第8話 平穏への帰還 その3
部屋に荷物を放り込んで一階に降りようとすると、すでに食欲を誘う匂いが二階にまで届き始めていた。
ぐう、となる腹を押さえながら階段を降りると、クロはカウンターの奥の方にちんまりと座っている。
水洗いしてきれいになった黒い頭をポンポンと軽くたたいて、左隣の席に腰を下ろす。
「クロ、お前こっちはイケる口か?」
あおるような仕草で問いかけると、大好きニャと返事が戻ってくる。
それを聞いてから、カウンターのおやっさんに注文。
メニューは選ぶほど多くない。
「日替わりと麦酒、あと腸詰を焼きで二つ!」
「あいよ」
おやっさんの野太い声は不愛想だが慣れたもの。
注文を受けてすぐに女将さんが料理を運んできてくれた。
「ほら、アンタらちっこいんだからたくさんお食べ」
「う~っす」
「いただきますにゃ」
本日の日替わりは黒パン二つと大椀の特製スープ。
献立はいつも同じだが、スープの具材が毎日変わる。
今日はたくさんの野菜がくたくたになるまで煮込まれたもののようだ。
そこに泡たっぷりでなみなみと注がれた麦酒で満たされた大ジョッキが二つ追加される。
「腸詰はちょっと待ってくれ」
「あ、ジョッキはこっちに」
注いだりよそったりするだけのものは早く出せるが、
オレ達以外にも飯にありつこうとする連中が増えてくるこの時間帯、
手間のかかる料理は後回しになりがちだ。
何しろ、どいつもこいつも腕自慢の荒くれ達、それが大挙して腹をすかしているのだから。
「にゃっ、吾輩のお酒……」
目の前を通りすぎてゆくジョッキを見て悲しそうな声を上げるクロ。
「まあ、ちょっと待ってなって」
二人分のジョッキを横に並べ、両手を添える。
――凍らせてはダメ。でも遅すぎてもダメ……
両手に少しずつ魔力を集中させ、詠唱を始める。
「我が手に集いし氷雪よ、彼の者を凍てつかせよ!」
魔術士という奴はたいてい魔術をもったいぶるもんだが、
役に立つなら日常でもどんどん使えばいいと思うのだ。
「『氷結』!」
息を潜め、力加減を調節して魔術を行使することしばし、
「よし、これでいい」
冷たいから気をつけろよ、と片方のジョッキをクロに渡す。
受け取ったジョッキが発する冷気に声を上げるケットシー。
「ほい、腸詰の焼き。あがりだ」
ちょうどいいタイミングでカウンターから差し出される皿。
白い皿の上に乗せられているのは、香ばしく焼かれた二本の腸詰。太い。
「んじゃ、ダンジョンからの生還とパーティの結成に乾杯!」
「乾杯にゃ!」
コン、とジョッキを打ち合わせて口に運ぶと、程よい苦味と酸味。
冷たい液体が喉を通るその感覚。
腸詰にかぶりつくと皮がプリッとはじけ、中から溢れ出る熱々の肉汁が口中を焼く。
そこにもう一度ジョッキから麦酒。
「くはぁ~、こりゃたまらん!」
止まりませんわ、こりゃ。
「ふはふは、あちゅ、あち、んぐんぐ……プハ―――――ッ!!」
瞬く間に腹の中に消えてゆく腸詰。喉を通る麦酒。
「カーッ、美味い。この一杯のために生きてるなぁ」
「魂に染みるにゃ~」
あっという間に空になるジョッキ。
二杯目は水を頼むと、隣のクロがもじもじしながらこちらを窺ってくる。
「ご主人、吾輩……」
「おやっさん、水と麦酒ひとつづつ。あと腸詰追加でお願い」
「あいよ」
「にゃー!」
嬉しそうに鳴く黒い毛玉の頭をごしごし。
「今日は奢りだから、ぐ~っといけ!」
「ご主人はいいのかニャ?」
「ん、まあな。オレの分もお前が飲んでくれりゃいいってことよ」
酒は正直最初の一杯ぐらいで十分な質だ。
「……しからば、遠慮なくいただくにゃ!」
椅子の上で珍妙なポーズを決め、厨房の方をそわそわして待つ相棒を眺めていると、
「ポラリス、ちょっといいか」
と、おやっさんから声がかかる。
声のトーンは飯屋のものではなく、仕事のソレ。
ちっとばかり緊張するも、聞かないという選択肢はない。
「ん、何?」
「ああ、お前がいない間に『金竜亭』のお嬢さんが来てな」
ごつい顔に苦笑を張り付けているおやっさん。
もう慣れっこといった風に。
――またかよー!
「見合いならいらねー。オレもうコイツと組んでるし」
隣のクロの頭をワシャワシャ撫でる。
「見合い? ご主人嫁に行くにゃ?」
「ちげーよ。まあ、何というか、引き抜きみたいなもんか」
『金竜亭』はアールス最大の宿。
街の中央通りに居を構える大店であり、
この『緑の小鹿亭』とは規模も人員もケタ違いのスケールを誇っている。
オレも時々足を延ばして仕事を探したりはするのだが、
そこの受付であるアニタに顔を憶えられてしまい、
あちらの若手のグループにオレを組み込もうと何度となく話を持ち掛けてくる。
他の宿ならこんな引き抜きは言語道断だが、『金竜亭』は別格。
その設立にアールスの行政府が噛んでおり、実質的に街の宿屋のまとめ役のポジションにある。
ほかの宿の人間からすれば、『金竜亭』に対してなかなか文句が言いにくい状況なのだ。
アニタはいい奴だけど、その辺の自覚が抜けているような気がして、
他人事ながら心配になることもある。
先日まではこちらが一人だったせいで断る文句を探すのも一苦労と言った有様だったけど、
今のオレはもう一人ではない。
「明日にでも顔出して、ちゃんと断っとくよ」
コイツ連れて、と顎でクロを指す。
「面倒掛けてすまんな」
正式な街の住人であるおやっさんにとっては、
バックに行政府がちらつく『金竜亭』には、表立ってなかなか反対しづらいところだろう。
その辺は流れ者のオレがやればいい話だ。
「というワケでさ、最近なんか旨い話ない?」
楽して儲かる奴、と話題転換のために尋ねる。
「あるか、そんなもん」
即答であった。
宿の住人に仕事を振り分けるのは、基本的に店主の役目。
そうやって仲介料を受け取るおかげで、宿泊費が低く抑えられている。
その分さらにサービスを充実させて、実力者を呼び込む。
この回転が上手く行っている間は、宿の運営は安泰だと前に耳にした。
「……そうさなぁ……」
おやっさんがおかわりのジョッキと腸詰をカウンターに置くと、早速クロが短い両手でジョッキを押し付けてくる。
よほど冷えた麦酒が気に入ったらしい。
再び『氷結』の魔術を行使して冷え冷えの麦酒を渡すと、アツアツの腸詰と併せて舌鼓を撃ち始める。
……ピッチ早えぇな、コイツ。
「ひと探しの話がある」
「ひと探し?」
「ああ、確か帝国の貴族のお嬢さんだそうだ」
「なんじゃそら」
ここアールスは聖王国の辺境。
帝国との最短距離は東の『恐怖山脈』に阻まれているため、
あの国からここへ来るには聖都を介して大幅な回り道が必要なほど遠いはずなのだが。
わざわざ追っかけてくるとは……
「そんな遠くからご苦労なこった」
おやっさんが言うには、ターゲットの年のころは十代半ば。
桃色の髪をした貴族のお嬢さんらしい。
知らず、己の髪を指先で掴んでしまう。
……鏡を見るまでもなく、オレの年齢は十代半ばで髪の色は桃色だ。
「オレがそのお嬢様だ、って言えば賞金貰えるかも?」
冗談半分に聞いてみれば、
「……無理だな」
またも即答。
「なんだよ、傷つくなぁ」
これでも乙女なんだぜ、一応。
こちらの内心を知ってか知らずか、おやっさんは『仕方ないだろうが』と前置きして続ける。
「何とそのお嬢様は……召喚術士らしい」
「へー」
思わず声が棒になる。
「確かに見た目はお前さんそっくりかもしれんが、召喚術士の証である『本』が出せなきゃすぐバレる」
貴族相手に嘘をつこうものなら、その場で首を刎ねられてもおかしくない。
「そりゃ無理だな。でも何でそんな話をオレに?」
「あん? そりゃまあ、お前も一応年頃の女だからよ」
なんか心当たりはねぇかと思ってな。
まったくもって期待してないと言わんばかりの態度がちょっと傷つく。
「残念ながら、流浪の貧乏人に貴族のお嬢様の考えることは分からんよ」
だよなぁ、と頷いて厨房に戻るおやっさんの背を見つめる。
横から送られてくる何か言いたげな視線を無視してスープを啜っていると、
透きとおるような声が、オレの背後から。
「ポラリス、戻ったの?」
振り向くと、そこには細身の人影。
銀色の髪からぴょこんと横に飛び出した耳は、ほんの少しだけ鋭角を描いていた。