだ」

 僕は彼女にそう、言った。

 これは彼女に対しての『大丈夫』なのだろうか……それとも、僕に対しての『大丈夫』なのだろうか?

 でも、——少なくとも僕は大丈夫だ。

「本当に……本当に、ごめんなさい」

 ミナはずっと頭を下げていた。

「もう、良いから」

 僕は彼女にそう言う。

「頭を上げて」

「でも……」

「いいから」

 僕はもう、覚悟を決めていた。今から彼女が言う言葉に、きっと僕は泣いてしまうだろうけれど……僕はそれを受け入れられる。

「ごめんなさい。君とは、もう付き合えない」

 僕は頷く。


 *


 このようにして、僕の半年間は終わった。

 中井とミナは別れたらしい。その後、僕は中井とまた話す機会を得た。関係はギクシャクしたままだが、それでも僕は学校に話し相手を得ることができた。

 僕は今でもこうやって、死なずにここにいる。学校も休まずに登校できている。

 きっと僕なんか、恵まれている方なのだろうと、冷静になってみれば思う。僕よりも救いようのない、僕よりも原因のわからない、僕よりも辛いいじめはきっとあるのだろうと思う。——でも、こんな陳腐で適当な言い方でまとめてしまうと語弊は生じるかもしれないが……きっと、時間が解決してくれる。僕みたいに。




04


「結局——誰なんだ?」

 クローゼットから出てきて伸びをしている皐月に、僕は尋ねる。

 僕はいつの間にか高校生になっていた。今はちょうど五月だった。

 皐月と出会って、そろそろ一年が経とうとしている。

「誰のこと?」

「お前のことに決まってるだろ。お前は一体——誰なんだよ」

「そんなこと」

 彼女は微笑む。相変わらず感情のない顔をしていたけれど、でも今は少し楽しそうだった。

「自分の心に聞いてみなさい?」

 彼女に説明する気はないらしく、それだけ言うと僕の背中を回って、扉のドアノブに手をかけた。

 彼女はこの部屋に来て初めて——初めて僕の部屋を出ようとしていた。

「もうこの家の本は全部読んだはずだから——」

「そうだな」

「出ていくわ」

 彼女はドアノブを回しながら、僕に言った。

「私が家を出たら、もう一度鍵をかけ直しておいたほうが良いと思うわよ」

「分かった」

 僕は彼女に二度と会えないと確信していたけれど、でも名残惜しいとは思わなかった。

「——さようなら」

 僕も、彼女に返す。

「さようなら」

3日で書いた。疲れた。

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